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マリオネットに、花束を

作者: 松本 ゆり

 時間の流れというものも、恐ろしいものだ。


 ついこの間までまだ高校生だったというのに、気づけばもう二十歳を超えていた。二十一。

 人生での体感時間は二十歳で折り返し地点だと言われているが、あながち間違いではないのかも知れない。大学に入学してからの二年間は、文字通りあっという間だった。よく大人が言う、一年なんてあっという間に過ぎる、には半信半疑だった私でも、大人になってみて、その言葉が正しかったということを痛感している。

 そして、年齢は重ねているのに、中身は全く成長していない。これも大人がよく言うことだが、まさか自分にも当てはまってしまうなんて、当時の私は考えてもみなかっただろうな。

 それもそうだ。子どもの頃なんて、自分の周りのーーせいぜい学校の中だけが、自分の世界の全てなのだから。大学に入って多くの人と出会い、さまざまな考え方に触れ、当時の私がどれだけ井の中の蛙だったかを思い知った。でも、社会に出てみれば、それもまた浅い考え方だったと思うのだろう。




 本当に偶然というものは存在するのだな。その時の私はただそう思っていた。

 目の前にいる高校時代の恩師は、少し白髪が増えたようにも思えたが、もう四十代とは思えぬほどの若々しさを保っていた。高校時代に、何かのスポーツクラブの顧問をしていたと記憶している。そのおかげかも知れない。あの頃と何も変わらない様子で話しかけてきた。


「お久しぶりです、澤村(さわむら)先生。その節はお世話になりました」


 私の何でもない挨拶に、ひどく驚いたような顔をする。

 当時の神田(かんだ)からは想像もつかないな、あの頃はそんな表面的な挨拶は嫌っていただろう。この二年で随分と大人になったんだな。そう言われて少し笑った。


「あの頃はいろいろあって、周りに反発していただけですよ。今は、そんなこと考えもしませんし」


 その説明に、少し納得のいかないような顔をされた。澤村先生は話題を変えると、なぜ今日駅に来たのかを話した。

 来年度から、研修のため隣県に行くことが決まったそうだ。その挨拶のために先日から隣県まで足を運んでいて、今日帰ってきたところ、偶然私を見かけて声をかけたと言った。


「初めは神田だと気づかなかった。見た目も変わっていたし。大学はどうだ? 哲学、あれほどやりたがっていただろう」

「ええ、まあ。楽しいですよ。先生は今でも、K高校に?」

「まあな。あそこも相変わらずだよ。何も変わっていない。ーーそうだ、つい先日、伊東が学校に顔見せにきたぞ。ほら、三年のときクラスにいただろう。お調子者の。髪金髪にしてて、驚いたなあ。神田も、たまには顔見せに来たら。ほら、仲の良かった木村(きむら)も、ときどき来ているみたいだし。木村とは、会ってるのか?」

「いえ……忙しくて、なかなか」


 そうか、と先生は、これまで饒舌だったのが嘘のように黙り込んでしまった。


「神田は、この後暇か」

「ええ」

「よし、じゃあ飲みにいくか。もちろん俺のおごりで」

「え……いいんですか」

「気にすんな。今日は飲むぞお」


 お人好しな澤村先生のことだから、きっと元気のない私の様子を見て、いてもたってもいられなくなったのだろう。




 居酒屋はあまり好きではない。お酒を飲んで自分を見失い、馬鹿みたいに大騒ぎする大人を見ていると吐き気がするからだ。

 私の家庭の事情を知っている澤村先生は、そのような大衆向けの居酒屋を避け、おしゃれな個室居酒屋に連れてきてくれた。


「遠慮するなよ。何でも頼め」


 注文を済ませるとすぐに飲み物が出てきた。


「乾杯」


 澤村先生はアルコールをよく飲むと聞いたが、私の前だからか、あえてアルコール度数の低いカクテルを注文していた。

 そういう気遣いは、嬉しいかと聞かれればイエスと答えるが、正直どうでもよかった。むしろ、気にせずどんどん飲んでもらっても一向に構わなかった。この人は良くも悪くも人に気を遣いすぎるところがある。


 注文した料理が揃い食べ始めると、澤村先生は私に学校のことをよく質問した。講義ではどんなことを学ぶのか、サークルには入っているのか、友達はできたか。私がヘーゲルの話をすると、よくわからないながらも真剣に耳を傾けてくれた。


「研修は、どれくらいの期間なんですか」

「二年。長いようだけど、まあこの歳になってからの二年なんてあっという間だろう」

「そうですね、きっと」


 氷が溶けて、味の薄くなったカクテルに口をつけると、ご家族は、と控えめに聞かれた。


「元気ですよ」


 たぶん、これ以上の説明はいらない。私がその先を何も言わないということで、勘のいい澤村先生のことだから、きっとすぐに察するだろう。ーーあれから、何も変わっていないのだと。


「ーー神田は、今一人暮らしか」

「ええ。実家を離れたことで、いろいろと視野は広がりました。まあ、離れたと言っても、そんなに距離はないんですけどね」

「それでも大きな一歩なんじゃないか。あのままだったら、今頃どうにかなっていたかも知れない」


 その言葉に苦笑した。

 どうにかなっていたかも、じゃない。もうどうにかなってしまったのだ。まだ言っていないことがたくさんある。この人にそれを話すことは、きっとこれから先一生ないだろう。




 珍しく、カクテルを五杯も飲んでしまった。ふらつく足取りでトイレから戻ってきた私を、澤村先生はとても心配しているようだった。


「おいおい。遠慮するなとは言ったが、ふらふらになるまで飲めとは言ってないぞ」

「ごめんなさい。久しぶりに飲んだので、加減がわからなくなっちゃって」


 ため息をつきながらも、店員に水を頼んでくれた。


「神田、大丈夫か? 木村も言ってたけど、最近連絡が取れないって。何か悩みでもあるのか」


 あの子、先生にそんなことまで話していたのか。

 胸がむかつくのを感じる。


「三年になって、いろいろ忙しいんですよ。ゼミも始まったし。アルバイトも」

「まあ、それだけならいいんだが」

「先生こそ、浮かない顔して、何か悩みがあるんですか」

「俺の心配はしなくていいんだよ。神田はまだ人生これからなんだから。まあ、お前が人にペラペラ悩み事を話すような人間じゃないと理解はしているが、もし一人で抱えきれなくなったら、いつでも連絡しろよ」


 私は黙り込んだ。胸のムカムカが頂点に達しようとしていた。吐き気がする。気持ち悪い。なにもかも。目の前にいる、この恩師でさえも。




 店を出ると、酔って一人で歩けない私のことを澤村先生が横から支えてくれた。


「全く。らしくないぞ」

「私はもともとこんな人間なんです。先生が、買いかぶりすぎなだけで」


 街は人で溢れかえっていた。その中を教師と元教え子が並んで歩いていても、誰にも気付かれることはない。私たちは今、ただの男と女だった。


 どちらともなくホテル街に足が向き、適当に選んだホテルの一室に入った。

 シャワーの音が、かすかに聞こえる。それは、誰かの泣き声のようにも聞こえた。何もーー何も聞こえてなんかいない。耳を塞ぐ。

 薄暗い部屋に先生の影が伸びた。


「神田も、浴びたら」

「私は……」


 後ろから抱きしめられる。匂いが、私の好きなものとは違った。知らない匂い。まだ出会ったことのない匂いだった。それは、私を冷静にさせた。まるで、映画でも見ているかのような感覚だった。


 ーーどうでもよかった。

 友達だと思っていた人に裏切られようが、恩師だと思っていた人に抱かれようが。私にとっては、歩いていて人とぶつかった程度にしか思わなかった。


「神田は……変わったな」


 高校時代、澤村先生は私によく言っていた。このままだとお前は壊れる、と。

 先生、あなたの予想は的中したようですね。


「嬉しい、ですか」


 澤村先生は表情を変えずに私から離れた。


「しないんですか、こんなところまで来て」

「それは、悪かった。俺も、どうかしてた」


 先生は手早く着替えを済ませると、安物の財布から一万円札を取り出した。


「神田は酔っているみたいだから、今晩はここに泊まれ。俺はもう帰るから。これ、ホテル代」

「それは、受け取れません」

「いいから」


 無理やり私の手にそのお札を握らせると、部屋から出ていった。

 そこには、ただの紙切れが残された。




 きっと澤村先生の差し金なんだろう。

 私は、カフェの一番日当たりの悪い席に座っていた。客は他に一組だけしかいない。開店当初から一度も補修していないような、年季の入ったテーブルと椅子だ。グラスに入っていた氷は、もうとっくに溶けてしまっている。冷めたコーヒーの水面には、天井のライトが静かに浮かんでいた。


「澤村先生から聞いたよ。この間実咲(みさき)に会ったって。なんだか元気なさげだって言ってた」


 この二人は、なぜそんなにも頻繁に近況報告をし合っているのだろうか。

 付き合っている、とか言い出したら、笑ってしまうだろうな。


「私ね、澤村先生と付き合ってるんだ」

「え?」


 その時初めて、私はこの久しぶりに会う友人の顔をまじまじと見つめた。すると、まるで初恋をした子どものように恥ずかしそうに俯いてしまった。


「そうだったんだ。木村、高校の時から先生と仲良かったもんね」

「そういうわけじゃ、なかったんだけどね……。同窓会で一年ぶりに会ったとき、なんとなくそういう感じになっちゃって。そういえば、実咲は去年の同窓会、来なかったよね。忙しいとかで」

「うん」

「みんな、心配してたよ。実咲のこと。特に、吉田くんなんか。ほら、高校のとき、実咲のこと好きだったみたいだし。実咲も、気づいてたんでしょう」


 教師と付き合っているからといって、急に上から目線か。自分が恋愛マスターにでもなった気でいるのだろうか。


「そんな昔のこと、どうでもいいって。それより、何? 話があるから、呼び出したんでしょう」

「そういうわけじゃあないの。久しぶりに、実咲と話したかったっていうのもあって。大学入ってから、ほとんど連絡してくれなくなったじゃない……。私がメール送っても、返事もくれなかったから」

「だから、澤村先生に相談したんだ。それで? 優しい先生のことだから、親身になって聞いてくれたんだよね。今度、神田と話してみるからって。それで、先生と深い関係になったんでしょう。私にかこつけて」

「そうじゃない!」


 木村の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

 私は、ただその光景が信じられなかった。いつの間に泣く演技を習得したのだろうか、とさえ思った。


「実咲、どうしちゃったの……。高校に入学したときは、そんなんじゃなかった。だんだんおかしくなって、私の手ではもうどうすることもできないところまでいっちゃった。ーー私が、嘘でこんなこと言ってると思ってる? 私は、私は……本当にずっと、あなたのことを心配していたのに……」


 彼女の涙を見つめながら、ああ、そうかと気づいた。


 私たちは、最初は同じスタートラインに立っていた。でも、私は途中でつまずいて、そのレースを棄権したんだ。

 だから、私と彼女は違うところで生きていた。決して交わることのない道を、ただお互いの姿を探しながら歩いていた。

 でも、今、私と彼女の道の間には、小さくて脆い橋が架かった。少し踏んだだけで壊れてしまいそうだった、それでもーー確かにそこに、橋はあった。


「木村は、変わらないね。でも、私はそれが……すごく嬉しい」




 空港は多くの人でごった返していた。ちょうど三連休だったので、そうだったのかも知れない。

 木村は大きくなり始めたお腹を大事そうに支えながら、嬉しそうに手を振ってこちらへやってきた。


「もう、いいの?」

「うん。安定期には入ったから」


 木村の後ろには、澤村先生が立っていた。


「先生まで、わざわざお見送りに来なくても」

「彼女が行くって聞かなかったからな。俺はついて行くしかない」


 すっかり父親の顔になっていた。


「でも、どうして北海道なの。もっと近場でも、よかったんじゃない」

「どうせなら、遠いところでやり直したかったから」

「そう。少し、寂しくなるね……」


 これから母親になる人が、そんな顔してどうするの。私の言葉で、少し元気になったようだった。


「先生と結婚するんでしょ?」

「うん。順番は、逆になっちゃったけどね」

「木村も新しい土地に行くんだから、体に気をつけてね。まあ、澤村先生がいれば、大丈夫だとは思うけど」


 その時、自分の乗る便が到着したという知らせがあった。


「じゃあ、私、そろそろ行くね」

「うん、元気で……」


 木村は今にも泣き出しそうな顔をしている。澤村先生がその肩をやさしく支えると、二人は幸せそうに見つめあった。

 あの二人なら、きっと大丈夫だろう。


 私はーー。


 飛行機が離陸した。

 今まで、いろいろなことがあったなと思った。この場所であったこと。楽しかったこともあっただろうが、今となっては悲しかったことや、悔しかったことしか思い出せない。でもそれは、もはや私の心を乱すには役不足すぎた。


 新天地で何があるかは誰にもわからない。でもーーどんなことがあっても、乗り越えていけるような気がした。

 不思議なほどに、心が落ち着いていた。



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