幼馴染みが部屋に入ってきた時に彼は
内城希はいつも思う。
増田家の食事は豪華だ、と。
希の両親は朝早く、夜遅い。
故に、娘を早く起こしたり、遅くまで待たせて温かい食事を共にとるべきか。ゆっくり寝かせて一人で気楽に食べてよいと言うのが良いのか、迷った。迷った末に、幼い頃から仲のよかった増田家に任せてしまった。
だから今では、希は増田家と共に食事をとっている。
むしろ、彼女がくることがつい豪華になってしまう理由であった。本人はそれには気がついていないのだけど。
だらしない息子よりも、お隣の可愛らしく健気で毎朝きちんと一人で起きてきては礼儀正しく「今日もご馳走になります」と身なりを整えてやってくる彼女の方が愛らしいのは当然のことで。
増田家は一人分増える手間よりも、そのことを喜んだ。費用は払うとか、希に買い物に行かせてやってくれという希の両親の要求すらはねのけ、こうしてあれやこれやと好みまで聞いて、希はもはや家族同然の扱いだった。
息子自身、それを、その気持ちをよく分かっていたからこそ不満はなかった。ただ——
「希ちゃん、ご飯だから駆を呼んできてくれない?」
「わかったー!」
「ほんと、いい子ね。このままうちの娘になっちゃえばいいのに」
「私、みんなのことも家族みたいに思ってるから!」
「あーんもう!」
いつものやり取りを終え、希は二階の部屋へと向かう。
そう、これこそが息子――駆が少しばかり、気にしていることでもあった。
あまり汚くしていると幻滅されそうで気になるし、かといって意識しすぎると疲れる。
同い年、仲のいい女子がことあるごとに部屋に来るということはつまり、そういうことだ。
そのようなあたりでうまくバランスを取れるようになるまでは、意外に時間はかからなかった。
希もまた、ご飯を食べさせてもらう代わりに幼馴染を起こしたり、呼びに行くぐらいは当たり前になっていて。
だから、今日も今日とて何の警戒もせずに、扉を開けた。
「あっ……」
「何してるの?」
「ああ、いや、これは……」
駆が固まっていた。
片手にはティッシュが握られ、椅子に座って前屈みになっている。鼻息荒く、いわゆる変顔とも呼べる状態で部屋に入ってきた希を見た。
希も希で、何をしているかに気がついて逆に冷静になった。
「見りゃわかるだろ、抜いてるんだよ」
「ああ、うん、ごめん」
「で、どうしたんだよ」
「ご飯だって」
「今行く」
駆は先ほどまで片手に持っていたティッシュを無造作にくしゃりとまるめて捨てた。
希は先に行くから、といって部屋を後にした。
今まで長く生活を共にしてきたが、今回のような光景を見るのは初めてだったものだから少し戸惑っただけだった。よくよく考えれば、処理するのは当たり前のことだ。これまでも気づいていなかっただけで、時折こうして抜いていたのだろう。
二人は何も無かったかのようにご飯を食べた。
◇
とはいえ、二人の間には僅かに気まずさがあった。
かといって、それをあからさまに両親に見せるつもりもなく、出るまでは普通に過ごしていた。もちろん、いつものように一緒に学校まで通う。
家を出たところで、にやりと口角が上がる。
「もう、生えてたんだね」
あえてその気まずさを払拭させるように、希が明るく切り出した。
「恥ずかしいだろ、掘り返すなよ」
「えー別にいいじゃん、見られて減るもんじゃないのに」
「まあそうだけどよ。ま、俺も大人の仲間入りってことだな」
「私知ってるんだから。大人の人はあのヌルヌルするゼリーみたいなヤツとか使って、機械でやるんでしょ?」
「バカ、俺にはまだ早いよ」
「バカって言った方がバカでーす。ちっちゃい頃はツルツルだったのになー」
「そういうお前こそどうなんだよ、女子もするんじゃないのか?」
「バカ! 女の子にそんなこと聞く?」
「理不尽だろ! 俺は聞かれて良くて、お前はだめなのかよ!」
「女子はしませーん」
「へーほんとかー? お尻のとかしてんじゃないのか?」
「してないから! ま、まあ、友達の中にはしてる子もいるのかもしれないけど……」
「まあ、お前はしてなさそうだよな」
言葉に詰まった希の顔を見ながら、駆はデリカシーのないフォローにもなってないようなことを言った。
「はい、終わり! この話やめ!」
顔を真っ赤に両手をブンブンとふって止めるものだから、駆もそれ以上追及することはなかった。
◇
学校の教室、一人まじまじと顎を撫でながら不満そうな駆に声をかける者がいた。
「どうしたよ駆、何がご不満だ?」
「いやぁ、朝中途半端なところで止められてしまってよ」
「おお、朝からお盛んですな? ちゃんとスッキリ抜けたか?」
「ん? それがな……最後までいきたかったんだけどな」
「で、なんで止められちまったんだよ? 親から呼ばれたか?」
「それならまだ良かったよ。希のやつに」
「ほんとうらやましーよな、あの内城さんが毎日ご飯を食べに来るとかぜいたくもんめ!」
「や、だからその希に止められちまったんだよ」
希に止められた。
少し抽象的な表現を使う駆に、友人は自分の想像と食い違いがあることに気がついて問いを重ねた。
「え? 声かけられただけじゃなかったのか?」
「あいつさ、ノックもせずに部屋に入ってくるからばっちり見られちまったよ」
「見られたって……何を?」
「だから、抜いてるところ」
「はっ? ……えっ? 内城さんの反応は?」
「大した感じじゃねーだろ、そりゃ。生えてたんだ、くらいのもんだよ。俺だって男だし、この年齢だ。おかしくはねーだろ」
「いやいやいやいや何言ってんだよお前」
「で、俺もさ『お前はしないの?』と聞いたわけだが——」
「このセクハラ野郎!!」
友人は駆を問答無用で殴った。
「いってぇ! なにしやがる!」
「聞くもんじゃねえし、聞きたくもねえよ!」
「いや、確かに配慮は足りなかったが俺だって軽くからかわれたんだからいーだろ別に! それに、してるかどうかぐらい顔見りゃわかるだろ!」
「わかるか! このド変態が! なんだ? 俺は希とラブラブだからこれぐらい以心伝心ですよって惚気か? ああ?」
そんなやり取りと共に、その休み時間は潰れてしまったのであった。
◇
希は昼が近づくにつれ、自分を見る目がおかしいことに気がついた。
ヒソヒソと、友達から内緒話と共に何やら好奇の視線が向けられている。
何があったのだろう、と目が合うと友達の一人が声を潜めて聞いてきた。
「ねえ……あの噂って、ホント?」
「噂?」
「増田くんの、見たって」
「はぁ? 駆ってば自分で言いふらしてるの? 恥ずかしいって言ってたじゃん」
「えっ?! ほんとなんだ?!」
「えっ……抜いてるとこだよね?」
「そうだよ?」
「ちょうどばったり出くわして、ちょっと気まずかったぐらいだから!」
駆が処理しているところを初めて見たので、少し驚いたのである。
久々にまじまじと見て、小さい頃より成長してるのだなぁと感慨深くなっていたぐらいだった。
そんな希とは裏腹に、友達はやたらとテンションが高かった。
「えっ……で、どうだったの?」
「小さい頃はツルツルだったのに、もうこの年にもなると生えるんだなーやっぱり、ぐらい?」
「ええええ……」
「いや、男子だしそれぐらい普通じゃ……しないものなのかな?」
「知らないし! 私まだ小学生の弟しかいないから」
そのような会話をしていたものだから、ばったりと通りかかった先生に聞き咎められてしまう。
「内城」
「あ、山田先生、もしかして……聞かれてました?」
「……ばっちりな。本当だったんだな。噂程度なら放置しておくつもりだったが、お前共々少しきてもらえるか?」
「えっ? なんですか? なにが……」
「大丈夫だ、増田も既に呼び出している」
「いってらっしゃーい」
「裏切り者ぉぉ!!」
ヒラヒラと手を振って友人は希を見送った。
理不尽に連れていかれる自分を見捨てたことを、明日までは決して忘れまい。
具体的には明日の弁当のおかず一品で許してやらんこともない。
食いしん坊キャラを遺憾無く発揮し、なされるがままに連れていかれた先はなんと生徒指導室。職員室と薄い壁一つ隔てて、半分同じ部屋にある一画をそう呼ぶ。
髪を染めたことも、ピアスをつけたこともない。万引きもしてない。模範的な生徒である希にとって、たとえ考えすぎだとしても緊張感のある部屋であることには変わりなかった。
先生の顔には怒りはなく、むしろ苦笑いと哀れみのこもった目であった。椅子に座って気まずそうに切り出した。
「お前ら、なんでここに呼ばれたかわかってるか?」
「いえ、さっぱりわかりません」
「どうしてですか?」
即答すると、額に手を当て、「これ本気だなぁ……だよなぁ……」とボヤいた。
「あのな、内城。増田も男子だ。保健体育でも習ったと思うが、お前らの年齢は第二次性徴期を迎え、男女差が出てくる。その体の変化についてバカにしたり、からかったりしちゃダメだからな。お前のことだからそんなに酷いことはいってないと思うが」
「生えてたんだ、とかもダメですか?」
「まあ、本人が気にしてなさそうだし、いいけどな、今回は」
増田は「お前、また言ったな!」などと小声で抗議するも、その顔は怒っていないことがありありとわかる。
「で、増田もな。別に恥ずかしいことじゃない」
「や、そこまで恥ずかしがっては……」
「言いふらしたりしてないよな? 内城」
「失礼ですね、噂の出処は本人ですってばー」
希はあらぬ疑いに口を尖らせる。
「うっかり俺が口を滑らせました」
「そうか……今回お前らを呼んだのはな、噂が広まったからだ。このことで、その手の話題に敏感な年頃の奴らがいらん刺激を受けんとも限らん。お前らみたいに平然としてくれりゃ楽なんだが……」
「みんなたいそうだな。たかが——」
「増田、お前からしたら大したことじゃないのかもしれないが、気にするやつはいるんだ。だからオナニーについてあまりそういう言い方は——」
「は?」
「えっ?」
「んっ?」
三者三様にピタリと止まった。
そして三人のうち、駆が先に何を誤解されていたのかということに気がついた。
「馬鹿! 先生、俺髭抜いてただけだよ!!」
「えっ、あっ……!」
先生は謝った。
それはもう見事に謝った。
人の背丈ほどの小さな壁の向こうから見ていた年配の男性教員が笑い転げ、女性教員はそっと知らないフリをした。
少なくとも、気がついた二人は顔を真っ赤にして自分たちが口走ったことを思い返し、周りの反応の理由を悟ってその午後は机につっぷして授業が手につかなかったとか。