マフラーとアッシュローズ[完成版]
前作「有形師」と設定を同じくする話です。
伝奇や異形ものから影響を受けている節はありますが、都市伝説や東京ということはあまり気にしていません。
電化機器とサブカルチャーの街、秋葉原。昼間は人が大勢いてもどこか乾いた、それでいてさばさばした空気が漂うような場所はいま、夜の熱に浮かされて、恍惚とした雰囲気で溢れかえっている。
此処に限らず、東京ではしばしば昼と夜でがらりと趣の変わることがままある。本来生物が怖れるはずの闇と、それへの反逆の証たる人工灯。本能的恐怖を人類のみが克服したという優越感と虚栄、それでもまだ残っている闇への忌避感と畏敬。それらをぐちゃぐちゃに掻き混ぜて睡眠不足によって分泌される脳内物質もろとも発酵させた、そんな度数Ⅹの酒を皆で飲み交わしているかのような、蛍光色の大気。猥雑でありながらどこか心地好いのは、集団心理の為せる業か。それとも人の本性か。
それでも季節柄、道行く人々のほとんどが背中を丸め、顔を赤くして歩いていた。吐く息は白く、空に溶けて消えていく。
目に見えるほど寒さが際立つ一方、店から流れる歌声やアニメキャラクターのセリフ、呼び込みの声などには活気があった。寒さも暗さも関係ない、と主張するかのように、騒がしく華やかに、夜の街を彩る。
あらゆる場所が照らされ、あるいは自発的に光り。彼方で二次元の英雄が、此方で三次元の歌手が叫ぶ。そういったものに心弾ませられるうちは、外気は寒くとも、身体の芯が冷えきってしまうことはないだろう。
もちろん、そういったものに興味のない者もいる。ただ目的のために今日ここへ来て、他のことには一切心動かすことなく、用事を済ませたらすぐ別の場所へ向かう、そういった者もけして少なくはない。そして、そういった人々にとってはもしかしたら、周囲の光と音はただ煩わしいばかりかもしれない。
だが、この場所に用事はなく、かといって来た意義を求めるでもなく、ひたすらあてどなく彷徨う者もまた、いないこともなかった。雑踏のなかとぼとぼ歩く青年も、おそらくその一人だ。彼は其処彼処に乱立する電器屋に足を向けない。あちこちで弾けるアイドルの声に興味を示さない。それでいて、どこかを目指している様子もない。それは特に目立つようなことではない。東京には、そのような人間が、あるいは気分の日が存在するのだから。
しかし、青年には他の人間とは明らかに違う箇所があり、行き交う人々は否が応にも彼に目を向けずにはいられなくなるほど、それは無視できない甚大な差異であった。
タンクトップの上から羽織った半袖のシャツから出た腕は細めだが、しっかり筋肉がついている。すらりとしたデニムのズボンに覆われた足も、同様に逞しいことが見てとれる。背は高めだが、二十代半ばと推測される年齢にそぐわないわけでもない。顔立ちはそれなりに整っているが、その表情は倦怠と自堕落が張りつき、荒んでいた。あちこちから当たる光を反射し、瞳が赤黒く光る。
突出する点は多少あるが、それでも常人の枠を超えない出で立ちだった。いまが真冬だということを考慮しなければ、何らおかしな点などなかっただろう。
故に、彼とすれ違った人々は皆、心中で(寒くないのかな……)と呟いたが、わざわざ声に出して指摘する者などなかったため、青年は歩を止めなかった。
青年はズボンのポケットに両手を突っ込み、やや前屈みで歩いている。もう少し外見に頓着すればモデルを務めてもかまわないほどの身長と顔立ちであるだけに、その姿勢は却って凡庸な容姿の人間がそうするよりもだらしなく彼を見せていた。
歩きながら、青年は呟く。白い息が形の良い唇から洩れでた。
「腹、減った……」
そこは本来「寒い」と呟くべきところだが、青年はこんな服装であるにもかかわらず寒さを感じていなかったし、空腹なのも事実であった。
青年は俯きがちだった顔を上げた。気怠げな目で、周囲を見回す。食事処を探しているのだ。
と、着信音が鳴り響いた。聞き慣れた音に、青年は道の隅に寄って立ち止まる。ズボンの右ポケットからガラケーを取りだし、発信源を確かめる。溜め息をつく。特に話したいとも思わない、どころかあまり声を聞きたくない人物から掛かってきたのだ。
飢餓と義務を秤に掛け、結局、開いて通話ボタンを押す。
《松見! いまどこにいる!》
「……うぜー」
ガラケーの向こうから怒鳴る声を聞き、青年は早くも後悔する。
《質問に答えろ、松見。どこで油を売ってんだてめぇ》
電話の相手は、その若い女性と思しき声に似つかわしくなく凄んでみせる。が、青年はどこ吹く風だ。
「別に、俺がどこにいようと、」
軽く受け流そうとして、変更する。
「秋葉原だから、飯奢ってくれ」
《はああぁぁ!? なんでそうなる》
「……腹減って死にそう」
《それはいつものことだし、金がないのは自業自得だし、つーかあたしもないし、どうするつもりだ、松見!》
「どうしようもないだろ……」
咆える相手とは対照的に、青年の声は萎び、体が傾ぐ。どうやら本格的に空腹で参っているらしい。
《とにかく、合流するぞ。このままじゃノルマがやばいからな》
「ああ……」
力無く答え、電話を切る。そして、ちかちかと明るい東京の夜空を見上げ、
「……腹、減った」
再びそう、吐きだした。
* * *
(どうして、こんなことに……)
こんなことになるのなら、あんなことしなければよかった。過去の自分を呪えども、それでいまの状況を打破できるわけでもない。
国江由梨は眼前に広がる文字の海に酔いそうだった。恐怖と焦燥で、このところろくに眠れていない。それでも悲鳴を上げる身体に鞭打ち、膨大なネット情報に向き直る。
多くのサイトを覗き、それらしい掲示板に片端から書きこんできたが、いまだに“どこにもない事務所”との連絡方法は判らない。しかし、いま起きていることを親や教師、警察に相談しても信じてもらえないのは明白であり、万が一、いや星の数の一くらいの確率で信用してもらえたとしても、彼らにどうにかできるとは思えなかった。だからもう、頼れるのは“事務所”、怪奇現象に対抗するための怪奇現象、だけだった。
“どこにもない事務所”。最近東京都を中心に関東地方で噂されている都市伝説のうち、“時計仕掛けの霊柩車”や“環状線の悪魔”と並んで有名なものの一つだ。一般的なオカルト話が人々を怖がらせる暇つぶしの、或いは訓話的な話であるのに対して、しかしこの噂だけは特殊だった。“事務所”は他の都市伝説で被害を受けた人を保護し、怪異を祓ってくれる救済的な機関だという。
だが所詮はネットを中心に囁かれる噂だけの存在。果たして実在するのかは定かではないし、こんな事態に陥るまで、由梨だってそんな組織があるとは信じていなかった。いまもまだ、あるという確証はどこにもない。しかし、あれだって元々は、はなから信じていなかった。ただ退屈しのぎにオカルトに手を出して、仲間内での話題を作ろうとしただけだったのだ。
あれについて調べたのと同じネットを使って、あれに対抗できる手段を探す。パソコンを睨むしかできないのは歯痒いが、“事務所”がどこにあるか判らない、誰に聞けばいいかも判らない以上、ネットの海に潜るくらいしか術はない。
ふと、マウスの横に置いたスマートフォンが鳴った。手に持ち、画面を確認する。彩奈恵からの電話だった。
「彩奈恵! どうしたの?」
《由梨、無事? いま何してる?》
「ん、ネット見てる。……けど、役に立つような情報はまだ見つかんなくて。……そっちはどう?」
《…………だめ。何にも見つからない。由梨、どうしよう、ねえ》
「……落ち着いて、彩奈恵。とりあえず、明日、っていうかもう今日か、一旦会おう? 二人なら、なんとかなるかもしれないし」
《……うん》
「じゃあ三時くらいに、御茶ノ水駅の、中央線のホームで。大丈夫?」
《うん。……話してたらちょっと楽になった。ありがと》
「そう。じゃあね」
《うん、ばいばい》
通話が切れた。スマートフォンを机の上に戻しつつ、彩奈恵は切羽詰っている、と思った。
そしてそれは、由梨も同じことだった。
もう二人も死んでしまった。いつかはわからないが、次に死ぬのは確実に、彩奈恵か由梨のどちらかだ。グループでは一番怖がりで、あの儀式にも消極的だった彩奈恵を落ち着かせようと、電話口では冷静なふりをしたものの、内心では由梨もまた、怯えていた。
既に深夜を回っていることに気づき、ネットを切り上げようとする。しかしせっかくなので、直前まで調べて出てきた、自称“お悩み相談事務所・異界系”公式サイトの掲示板に新たな書きこみをする。どうせダミーサイトだろうが、いまの状況ではやらないよりはましに思えた。
《助けて、ミカガチヅルに取り憑かれています。このままでは友人も私も死んでしまいます。》
送信したところで、果たしてこの文章を読んで何人が本気にしてくれるだろう、と諦観混じりの思考をぼんやり抱く。
そのまま、パソコンの電源を切って床に就いた。
* * *
全国チェーンのハンバーガーショップの片隅に、いささか目立つ二人組が向い合って座っていた。
二人のうち一人は、先ほどまで街を徘徊していた青年だった。
もう一人は、青年を呼びだした少女である。齢の頃は十代後半。服装も年頃の少女に相応しく、クリームイエローのダウンジャケットに、スキニーパンツ。首に巻いた、紺色のタータンチェックのマフラーが印象的だった。
空調の効きが悪いのか、少女は店内だがマフラーを外さない。完全防寒の少女と、自殺的ともとれる薄着の青年の対比は、人々を引きつけるのに充分だった。……しかし一番目を引いたのは、二人の間にある並々ならない数のハンバーガーであったが。
「ミカガチヅル? なんだそりゃ」
ハンバーガーの山の向こう側から、青年が向かい合う少女に問いかける。高く積まれ過ぎているため、お互い顔を見ることはできない。
「知らねーのか? 新しい都市伝説だよ」
答えながら、少女は周囲をきつい眼差しで見回す。過去に何があったかは判らないが、凡そ、この年頃の少女には似つかわしくない迫力だった。気圧され、二人の方に目を向けていた店内の客数名が、慌てて顔を背ける。
少女はふん、と鼻を鳴らす。早く安く均一の味の商品を提供する、こういった形式のファストフード店では、普通客も店員も他の者のことをあまり気にしない。そこで会った人とは基本、一期一会であり、いちいち印象を覚えることなどない。機械的に無関心に栄養を補給し、店を後にする。そんな店で目立つというのは、あまり心地の良いものではない。
目立たないよう少量ずつ注文すれば良いとは思うのだが、しかし少女にはそうできない理由があった。まず、連れの青年が大量に、それもなるべく継続的に食糧を摂らなくてはならない身体である、ということ。そして、明るく人の大勢いる店内で青年の異常性を悟らせないためには、それ以上に目立つ事柄で覆い隠すのが有効であるためだ。
食糧以前に、そして服装以前に、青年には常人とはかけ離れた特徴があった。暗闇では誤魔化すことができたそれは、だが明るい場所では浮き彫りになってしまいがちだ。
故に少女は、毎回店に入ってこのような状況になることを諦めていた。手軽なファストフード店は常時多くの人間がいるが、それでも料亭などと比べて印象が残りづらいし、何より安く大量に食糧を買い込める、という利点がある。
彼女は、仕事を斡旋するだけでなく、体調管理もしなければならない。青年の……松見の助手として。
なんであたしだけ……思わず弱音を吐きそうになった、が飲み込み、先ほどの話の続きをする。
「ある一定の手順を踏んで儀式を行うと、異世界の住人が未来を教えてくれる、とか、願いを叶えてくれる、みたいな話だ。いわゆる“狐狗狸さん”や“合わせ鏡の悪魔”と同じ類の話だな」
「……くっだらね」
「あたしもそう思うが、ネットでは女子中学生や高校生を中心にけっこう、話題になってるんだとさ、これが。中高生ってのは時間が余ってる分、退屈してる。だからこういった話にもわりと食いつくし、知りたがる。場合によっては、当事者になりたがる。オカルトってのは、ある種ロマンチックでもあるしな。……初めは小さな噂でも、多くの人間が関わることで信憑性が増し、流行になる。流行になればたとえ現実にはない話だって判りきってても乗っかりたがる。それでさらに噂は広がっていく……。まあ、下準備が面倒だし、実践したっていう話は聞かない。したとしても本来、何も起こるはずないけどな。……でも」
少女は一瞬、目を細める。
「たまに、ごくごくたまにだが、ほんとに“喚びだしちまう”ことがあるらしい」
「はあ? 専門家でもない連中がか?」
「ああ。素質もあるだろうが、それよりも場所柄だな。……東京は、日本で最も人が集まる場所だ。それすなわち想念も集まる場所。それだけ怪異も起こりやすいってわけだ。で、松見」
名前を呼ばれ、青年が少女の方へ顔を向ける。ハンバーガーの山の上で、二人は向き合った。
青年の気怠げな顔を睨みつけ、少女は本題に移る。
「東京担当三組のうち、今期のノルマ達成してないの、あたしらだけだぞ」
「…………まじか。スエキチ」
青年の柳眉が、僅かに跳ね上がる。
「まじだよ。怪異の多い東京の街、他の地区より簡単なはずなのに、なんでまだノルマ達成できてないんだよ。少しは焦れよ! つーかおまえがちんたらやってるうちに他の二組が頑張ってんだよ。きっと、いや絶対ノルマ以上の働きしてっから。あと何回も言ってることだが、スエキチじゃねーよ、関千織だ」
少女は一気に捲し立てた。ハンバーガーの包み紙を丸めながら、しかし青年に焦っている様子はない。
「落ち着け、スエキチ」
「落ち着いていられるか! ……ああもうっ」
堪えきれず、少女は爆発した。
「なんであたしこんなのと組まされてんだよ! 人禰さんや春秋冬さんは真面目で仕事ができて依頼人にも親身なのにっ」
「なぜだか教えてやろうか」
青年が卑屈になるわけでも責めるわけでもなく、さらりと言う。
「てめぇが他の窓口担当ほど優れてないからだ」
「……!」
少女が口と手をわなわなと震わせ始めた。青年が先回りする。
「気持ちは判らんでもないが、抑えろ。おまえ美人でもないくせに目立ってるぞ」
「誰のせいだ、誰の!」
それでも目立つのは気まずいせいか、少女は声を落とす。
「……しかしな、松見。ノルマ達成できねーとまじで、飯も食えなくなるぞ。“事務所”の目的は人助けじゃねえ。依頼人だろうと事務員だろうとそれは変わらない。ノルマ達成すれば給料が出る。それ以上の働きをすればボーナスもある。でも、ノルマに届かなきゃ一銭も出ないし、成績不良が続けばクビもありうる。そうなったら……あたしやおまえは、いったいどうやって生きていけばいい?」
少女はマフラーに触れ、黙り込む。少女は自分が“まともではない”ことを判っている。異常者を受け入れられるのは異常な社会だけだ。もし異常な社会からも弾かれてしまったら、どのようにも生きられない。
「まあ、そのときはそのときで、なんとかなるだろ」
しかし、少女以上に“まともではない”はずの青年は、いまいち危機感が薄かった。何も載っていないトレーを少女の方へ押しやり、立ち上がろうとする。
「待て、どこへ行くつもりだ?」
「……そういえばあてがないな」
「おまえなあ……。もういい、おまえには頼らない。ってゆーか、待ってるだけの姿勢が駄目なんだな。積極的に攻めていかねーと。こうなったらあちこちの掲示板に連絡先書きこんで……お、そういえば“事務所”HPの掲示板確認してなかったぜ」
少女はスマートフォンを取りだし、操作しだす。そして突然、絶叫した。
「松見いいぃぃぃ! 依頼が来てやがる! しかもちょうどミカガチヅルがらみだせ!」
「うっさい、他の客に迷惑だろーが」
青年はどこまでも冷めていた。
* * *
翌日の東京は、由梨の心情とはあまりにかけ離れた、清々しい冬晴れだった。
時刻は午後三時。ちょうど今日、終業式だった由梨は、しょぼしょぼする目を擦りながら、御茶ノ水駅の中央線快速立川方面行きのホームで彩奈恵を捜していた。あれから床に就いたものの、案の定眠ることはできなかった。そのせいで終業式の最中、校長先生の話の辺りで居眠りしてしまったのだが。
一応ホームの端から端まで歩き、彩奈恵がまだ来ていないことを確認すると、通学鞄からスマートフォンを取りだしてインターネットに繋げた。
「都市伝説」「ミカガチヅル」「解決方法」と入力して検索を開始する。いかにもオカルティックといった題字のサイトが幾つもヒットしたが、それらは既に調べ終わったサイトだった。以前投稿した掲示板も一応、確認する。
回答は二種類。完全に捏ち上げだと決めつけている意見と、「“事務所”頼れ」という意見。
「結局、それか……」
“事務所”を頼るしかないというのなら、リンクでも貼りつけておいてほしい。インターネットの向こうの無責任な不特定多数に向けて、届かない愚痴を零す。
そういえば、と、唐突に思いだす。昨日寝る直前にパソコンから書きこんだ掲示板は、まだ見直していない。これだけ調べても解決策は何も出てこなかったが、やはり一度確認しておこうと、サイトを呼びだす。
「由梨―」
と、前方から、名前を呼ぶ声が聞こえてきた。顔を上げると、線路を挟んで向かい側のホームで、彩奈恵が手を振っていた。
「彩奈恵! そっち側だったの」
中央線のホームで待ち合わせ、とは言ったが、東京行きのホームか立川方面行きのホームか確認していなかったことに気づく。
「由梨! よかった~」
お互いの無事を確認できたことで、彩奈恵は安堵の表情を浮かべている。
由梨も微笑み、手を振り返す。それからホームを移動しようと、階段の方へ向かいかけた。
「……えっ」
そのとき、由梨は見た。手を振る彩奈恵の後ろに、不意に現れた者を。
それは一見、うさぎのぬいぐるみのようだった。細い顔に、長い一対の垂れた耳。団栗のような形の、ちょこんとした瞳。胴体は幾重もの白と淡水色の布で覆われている。たっぷりとしたレースとフリルを纏っているかのようだ。その布の合間から覗いているのは、煌――と、目を焼くように、それでいて静かに光る、鏡のように美しい、蟷螂の前肢のように湾曲した二振りの刃。それは一抱えほどもあるファンシーなぬいぐるみに、無理やりくっつけたかのようなちぐはぐな組み合わせで。滑稽だとは思ったが、危険だとは思わなかったのかもしれない。とっさに声を出すことさえできなかった。
何があったのか判らなかった。一部始終を見ていたはずなのに。
そのぬいぐるみのような、しかしぬいぐるみのはずがないものはぎごちない、それでいて無駄な動きのない様子であっさりと、刃を狭めた。彩奈恵の首に刃が食い込み、線を付ける。深く入り込み、瞬く間に、首を、狩った。
一連のことはスローモーションのようにゆっくりと、静かに進行していった。由梨以外は誰も、彩奈恵でさえも気づいていないようだった。
そう、斬られたはずなのに、彩奈恵の首に外傷の跡はなく、血も零れていない。一見、一秒前と何ら変わらない様子でそこに立っていた。
しかし、その目は焦点が合わず、胡乱としている。先ほどまでとは明らかに様子が違う。急に、彩奈恵はそれまで挙げていた手を下ろし。躊躇う素振りなど微塵も見せず、数歩、前へ踏みだした。
「彩奈恵! だめ!」
我に返った由梨の叫びは、ちょうど到着しかけた各駅停車の列車の音にかき消された。
たとえば、転んで、擦り剥いたとき。
傷口から垂れるのは、静脈の血。
酸素をあまり含まないから、黒っぽい色をしている。
それが普段、血といって思い浮かべる色。人間が流す血の印象。
そんな意識を反転させる。
冬なのに、そこには紅葉が散っていた。
冬なのに、そこでは彼岸花が咲いていた。
線路上に広がるそれは、
生々しくきれいな、鮮烈な、動脈の赫――――。
ホームは両側ともパニック状態だった。
日常生活において、少なくともこの国では異物である“死”を、これほど不躾に叩きつけられたのだ。耐性のない人々はとっさに、忌避するものから目を背けようと階段に殺到し。絶叫する者、泣きだす者、嘔吐する者、失神する者がそれを阻む。
「なに?」
「自殺?」
「勘弁してよ、もう」
「うわ、グロ~」
ホームに留まる人々は、好き勝手なことを宣っている。が、由梨は知っていた。自殺ではない。さっきまで生きていた、話していた、手を振っていた彩奈恵は、死んでしまった彩奈恵は……あれに、殺されたのだ。
「――ぅ」
口を手で抑える。いろいろなものが溢れだしそうだ。
四日前に、明海が死んだ。その二日後には、真紀子が。そして今日、彩奈恵が死んでしまった。五日前の儀式に参加した四人のうち、残っているのはあと一人……由梨だけだ。次に殺されるのは……。
「い、や、や、やあ、やだ、やだ、死にたくない、し、いや、ああ」
目的はない。ただとっさに、逃げなくては、と思った。
由梨は駆けだそうとした。だが、足に力が入らない。
依然として大勢が駆け上る階段を、手すりに掴まるというよりしがみつきながら、必死に登る。若い女の子がこんな姿を晒すのはみっともないが、恥を感じるだけの余裕もなかった。
どうにか駅を出て、あてもなく歩き、耐えきれず道沿いの壁に凭れかかった。そのまましばらく、息を整える。
衝撃から醒めたのか、由梨の眼から涙が溢れた。確実に迫っている死が恐ろしくて。それを誰にも判ってもらえないのが辛かった。
ふと、スマートフォンを手に持ったままだったことに気がつく。あの混乱のなかで、よく落とさなかったものだ。何気なく画面を確認し。そこにあった内容に、目を見開いた。
掲示板には、由梨が昨日書きこんだ文章の下に、新たな書きこみが追加されていた。
Re:場所と日時くらい指定しやがれ。
それだけではなかった。その下にさらに続きが書かれていた。
今日 午後四時 秋葉原駅 紺のマフラー
「なにこれ」
文字列をしばらく眺めた後、ようやく出た言葉がそれだった。
あまりに省略された内容に、込められた意図を掴みかねる。が、由梨の書きこみのすぐ下に書かれていた以上、これは彼女の救助要請に対する応えではないか、という希望が芽生えていた。
書きこまれた日時を確認する。今日の午前中、しかもまだ暗かった頃だ。おそらく、由梨が書きこんでから二、三時間もしないうちに更新されていたのだろう。そのときまで起きていれば、もっと詳しい遣りとりができたかもしれないが、いまさら考えても詮なきことだ。
文章でさえない、ばらばらな言葉の断片ではあるが、とりあえず、今日の午後四時に秋葉原駅へ行けば、この袋小路から脱出する糸口が見つかるかもしれない。
御茶ノ水駅と秋葉原駅は隣り合っているが、先ほどの事故の影響でJRは麻痺しているだろう。地下鉄を使うべきか。いや、いっそ歩いたほうが早い。
由梨は一度、深呼吸した。そしてスマートフォンで経路を確認し、秋葉原へ向けて歩きだす。
案の定、そう苦労することなく由梨は秋葉原駅へ辿りついた。
多くの人が交錯するなか、彼女は困っていた。というのも、掲示板には秋葉原駅、と書かれていただけで、駅のどこへ向かえばいいのかが判らないのだ。いま彼女がいるのは電気街口だが、秋葉原駅には昭和通り口など他の出入り口もあるし、複数の路線が通っているためホームも多く構内も広い。東京駅や新宿駅と比べればそう複雑ではないかもしれないが、それでも顔も知らない、本当にいるかどうかも判らない待ち合わせ相手を探し出すのは一苦労のはずだった。
しかし、午後四時までまだ四十分近くある。焦ることはない。由梨は落ち着くため、再び深呼吸する。
「……くそっ、松見の野郎。人に寒い思いさせといて、どこにいんだ、まったく」
そのとき、齢若い少女のものと思われる声が聞こえてきた。多くの人々の声と構内アナウンスが飛び交うなか、それほど目立たないはずのその声を、耳が拾ったのが不思議だった。
由梨は声のしたほうへ目を向けた。
十七、八歳くらいだろうか。由梨より少し年上の少女だった。肩にかかるくらいの長さの黒髪を左耳の下で一つに縛り、横に流してピンクのシュシュで纏めている。おでこが出ていて、それなりに愛嬌のある顔立ちだが、寒さのせいか、他に要因があるのか、目つきが擦れている。もこもこした白いセーターに、デニムのパンツ、スニーカー。どこでも売っている量産された安物のようだが、それなりに自分に似合うものを取り入れているようだ。
そして、首筋には、紺色のタータンチェックのマフラーを巻いていた。
由梨はその少女に釘付けになった。少女のほうは由梨に気づいていないようだ。伸す、だの、〆る、だの、ぶつぶつ呟いている。
「……あのっ」
由梨は少女に声をかけた。いきなりのことに、少女は驚いたようだ。
「え、あたし?」
「あの、あなた、もしかして」
由梨はスマートフォンを取りだし、掲示板を見せる。少女の表情が変わった。
「……んの」
「え?」
「あんの野郎。これで判るわけねえだろ。どんだけ仕事したくねえんだよ! ああ、もう〆る! 〆てやる!」
「うええ」
激昂し、物騒なことを(具体的に〆るというのがどのようなことか判らないが雰囲気で)口走る少女の様子に、由梨は軽く引く。
いきなり、少女が由梨の腕を掴み、歩きだした。
「え? ちょ、どこに行くの?」
戸惑う由梨に構うことなく、少女は無言で、どこかに向かう。
しばらく歩き、全国チェーンの牛丼屋に入った途端、その男の姿が目に飛び込んできた。
齢は二十歳半ばくらいか。髪も服装も整っているとはいいがたく、無頓着なようだった。しかし、顔立ちは端正で、無気力な表情を浮かべていても、却ってそれが様になる。鼻筋から口元の辺りが特にきれいで、男の色香を漂わせる。顔だけでなく、手の指も繊細で、白く滑らか、それでいて脆弱さは微塵も感じさせない。しなやかに逞しい、まるで秦皮の枝のような。
青年には見る者を虜にするだけの魅力があった。しかしながら、由梨はおもわず顔を背けたくなった。
彼のどこかに傷があるわけではない。にもかかわらず、どこか均衡が崩れている、という印象を受ける。不潔というわけでもないのに汚穢な、ただそこにいるだけで背徳的な“何か”を感じさせた。
この青年に、明るい店内はそぐわない。
この青年に、人々の笑顔はそぐわない。
この青年に、きれいなもの、優しいものはそぐわない。
凡そ、秩序だったものから排除されるべきだ。
そんな、どこか忌避したくなるような雰囲気を纏っていた。……いや、それもあるが、それ以前に、由梨は、真冬の最中だというのに薄着なことと、抱えている特盛の牛丼と積み上げられた丼の山を見て、かかわり合いになりたくない人だと判断した。
しかし、ここまで由梨を連れてきた少女は、つかつかとその人に近寄り、隣の席に腰を下ろした。
「よう、松見。やっぱりここだったか。……ったく、どんだけやる気ねえんだよ。……いや、百歩譲っててめぇのモチベーションはどうでもいい。だがな、依頼人にはもっと丁寧に対応しやがれ。あれだけの説明でここに辿りつけるとほんとに思ってたのか?」
「さあな。だが、そいつはちゃんと来れただろ」
由梨ははっと顔を上げた。青年の声は、思っていたよりずっと涼やかで心地好いものだった。
少女は溜め息をつくと、振り向き、由梨にも座るよう促す。躊躇いながらも、少女の隣に腰を下ろした。
「なんか食うか?」
「おかわり」
「てめぇには訊いてねーよ」
少女の問いかけに、由梨は黙って首を振る。とてもじゃないが食事ができる心情ではない。
「あの、そろそろ、訊いていいかな」
「特盛二つと並一つ……いいぜ。ただし、あたしらの質問にも答えてくれよ」
「うん、じゃあ……」
由梨は軽く息を吸い込む。
「あなた達は何者なの? なんで私を連れてきたの?」
少女はくるりと椅子を回し、由梨に向き直る。そして、先ほどとは打って変わって、フォーマルな口調で話しだした。
「このたびは“お悩み相談事務所・異界系”に御連絡いただき、真にありがとうございます。窓口担当の一人、関千織と申します。こちらは実行部の」
「松見瀧弥」
青年が名乗る。
言っていることの意味が判らず、由梨は青年と少女の顔を見比べた。しかし徐々に、思考が追いついてきた。
「……ええぇ!」
「ちょ、声が大きい。ただでさえ松見のせいで目立ってんだから」
慌てて、少女――千織が嗜める。青年――松見はというと、気にした様子もなく、空の丼を他の丼の上に積み上げ、運ばれてきた牛丼特盛を手に取ったところだった。
「ほ、ほんと!? なら、私を助けて。このままじゃ殺されちゃう」
「ちょ、落ち着けって」
千織は慌てて、由梨の肩を抱き、すー、はー、と息を吸い込み吐き出す真似をした。それにつられて、由梨も深呼吸する。
「……落ち着いたか?」
「うん、ごめんね。……あれ、じゃあ、あの掲示板が本物の“事務所”公式サイトだったの」
「いや、違うな。“事務所”はどこにもない。物理的だろうと、ネット上だろうと。拠点がなく、常に移動してる。故にどこにもないし、どこにでもある。特にネット上は情報量が多いから、足で探すよりずっと難しい。一度辿り着きさえすれば、二度目以降は楽なんだがな」
「あ、てめぇ、あたしの分まで」
松見が答える。いつの間にか、運ばれてきた牛丼をすべて食べ尽くしてしまっていたらしい。
松見は更に注文を追加すると、由梨に向き直った。
「最初から話せ。いつ何があったのか。いま何が起こってて、俺達にどうしてほしいのか」
由梨は松見を見返した。何度か瞬きする。いままで誰にも打ち明けられなかった話を聴いてくれる人が、ここにいる。
「……私は、国江由梨といいます」
一応、明らかに年上の松見に敬語を使いつつ、由梨は話し始めた。
三ヶ月ほど前、同年代の少女三人とLINEで知り合い、友人になった。
冬の初め、四人のうちの誰かが、南関東を中心に話題となっている都市伝説についての話題をLINEに書きこんだ。
特に行事もなく退屈していた時期であったためか、四人は試しにやってみよう、ということになった。初めは冗談のつもりだったかもしれない。しかしLINE上に具体的な話を載せていくうちに好奇心が高まり、ついに五日前、集まって実行する運びとなった。
儀式では手順を踏んでも何も起こらず、四人は興醒めしつつも、一方で誰も本気にしていなかったことを暴露し合った。
しかし片付けをしているとき、由梨は寒気を覚えた。まるで、背中にざらざらと目の粗い布を擦りつけられたような感触もした。しかし友人は気のせいだと言い、由梨自身もあまり気にすることなく、その日は別れた。
話の途中で、追加の分の牛丼がきた。こんどは盗られないようにと、千織がすばやく自分の分を引き寄せる。
「そのときはほんとに、私も、皆も、深く考えてなかったんです。それがまさか、あんなことになるなんて……」
由梨は俯いた。体が震え、とっさに肩を抱く。
「……儀式の次の日、明海が死んだって連絡が来たんです。交差点で、赤信号を無視して車に撥ねられたって……でも、その道路は広くて、交通量が多くて、信号無視して無事に渡りきれる場所じゃないって、明海はそんなことする子じゃないって、信じられなくて……」
由梨の声が震える。千織がそっと、彼女の頬を撫でる。
「……それでも、二日前に真紀子が死ぬまでは、ただの事故じゃないかって気持ちがまだ残ってた。でもっ……真紀子、学校で飛び降りたって……自殺なんてする子じゃなかったから、もう、だめだって……」
「何を根拠に」
松見が呟いたが、千織に睨まれ、口を噤む。
「なんとかしなきゃって、彩奈恵と二人でいろいろ方法探したけど、見つかんなくて……“どこにもない事務所”に相談するしかなくて、でも、どうしたら相談できるか判らなかった……」
「……それで、今日、お友達が飛び込み、だったな?」
「違う、彩奈恵は飛び込んだんじゃない! 殺されたの、あいつに!」
由梨は声を荒らげる。声量と内容に、店内の他の客が振り返った。ファストフード店と同じやり方で、千織が追い散らす。
「何を見た? そいつは何をやった?」
「なんか、うさぎみたいなのが……そいつが、か、鎌で、彩奈恵の首を、斬ったの。そしたら彩奈恵、変になって、自分から線路に……」
泣きだした由梨の肩を抱き、千織が歯噛みする。依頼に気づいたのは日付が変わった数時間後だった。もっと早くに依頼が届いていれば、或いは、由梨が返答を見るのがもっと早ければ、彩奈恵は助かったかもしれないのだ。……しかし。
「大丈夫だ。由梨、あっ、呼び捨てでいいか? ……由梨は絶対死なせねえ。約束する」
落ち着きを取り戻しつつある由梨の背を軽く叩き、千織は宣言する。そして、松見を振り返った。
由梨が話している間ずっと、彼は彼女から目を離さなかった。話が終わると、気がついたように、空いた丼を積み上げ始める。
「……それはいいが、いくら出すんだ?」
「「は?」」
どうにか泣き止んだ由梨と、千織は顔を見合わせた。
「とりあえず、前金で五千以上が相場だ」
一秒間の沈黙。先に口を開いたのは千織だった。
「ちょ、てめ、松見ぃ! 金とる気かコノヤロー!」
「当たり前だ。俺達は慈善でこんなことしてるわけじゃない。それに……」
「は、払います!」
由梨は言い切る。その際、何か言いかけた松見を遮ってしまった。
「いや由梨、こいつの言うこと真に受けちゃ駄目だから。依頼解決したらちゃんと上から給料出るから」
「……スエキチ、他の奴らはそうかもしれんが、俺達は金に危急している。特に食費を何とかしなきゃ俺は“終わる”。仮に給料日まで保ったとしても、俺達が貰える分じゃたかが知れてる」
「誰のせいだよー! 給料が少ないのはおまえが落ちこぼれてるせいだろ! そもそも今期給料出ないかもしんねーんだぞ!」
「え?」
由梨は聞き返した。
「松見さんて……落ちこぼれてるんですか?」
「あ、ああ、あれはその」
「そうだ」
言い繕おうとした千織を、松見が遮る。
「別に隠し立てする必要もないだろう。“事務所”に所属する者のうち、現在東京担当は三ペアいるが、俺とスエキチのペアは成績最下位だ」
「……」
「不満か? ……いや、不安か? というべきか」
由梨の心を見透かすように、松見が問いかけた。
「不安なのも判る。敵は正体不明の化け物で、対処方法は何も判んねーのに、縋った藁がこんなザマじゃな」
「その、あ……え、正体不明? ミカガチヅルじゃないんですか?」
「そりゃそうだろ」
松見は腕を組む。
「てめぇらがミカガチヅルを喚びだすための手順を踏んで、順当に現れたものじゃないんだろ? だったらそれはミカガチヅルとはいわねーよ」
「そんな、じゃあ、どうしようもないじゃないですか」
松見はふ、と息を吐く。美貌と相まって、なかなか絵になる仕草だった。
「安心しろよ。てめぇには見えたんだろ? ウサ公の形と首掻っ切る様子が。目に見えて触れるものなら、俺にもなんとかなる」
そのとき、由梨は奇妙なことに気づいた。
松見の周りには空の丼が散らばっている。しかし、由梨の話を聞いている間も、話している間も、松見はものを食べてなどいなかった。いや、それどころか、松見の手にも、丼の上にも、どこを見回しても、あるべきはずのものがない。
「ねえ、千織ちゃん……松見さんの、お箸が」
そこまで言ったところで、由梨は言葉を切った。
先ほどのこともあり、過敏になっていたためかもしれない。それとも、由梨は元から、そういったものへの感度が高いのかもしれない。
松見の背後から、黒く素早いものが奔り、目の前の牛丼特盛を掠め、すぐにまた、彼の背後へと戻っていった。それは一瞬のことだった。どんな形をしていたのか、どこから現れたのか、まるで判らなかった。しかしそれは断じて見間違いではない。現に、松見の前にあった、一瞬前まで盛られていた牛丼はきれいさっぱりなくなっていた。……なるほど、箸が要らないはずだ。
空の丼を積み上げながら、松見は不機嫌そうだった。……いや、この店に入ってからいままで、彼が愉快そうにしているのを見ていない、といったほうが正しい。そして、それの元凶は得体の知れない黒いあれであり、また、由梨であるように思われた。
「松見さん、あの、さっき何を言おうとしたんですか」
あのとき言おうとしていたことが、由梨へ向ける感情とかかわりがあるような気がした。悩んだが、結局、訊いてしまった。
松見はしばらく由梨を見つめ。溜め息をついた。
由梨を見つめる松見の眼は冷たい。オレンジ色の照明を跳ね返して赤黒く光る瞳には、軽蔑や非難というより、静かな憤怒が、そしてなぜか、悲痛が滲んでいた。
「……そもそも、おまえらが生半可な気持ちで噂を信じて、莫迦なことをしなければ誰も死なずに済んだ。今回のことは、自業自得だ」
松見の言葉は静かだった。まったく感情が篭っていないせいで、却ってその一言一言が、重い。
「……てめぇの身に降り掛かったのが“理不尽”なら、いくらでも対処する。だがな、おまえのダチが死んだのも、おまえが死にそうなのも、おもしろがって異次元に首突っ込むリスクを鑑みなかったおまえら自身の責任だ。専門家でもない限り、何か喚びだして無事に済む奴なんていねーよ。やる前からこうなると判ってたらやってなかった? ふざけるな。やんなくていいことなんだから初めからやるんじゃねえよ。しかもてめぇで始末できねーからって、人に押しつけるな……反吐が出る」
突き放すような眼差し。
突き刺すような言。
由梨には松見を直視できない。
「……そのとおりです」
項垂れながらもしかし、由梨は声を絞りだす。
「私達は軽い気持ちで、何が起こるかなんて考えもせずに行動して、自分達の命を失っていきました。全部、私達自身のせいです。……自分勝手なことだって判ってます。でも、私は死にたくないです。助けて、ください」
「松見」
それまで黙って聞いていた千織が、呼びかける。
「おまえが由梨を許せないのは判るよ。でも、命は尊いし、平穏な生活は掛け替えがない。おまえが一番それを判ってるはずだろ? ならせめて、由梨だけでも穏やかな日々に戻してやろうよ。さっきはああ言ったけど、おまえ、由梨を放っておきたくはないんだよな」
松見は何も答えない。千織が諭すような、というにはややきつい目つきで彼を見据える。松見は溜め息をつき、目を逸した。そのときにはもう、先ほどまでの厳しい、けれど切なさの滲む眼ではなく。普段の面倒臭がりな松見に戻っていた。
「……判ったよ。見殺しにするのは、さすがに気分悪いしな」
「あ、ありがとうございます!」
由梨はここに来てから初めて笑った。その様子を見て、千織も目元を緩める。
「で、どうするんだ、これから」
「ああ。とりあえず今日は解散だな」
身を翻す松見に、二人の少女は呆気にとられる。
「いやいや、なに悠長なこと言ってんだよ。早く依頼解決しろよ。“お膝元”とは反対方向だし、こうしてる間にもそのうさぎみたいな奴襲ってくるんじゃねーのか」
その通りだ。あれはいきなり彩奈恵の背後をとった。いつどこから来るか判らない以上、離れるのは得策ではない。
松見は気怠げに吐きだす。
「どうせ四日後まで来ねえよ」
「「え?」」
二人は顔を見合わせる。
「な、何を根拠にそんな」
「儀式をしたのは五日前。最初の犠牲者は次の日に、一日空けて二番目の犠牲者が、さらに一日空けてその次の犠牲者が」
松見は振り向いた。
「単純だ。儀式を行った日を2としたとき、犠牲者が殺された日は次の素数に移行する間隔だ」
「「……あ!」」
たしかにその通りだ。その考えでいくと、由梨が殺されるのは儀式を行なってから九日後ということになる。
「でも、そんな安直な」
「そうだな。俺の考えが間違ってて、今日これから殺される可能性も0じゃない。だが、びくつくばかりじゃ見えてこないものもある」
松見は財布を取りだすと、中身を確認する。
「奴には人を操って自殺に追い込む力がある。だが、奴自身に人を殺傷できる力があるのか、とか、標的以外の人間も操れるのか、とか、判らないことだらけだ。俺は落ちこぼれだからな、ちゃんと備えてから臨みたい」
財布のなかから樋口と野口を幾らか抜くと、松見は会計へ向かった。
「ま、待てよ」
慌てて、残っていた自分の牛丼を掻っ込み、千織が追いかける。しかし松見はすぐに店から出ていってしまった。追いかけようとする千織を、店員が呼び止める。
由梨のところまで戻ってきた千織は、わなわなと震えていた。
「あの野郎、自分の分しか払わなかった……」
店を出た後、家まで送る、という千織の提案を受け入れ、二人は駅に向かった。事故の後処理は終わっているらしく、中央線は平常運転を行なっていた。揺れる電車のなか、由梨がおずおずと口を開く。
「いいの? ほんとにお金払わなくて」
「いいんだって。そもそも、困ってる人を助けるためにこんなことしてるわけじゃないし」
松見がいたときとは打って変わって、千織の様子は淡白だ。
「大なり小なり、怪奇現象が発生するとエネルギーが生まれる。上は、それを利用しようとして集めてるんだ。正規契約した“事務所”の職員が怪奇現象を処理すると、そのエネルギーが“事務所”上層部の元へ運ばれるようになってる。稼いだエネルギーの量に応じて、上はあたしらに給料を支払う。ただ怪奇現象を追うより、怪奇現象に遭ってる人から連絡を集めたほうがてっとり早いからこういう仕組みになってるだけで、あたしらは人助けしてるわけじゃない。だから本来、由梨が何か支払う必要はないんだ」
「そうなんだ……でも」
由梨は微笑もうとした。未だ恐怖と不安が全身に纏わりついていたが、精一杯穏やかな顔をしようとした。
「私信じる。松見さんと千織ちゃんが、きっと助けてくれるって」
「……」
千織は何度か瞬きをし、俯いた。どうやら、照れたようだ。
「~~~~っ、安心しろよ、松見はいい加減なように見えて実は律儀だし、けっこうな名門大学通ってたから頭良いし、た、頼りになる奴なんだ。他の二人は、その、資格持ってたりエースだったり、だからコンプレックスもあって、他にも色々あって、無気力になってるけど……」
頬を赤らませながらそう、相棒について語る千織は可愛らしくて。由梨は自然と、微笑むことができた。
「……なあ、由梨」
顔を上げ、後ろへ置いていかれる景色を見ながら、千織は静かに言う。
「……松見のこと、許してやってくれ。あいつ、わりと可哀想な奴なんだ」
* * *
四日後。マンションを訪ねてきた千織を、由梨は快く迎え入れた。
彩奈恵が死んだ日から丸々三日間、嘘のように何も起こらなかった。親元を離れ一人暮らしする由梨は、二日ほど買い置きの食材で凌いだが、三日目に千織を伴い買い物に出かけた際も、至って平和だった。
千織は昨日会ったときと同じような恰好をしていた。もちろん首には紺色のマフラーを巻いて。
由梨が今日まだ何も起こっていないことを報告すると、千織は腕を組んだ。
「このまま何も起こらないといいんだが、そうもいかないだろうな。どっちにしろ、松見は今日決着つけるつもりだし。夕方になったら合流しよう。怪異ってのは夜のほうが発生しやすいし、松見の力も夜のほうが強くなるしな」
由梨の部屋で時間を潰した後、二人は駅へと向かった。
道中、千織は由梨の手を離さなかった。
最寄り駅に着き、千織は端末を取りだし、松見と連絡をとる。
「はあぁ?」
いきなり、千織が困惑の声を上げた。それから、怪訝そうに見やる由梨に、端末を渡す。
《よう、クニユリ》
電話の向こう側から、眠たげな声が聞こえてきた。
「こんばんは、松見さん。クニユリじゃなくて国江由梨ですけど」
《まだ生きてるな。原宿へ行け》
由梨の指摘を、電話の主はスルーした。
「原宿、ですか。松見さんもそこに?」
《いや、俺はいま代々木だ。だが、おまえらは原宿へ向かえ》
「え、じゃあ、原宿で合流するんですね」
《いや、俺は代々木にいる。このままいけば、奴が現れるからな》
「えっ、じゃあ、私達も代々木に」
《駄目だ。奴が代々木に現れるという仮定は、おまえらが原宿にいることが前提になる》
一体全体、まるでわけが判らない。
「ちょっと、順番に説明してください」
数秒間、沈黙が続いた。松見は躊躇っているようだ。やがて、ため息混じりに語りだした。
《環状線のうち、原宿から内回りで新橋へ向かう区間はウサ公立入禁止区画だ。そこからなら原宿のほうが近いだろ。おまえが原宿にいれば、ウサ公は手出しできない。せめて一番近い代々木に出るのが関の山だ。俺も環状線の区域には行けねーから、代々木で奴を叩く。しっかりとどめ刺すから安》
「ふざけないで!」
由梨は電話口で怒鳴りつけた。
《……言いたいことは判る。でもな、ほんとのことだ。ウサ公だけでなく、“お膝元”では他のどんな怪異も存在できない。ああでも、東京タワーは浜松町にあるのに、なんで特撮の怪獣はあいつの逆鱗に触れないんだろうな。……とにかく、あの区画が特別なんじゃなくて、そういった領域の上に偶然ああいった形の路線を組み上げたんだ、多分。だからウサ公も自然とその形に従うだろう》
「そういうことが言いたいんじゃない」
由梨は肩をいからせ、一気に吐きだした。
「あんなに散々自業自得だ、自己責任だ言っといて、しかも、私のことで他の人が身体張ってるっていうのに、いまさら安全な場所に避難してろはないでしょ? 私には見届ける義務と、権利がある」
「由梨!」
いきなり、突き飛ばされた。突然のことに驚きながらも、首をよじって背後を見る。
そこに、一人の男性がいた。どこにでもいそうな、カジュアルな服装をした、特に突出するところのない人だった。
しかし、その手には、一振りの包丁が握られていた。厨房ならともかく駅には、そしてこのような平凡な男性には似つかわしくないものだ。
男性はその包丁を振り下ろしたようだった。千織が突き飛ばしてくれなかったら、由梨は切られていただろう。
「駅員さーん!」
千織が叫んだ。由梨を庇いながら、男性を観察する。その表情はどんよりとしていて生気がない。ありきたりな文句だが、魂が抜けてしまっているような、というのがしっくりくる。自分の意志でやったことではおそらくない。……操られている。
「どうやら、標的以外も操れるようだな」
駅員が駆けてきて、男性を取り押さえようとした。男性はぎごちない動きで抵抗する。
突然、千織達の右側から、学生服の少年が突っ込んできた。手にはカッターが握られている。
「なっ」
千織は躱し、少年の手首を掴んだ。少年はカッターを取り落とす。間髪入れず、反対方向から老婆が掴みかかってきた。千織はとっさに、由梨を抱きしめ、彼女の身体を軸に半回転してこれを避けた。そして、二人とも目撃した。
二人に向かってくる人、人、人。男、女、学生、サラリーマン、主婦、老人、幼児。誰もが朦朧とした表情で、こちらに向かってきている。うち幾人かはライター、鋏などを手に持っていた。
そして彼らの後方に、幾重にも連なった布に覆われた、ぬいぐるみのうさぎのような、しかし凶々しい二振りの刃を具えた異形が浮いている。薄暗い駅構内で、眼だけが爛、と光る。
そいつはすすす、と空を移動し、深緑のブレザーを着た少女の前で止まった。歯車が軋むように歪な、なのに一流の料理人のように鮮やかな動きで女子学生の首に刃をめり込ませ、交差させる。女子学生は立ち止まり、こちらを振り向いた。おぼつかない足どりで近づきつつ、鞄から物差しを取りだす。
「あたしと一緒じゃ、自ら死ぬよう仕向けるのは無理だと思ったのか……ここじゃ分が悪い」
千織は由梨を庇うようにして、走りだした。電子カードを叩きつけるようにして改札を抜け、ホームを目指す。人々は追いかけてきた。それどころか、途中にいた人々のうち何人かも加わって、二人を阻もうとした。千織はそういった人々に容赦のない平手・手刀を叩きつけ、ホームに出た。そのまま、発車間際の電車に駆け込む。
「……はあ、はあ」
車内の他の乗客から距離をとりつつ、息を整える。……どうやら、乗客のなかに操られている者はいないようだ。
「あ、千織ちゃんの」
逃げている最中、端末を落としてしまったようだ。
「ああ、いいよ。後で拾いに行く。あとはまあ、原宿まで行けばなんとかなるし。松見との連絡は、他の窓口担当に仲介してもらおう」
駅に着くたびに乗客を確認するが、操られている様子はなかった。
ほっと息をついたときだった。由梨が突然、ある駅で電車を降りた。虚を突かれ、千織はしばし茫然とする。一秒後、駅名を確認し、操られているのではなく、由梨は自発的に電車を降りたことが判る。
代々木だった。
「松見さん、どこ?」
改札を抜けたところで、目当ての姿を見つける。
「松見さん!」
由梨は駆け寄ろうとする。松見は由梨のほうを向き。驚愕、そして睨みつけた。由梨をではない。
松見の肩口辺りから黒く疾いものが飛び出したように見えた。それは瞬時に伸び、由梨の頭上を飛び越える。
「え?」
由梨がとっさに、黒いものを目で追って振り返ったときには、それは既に由梨の頭にハンドバックを振りかざそうとしていた女性を弾き倒し、松見の内へ戻っていくところだった。
「ばかやろう! なんでここに来た!」
松見の喝に、由梨の足が竦む。……いや、一連の出来事に圧倒されていたのもあるが。
「松見さん? さっきのは一体」
松見はちっ、と舌打ちをした。質問に答えず、声を彼方へ放る。
「スエキチ! 早く来い!」
「関千織だ!」
由梨のほうへ迫ろうとする人間を張り倒しつつ、千織が走り寄ってきた。人々は起き上がり、なおも由梨に向かってくる。
「できるか? 松見」
「いや、蹴散らすのは簡単だが、ここじゃ人目につく。それに、生身の人間相手には加減が難しい」
「じゃあ、逃げるしかない、な」
三人は駅を出、駆けだした。
何度か道を曲がり、三人は人気のない駐車場に入り込んだ。
「ったく、何で来るんだよ」
「うっせーな、この間の恥ずかしい写真人禰さんに送るぞ」
「なっ……」
走り疲れたのと由梨を弁護するためにとっさに出た言葉らしいが、どうやら松見の急所に当たったらしい。
「でもさ、結果的に合流できて良かったんじゃね? うさぎは入れなくても、操られてる人間は“お膝元”に侵入できたかもしれねー。そうだったらおまえは“お膝元”には入れねーし、あたしらだけじゃピンチだったよ」
「……そうだな」
松見は駐車場の入り口付近を見据える。そこには十数人ほどの人間が詰めよせていた。
由梨の自宅近くの駅や、代々木駅にいた人々より数は少ないものの、皆刃物や傘、スーツケースなどを持っていた。
「……どうやら、殺傷能力の高そうな奴から操作してるようだな」
「ああ、だから包丁持った奴が真っ先に襲ってきたのか。でもあいつ、なんで包丁なんて」
「さあな、金物屋にでも行った帰りじゃね? それより、来るぞ」
松見の言を受け、千織は一歩前に出る。向かってきた一人目をいなし、首筋に手刀を叩きこむ。横から殴りかかってきた二人目の手首を掴んで軌道を逸らし、自分で自分を殴らせる。脇腹を狙う三人目の顔を掴んで四人目に向けて押し倒し、五人目の顎を蹴り上げた。
向こうに何かさせる前に、千織は行動不能にしてしまう。それでいて、誰一人として骨を折ったり血を流したりという怪我はさせていない。相対している者よりも小さな身体で、そのハンデを補うように軸を、ばねを、関節を、身体の使えるところは何でも使って恐れなく戦う少女。柔道や合気道といった、型に嵌った流麗な動きではないように思われた。千織が彼女の置かれた環境や歩んできた人生のなかで自然と身に着けた動作かもしれない。無駄なく、隙なく、それでいて相手を傷つけることなくなるべく一撃で意識を奪う。
「す、すごい」
「あいつはデスクワークよりああいうののほうが性に合ってるんだ」
立っている者が千織一人になると、松見は何もない空間に向けて呼びかけた。
「無駄だ。てめぇの駒が何十人何百人来ようが、こいつは殺させない。千葉の同僚に聞いたぜ。おまえは連続する素数の日に事を済まさないと時計がリセットされる、つまりこいつを殺したいのなら、今日しかない。違うか?」
松見の見つめた先の空間に、徐々に滲みだすようにして、あの刃を具えたうさぎのぬいぐるみじみた姿が顕れる。
「来たか」
松見が言い、千織が無言で構える。二人にも見えているのだ。
こうしてまじまじと見るのは、初めてかもしれない。刃のことを除けば、ふんわりとしたドレスを纏った、チャーミングなぬいぐるみそのものだ。
そいつは動かない。光沢のあるつぶらな眼からも、「へ」の形をした口からも、何の感情も読みとれそうにない。
いきなり、そいつの姿が消えた。顕れたときとは逆に、一瞬で跡形もなく消え去った。
「な」
「ええ?」
千織と由梨は見失った姿を探し、慌てふためく。
と、松見が由梨の肩を抱き、正面に引き寄せた。二人は見つめ合う形になる。
「ふえ?」
「俺に異常があればすぐ言え」
顔に血が上るのが判った。色々と気になることはあるものの、松見は美男子なのだ。見つめ合ったりしたら、緊張してしまうのも無理はない。
既に辺りは黄昏色に覆われ。翳りが零れては、空に、地表に、染み渡っていく。
傾きかけた陽は、駐車場のなかには届かない。それでいてまだ灯の点く時刻ではないのか、薄暗い。そのなかで、松見の眼は曖く、うっすら赤がかっている。
松見の眼が微かにずれた。背後でものが倒れる音がする。
「千織ちゃん!?」
「振り返るな。無事だ」
既に由梨に視線を戻した松見が、強めの口調で言う。
「な、なにが」
「認識と干渉は直結する。スエキチにはあれが見えるから、あれもスエキチを攻撃できた。それだけだ」
そのとき、消えたとき同様何の前触れもなしに、あれが現れた。由梨の正面、松見のすぐ後ろだ。
光るほどに鋭利であるにもかかわらず、動きは鈍らを扱うかの如きその刃が松見の首に食い込み、す、と引かれた後、ようやく、由梨の声が駐車場に響き渡った。
「松見、さん!」
「…………なるほど。見張られたクニユリを操るのは容易でないと思ったのか。だが、」
唐突に、松見の首に半ば以上埋もれていた刃が、止まった。
ぬいぐるみじみた異形が傾ぐ。その表情に変化はないが、動揺しているのか。
「悪いな、先約がいるんだ」
――ギ、ゴリ、ゴリ
アクリルスポンジで窓ガラスを網戸ごと擦るような、不快な、そして不吉な音が響き。とっさに飛び離れようとしたのか。それは失敗に終わった。
松見の左半身が、爆発した。
一瞬、そう思ってしまうような光景だった。松見の左半身が黒い布のようなもので覆われ、それは瞬く間に膨張し、松見の二倍ほどの面積となった。幾つもある先端は尖っていて、うさぎの異形が消えるより疾く、伸び、それを絡めとってしまっていた。
うさぎのようなものは拘束を解こうと暴れるが、黒く細長い管は何本にも増え、巻きつき、動きを奪う。
「……ああ」
松見が、感嘆とも悲哀とも、あるいは快楽ともとれる声を漏らす。
「腹、減った」
彼の左側は顔も、腕も、胴も、脚も、総て黒く蠢くものに侵食され、耳の下辺りから腰にかけては原型を留めていない。溶けだす、というより、はみだす、という表現が正しいだろうか。それは液体というより、ガムに近い。弾力があり、幾らでも広がり伸びるが、厚さは変わらない。というより、質量を伴わないように見えた。
色は光沢のない黒で、「現実」の上にクレヨンで塗りたくったような、幼稚さと、歪さを感じさせた。これはここに無いものだ。なのに、存在している。生きている。生きている? そうだ。これはいまも動き、形を変えている。弾けるように。包むように。押し込むように。
どう見たって人間の身体の一部ではない。いや、どんな生き物の部位でもない。存在そのものが歪すぎる。自然界には存在しないものだ。では、人工か。それもない。あの不規則で猥雑な、気色が悪いのに整っているとも感じさせる独特の動きが、人の手によるものだとは思えない。
黒い管が伸び縮み、捩り、のたうち回りながらぬいぐるみの異形を攻めたてる。同時に、黒い面が松見の身体に貼りつき、侵し、版図を広げようとしている。
あまりのことに声を失っていた由梨が、我に返って呼びかける。
「ま、まま、松見、さん」
「ああ~、それにしても腹減った。なんでこれこんな燃費悪いんだろ、食べても食べても腹が空くし」
青ざめる由梨とは対照的に、松見は大したことがなさそうに、いや、それどころか何事もないかのように腹具合の話なぞしている。
この状態を許容できる彼こそが、一番の化物――。
脳裏に浮かんだ考えを、瞬時に打ち消す。
「へ、平気なんですか」
「何がだ? ああ、これか。気にすることはねえ、元よりこんな身体なんだ、俺」
「“悪魔憑き”」
千織の声がした。そのとき、
幾百、幾千枚もの絹が引き裂かれるような音が、耳をつんざいた。
ぬいぐるみじみた異形の口が縦横に裂け、なかから何本もの杭のような牙が覗いた。同時に、刃が横にずれて、何枚にも増える。うさぎのような外装は剥がれかけてその身を覆うフリル同様垂れ下がる。異形は管を噛み千切り、切断した。
「……くっ」
松見のこめかみ辺りから、血が噴きだした。顔が苦悶で歪む。
「だ、大丈夫ですか」
「いい、離れてろ」
千織が近寄り、由梨を松見から遠ざけた。自身も後ろに下がる。
「ま、松見さん、どうなっちゃったの」
「大したことはねーよ。あいつが“悪魔”に憑かれたのは、つい最近のことじゃねえ」
「あ、悪魔?」
由梨は千織を振り返った。そのときに気づいたことだが、千織は口から血を流している。
「ああ気にすんな。顎強打しただけだ。それよりも」
黒い管は切られても再び伸びて縛り上げようとする。しかし、化物はぶわっと膨らみ、一回りほど大きくなり、拘束を弾き飛ばす。黒い管によって攻めたてられ穴の空いた箇所から、膨張したことによって薄っすら黄がかった布状の外装から、僅かに白っぽい中身が覗いている。由梨はその外見から、異形の中身は綿のようなものだと想像していた。しかしそれを構成している刃以外の物質はまったく綿とはかけ離れていた。
白いが、綿のように細かい繊維の塊というよりは、きっちり密度が詰まっている固体のようだった。それでいて異形が動くとぷるぷると僅かに振動していて、柔らかそうではあった、実際に触りたいとは思えなかったが。粘着質には見えなくて、表面に光沢はないが水気が多そうではあった。例えるなら、豆腐か、水分の多いヨーグルトといったところだろうか。
「……」
松見の額に、汗が浮かんでいる。
「この世界にいない虚像。なのに、この世界のものに干渉する存在。こっちからは触れないのに、こっちに触れてくるもの。発生した後に認識が追いつく、だから対応のしようがない。それがあたしらのいうところの“悪魔”かな。“悪魔”は虚像だから、この世界に出るときは既存のものに憑くしかない。でも、この世界のどんなものとも相反するものだから、普通、人でも動物でも、“悪魔”に憑かれたら永く保たない。心も身体も歪んで、壊れてしまう。物だって同じさ。その物の本来の用途とは変化し、その意義を失った挙句砕けてしまう。だというのに、松見は」
そのとき、松見にへばりついている黒い面が渦を巻き、二本の特に長い管が飛びだした。管はもはやうさぎの面影のない、刃とくしゃくしゃになった布切れで白く柔いものを鎧っているだけの異形の刃に巻きつき、締め上げ。膨らんだ面が二箇所裂け、内側から鬼灯の実のように紅い光が漏れでた。松見の左眼と合わせると、さながら一対の眼と口のよう。……いや実際、それは黒いものの眼と口なのだろう。
松見と瞳を共有し合うのか、一時的に借りるか奪うかしているのか。とにかく、黒いものは紅い顔をひらひらした化物に向け、刃を抑え込む二対の腕のような管を押し込み、それに向かって倒れ込むように幅のない躰を傾け始めた。
「あいつは、なぜか、“悪魔”を受け入れられる体質だった。珍しいことなんだぜ? 身体に“悪魔”が入っても拒絶反応が起きず、すんなり馴染むっていうのは。おかげで、あいつは物理干渉する総ての怪異に対抗するだけの力を、必要に応じて行使できる。あんなふうに」
白い化物は応戦しようとするが、押されている。刃が軋みを上げ、火花が散る。黒い“悪魔”は覆い被さり、さらに、胸骨のように湾曲した幾本もの管で貫いた。見るからに柔らかそうだった中身がスプーンで潰された介護食用の豆腐みたくぐずぐず崩れだす。白の化物は声を出せないのか、十字に開いた口を上空に向け、戦慄かせるのみだった。
“悪魔”が口を広げ、なかに化物を収納しようとしている。実体がないため、黒い紙に入れた切れ込みに、質量のある白いぐちゃぐちゃ(もはやそうとしか形容できない)を挟み込んでいるように見えるのだ。
「す、すごい! 圧倒的じゃん!」
由梨が頬を上気させ言う。“悪魔”が化物を食らうさまは、ある種の感動を伴うものだった。
「あんなものを使役できるなんて、松見さんって、すごい人なんだね」
振り向くが、しかし、千織は深刻な顔で、二体の異形の押し合いから一体の異形の独擅場へと変わった様子を見守っていた。
「とんでもないよ。“悪魔”が肉体に定着することは、憑かれて壊れてしまうよりなお悪い。コップの中に氷が二つなら、どんなに邪魔しあっても氷が砕けるかコップが割れるかくらいで済む。でも、水の入ったコップの中にワインを注げば、分離するのは不可能だろ? 松見の精神と肉体は、いまはぎりぎりのところで抑えが利いてるけど、常に“悪魔”と混ざり合いそうになってるんだ。そうなったら、“悪魔”はあいつの自我を食って乗っ取るだろうな。その侵食を抑えるために、松見は“悪魔”が空腹にならないよう、毎日毎時大量の食糧を与え続けないとならない。でも、松見は満たされない。だから常に腹が減るけど、気を抜くと食われる。支配される」
刃が砕け散った。松見の眉の辺りがピッ、と裂ける。
「厄介なのは、“悪魔”には、松見に憑いた理由がないってことなんだ」
松見が身体を折り曲げ、さらに逆に仰け反った。
「“悪魔”が憑く前まで、あいつはごく普通の人間だったんだ。普通に大学行って、友達と騒いで、親孝行して、恋して……それが、さ。ある日突然、総てが壊れちまった。常に気を張ってなきゃならないし、飯を摂り続けなきゃならないから、大学も付き合いもいままでみたいに続けることができなくなって、辞めちまった。山手線で寝過すだけでも命とりだ。容姿も変わったから、家族にも会えない。自殺しようと思ったこともあった。でも、“悪魔”が死なせてくれなかった」
優勢な松見のほうが苦しんでいるのは明白だった。彼は、“悪魔”を支配下においているのではなく。持て余し、暴れ回る“悪魔”に引き摺られながらも、なんとか制御しようとしているのだ。
「以来、あいつは何事にも投げやりなとこがあって……それまで大事にしてきて、それなりに頑張ってきた分、台無しになって、嫌になっちまったんだろうな」
金属を叩き割るような、綿を千切るような、そして骨を砕く歪な音がして。切れ込みから白っぽい液体と赤みがかった気体が漏れだすが、“悪魔”はそれすら飲み込んでしまった。
「……くっ」
松見が、化物と戦っているときよりも苦痛な表情を浮かべた。体中に細かい傷が幾つも奔っているが、それらが痛むわけではない。
食い終わり、なおも管を伸ばし腹に収めるものを探している黒い面が、少しずつ縮んで、折り畳まれていく。
「戻れ」
食い足りない、と言いたげに暴れ狂う“悪魔”に短く命じ、松見は足を踏ん張る。顔から止めどなく汗が垂れ落ちている。集中力を切らしたら、おそらく彼が食われてしまう。
べきべきと折り曲がり、切れ込みに吸い込まれるように、あるいは膚に貼りつき溶け込みながら、“悪魔”は松見の内へ収納された。
「……ふぅ」
緊張が切れたのか、松見はその場に崩れ落ちる。すかさず千織が走り寄り、その肩を支えた。
「お疲れ」
「あんま乱用するもんじゃねーんだけどな……」
物理的に危害を加えるだけの怪異はそう恐ろしくはない。むしろ、そういったものと戦うたびに“悪魔”を解放しなくてはならないのがリスクだ。彼の敵は、内に飼うものである。
「松見さん」
駆け寄るべきか否か、逡巡する。と、松見は立ち上がり、由梨を見た。切れ長の、木の葉のような形の眼は、光を跳ね返しているのではない。
それは、元より――褪せた朱。
「……怖かったか?」
由梨は首を横に振った。迫力はあったが、松見を怖いとは思わなかった。いまでもそう思ってはいない。
「……こんな身体になって初めて思ったのは、絶望と、疑問だった」
松見は緩やかに息を吐く。
「……なんで俺なんだろうって。俺、なんか悪いことしたのかなって、何回も何十回も自分に問いかけてさ」
その顔は、いまにも泣きだしそうだった。感情の滲んだ顔は、見た目の年齢より、遥かに幼い。拠り所のない少年のようだ。
「……世のなかには、何も悪いことしてなくてもひどい目に遭う奴もいる。なのに、興味とか、暇つぶしとか、下らない理由で自分から日常を台無しにする奴がいて。勿体ねえよ、……要らないなら」
彼は、その続きを口にしなかった。
俺にくれ、とは、俺に返してくれ、とは、言いたくてももう、言えなかった。
理不尽は人を選ばない。男も女も、老いも若きも、ある日突然乱暴に、無慈悲に、反転した世界に叩き落される。そうして。由梨はやっと、松見の悲愴を知った。
「――松見さん!」
思わず、由梨は松見に抱きついた。不意のことに、松見と、彼を支えていた千織の身体は大きく傾ぐ。
「な、おい」
「ごめんなさい」
由梨は松見の服に涙が滲む眼を押しつけた。
松見はしばし呆気にとられたが、やがてやれやれ、といった様子で、由梨の頭を撫でた。
「わかったから、もう怪しいことに首突っ込むんじゃねえぞ」
「はい……ありがとうございました」
冬の空は、幕を吊る綱を切り落としたかのように一気に暗くなった。人々の行き交うなか、三人の影は温かな光のなかに優しく浮かぶ。駅に着くのに時間はそうかからなかった。
「ほんとに、ここまででいいのか」
「うん。あとは一人で大丈夫」
判っている。由梨と彼らでは住む世界が違う。これから会うことは、おそらくもうない。
しかし、いつまでも別れを惜しんでいては、せっかく由梨を元の世界に戻してくれた二人の思いを無下にしてしまう。
だから由梨は、微笑んだ。せめてちゃんと別れるために。
「ありがとう、二人とも」
「じゃあな、元気で」
「……さよならだ」
由梨が去るより先に、松見が身を翻した。千織が溜め息をつき、由梨に小さく手を振ると、すぐに追いかけていってしまった。二人が振り返ることはないと判ってはいたが、一礼してから、由梨は改札を通り、駅のなかへと消えていった。
* * *
けっこう、“悪魔憑き”も見てきたつもりだけどね。
きみのような人は初めてだ。表面に貼りついているだけなら剥がせば済むが、内側で癒着しかけているとなると、無理に剥がせばきみも壊れてしまうかもしれない。……すまない、やはりぼくには、どうすることもできないようだ。
或いは、多くの怪異とかかわるうちに分離させる方法が見つかるかもしれない。……だが、怪異と渡り合うために“悪魔”を解放すれば、そのたびにきみは、より強くなる“悪魔”の侵食を抑えなければならなくなる。
それでも……きみが“事務所”で働きたいというのなら、ぼくは心から歓迎する。
先輩の言葉だった。彼は絶望する松見に声を掛け、心を砕いてくれた。松見の状態を解決できなかったことを何度も謝ったが、松見は彼に感謝しているし、おそらくいま東京にいる“事務所”の人間すべて、彼を尊敬しているだろう。
しかし彼は、海麟堂の件で責任を問われ、二年前、千葉に異動になった。
「……み、松見」
名を呼ばれ、もの思いに耽っていた松見の意識は引き戻される。
「スエキチ」
「そのスエキチっていうの止めろよ、たしかにあんまり運良くないけどさ。……由梨、助かってよかったな」
「ああ」
二人はしばらく黙ったまま、並んで歩いた。東京の夜はもはや闇を塗り潰すほど光に満ちているが、いまはいつにも増して明るい。
赤青緑黄に点滅し、あるいは緩やかに他色へと移り変わるイルミネーションが、街路樹を飾り、あるいは広場でトナカイ、プレゼントなどに形作られている。
「そういえば、もうすぐクリスマスか」
華やかな街の様子に、千織が呟く。二人にはかかわりのない行事だが。それでも、この街でクリスマスを祝う人々の平和に少しでも貢献していると思うと、悪くない。
「よし、この調子でノルマ達成すっぞ!」
「なんだ、まだ終わってなかったのか」
「誰のせいだ、誰の」
千織が松見を睨みつける。しかし、その眼光はいつもより数段優しげだった。
「……にしても」
松見も千織を見やった。
「おまえ、今回駅とか駐車場で暴れたの監視カメラに映ってんじゃね? 俺のあれとかウサ公は映らないし、始末しとかないと後々面倒だろ」
「やっべ」
急いで根回ししなくては、と端末を取りだそうとするが、失くしてしまっていたことを思いだし、千織は頭を抱える。
「ああーっ! どうしてあたし、こんな駄目なんだろ……他の人なら、こんなヘマやんないのに……」
「いいじゃねえか」
松見は、柔らかく微笑んだ。この男にしては、珍しい表情だった。
「欠けてる俺と、欠けてるおまえ。お互いに足りないからこそ、補い合えるんだよ」
千織は頬を赤らめ、口元をもごもごさせると、
「しょーがねえな、相棒」
照れ隠しに、肘でつつこうとして、躱された。
人が交わり、すれ違い、出逢い、別れ。
惹かれ合い、傷つけ合い。そして、寄り添い集まる東京の街。
光が強くなれば、それが創る影も濃くなる。様々な人の心が息づき育まれるからこそ、それが孕む怪異もまた、強大にして多様だ。
それでも、ここで生きる人々がいる。先のことがどうなるかは判らずとも、彼らなりに“今”を謳い。自分と、自分の愛する人を照らす未来を祈っている。
明るいから人が集まるのではなく。そういった人の灯が寄り添い合って、この街を輝かせているのだろう。
青年の瞳が朱く煌めく。彼は夜の光を浴びながら歩む。長いマフラーをぱたぱた揺らしながら、少女が後に続いた。
〈了〉