後編
「……なぜ分かった。」
部下の予言どうり、6時10分を指す時計台の下には既に彼女が居た。最近の女は早めに待つのが主流なのかと、疑問を持ちつつも、俺は走る速度をあげる。
喧騒のなかに佇む彼女は、燐と姿勢を正し、まさに知的美人という言葉が似合う。彼女の傍を通りすぎる男どもは、チラチラと彼女に目配せしながら去っていく。
あわよくばとでも考えているのだろうか。だが彼女の目は、遠くの一点を見つめており、誰の視線にも気づかない。
……どうしたんだろう。
「遅くなってごめん。」
隣に立った俺は、探るように彼女に声を掛ける。すぐ傍に俺が来たことで、やっと気付いたのか、突然現れた俺に彼女は戸惑いの目を向けた。だが、それも、すぐにふわりとした笑顔に変わる。
……笑顔も甘くて、俺までとろけてしまいそうだ。
俺は朝味わった彼女の甘味を思いだし、喉を鳴らす。
「いえっ! 早めに着いてしまって。」
「そう?」
彼女の明るい返事に、俺は胸を撫で下ろす。
……良かった。あまりにも真剣に考え込んでる様子だったから、俺と付き合うのをやめると言い出すのかと思った。ま、逃がさないけどね。
「あの……また会えて、嬉しいです。」
「俺も。ね、手を握ってもいい?」
はやる気持ちを抑え、再確認のために俺は差し出された彼女の手を優しく握る。
ドクン ドクン ドクン
……ああ、やはり彼女は触れるだけでいいのだ。それにしても、変わらず甘いなあ。
俺は顔の筋肉を緩めながら、彼女の味を堪能する。
「?」
「あ、ごめんね。じゃあ行こうか。」
俺は後ろ髪を引かれる思いで、彼女から手を離す。
……もっとくっついて居たいのに。ああ、そうだ。
彼女の腰に腕をまわした俺は、エスコートをするふりをして彼女の体に密着する。
接着面積が増えたことで、先程よりも多くの食事が一度に腹の中に流れ込む。これはすばらしいと、俺は満足げな笑みを浮かべながら、ゆっくりとした足取りで彼女をレストランへと案内する。
「美味しいですね!」
運ばれてきた料理に、彼女は舌鼓を打つ。
「ああ、そうだね。」
……俺は、君の方が美味しいと思うけどね。
食べ物を口に運ぶ俺は、適当に咀嚼してからそれらを飲み込む。腹が二つあるせいか、俺は昔から口から取り入れる食事にあまり興味がなかった。いろんな料理を並べられても、たいして味の違いが判らないのだ。
だけど、彼女の作る手料理は違うのかもしれない。
そんな考えが浮かび、彼女の手で作られたご飯はどんな味がするのだろうと、俺は期待で胸を膨らます。
「ん? どうかしました?」
「いや。早く君の手料理が食べたいなと思って。」
「え!?」
目の前に座る彼女が、みるみるうちに固まっていくのが分かる。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。でも、無理に作って貰わなくても……って言ってあげたいところだけど、それは譲れないかな?」
「私、そんなに料理得意じゃないし……。そうだ! 料理教室に通います。だから、少しだけ待っててもらってもいいですか?」
「気にしなくて良いんだよ。君が作ってくれる料理なら、なんでもいいんだ。そう、例えば……おにぎりなんてどう? 今度、絶対に作ってきてね。」
俺は出来うる最大限の甘え顔を浮かべ、首をかしげて彼女を見上げる。
そうだ、それがいい。直に手で触れなが作られた物の方が美味しいに決まってる。
俺はいい考えを思い付いたと、自分を誉めた。
「おにぎり!?」
「うん、そう。今度会うときは、絶対。なんなら今から作っても大丈夫だよ? 確か家の冷凍庫に固めたご飯があったはず。」
「えっ! そ……それは……えっと……今ご飯食べてるし……。」
なぜか彼女が焦り出す。
……はあ、それにしてもこんなに近くに居るのに、触れることが出来ないとは。
俺は向かい合ってしか座ることのできない席を呪った。
食事の後、俺はバーへと彼女を誘う。
俺が贔屓にしているバーは、薄暗く、そして何より、客があまりいない。でも、やっていけるのだそうだ。まあ、とんだぼったくりのお店だからな。だが、それに見合った安らぎを得られるから、通うことがやめられない。
カウンターを陣取った俺は、ここぞとばかり彼女に密着する。後ろから彼女を包み込むように、べったりと。
その店にどのくらい滞在した時だろうか。突如名前をよばれ、俺は振り返る。
すると、すぐ後ろに俺の親友が立っていた。
「ゴウ。」
俺はそいつに呼び掛け返す。
ゴウは俺の様子をみて、酷く驚いていているようだった。
そうだろう。どう見ても俺の隣にいる女が、夜の蝶には見えないからだろう。
俺は、この親友には全てを話していた。全て。何もかも。それに、俺には二つの胃があり一人の女では満足できないこと。だからこそ素人の女は諦めたこと。そして、腹を満たすために夜の街を渡り歩いていることも。
唯一、俺が腹を割ってすべてを話せる友人だった。
ゴウが俺のことを心配してくれているようで、大丈夫なのかという目線を俺に向ける。
俺はその問いにゆっくりと頷いた。
そう、あいつ、最初は俺のことを本当に心配していたのだ。だから、彼女の横に座り、彼女に根掘り葉掘り質問するのを止めなかった。彼女にも、俺の友人が心配性でと謝り、あいつの怒涛の質問に付き合って貰った。なのに、気が付けば、あいつは彼女を口説き始めていた。俺の彼女を!
しかも、俺が手が早いだ、女を泣かしてすぐ捨てるだ、浮気癖があるだ、あることないこと……いや、ないことばかり言いだして、俺と彼女を引き裂こうとする始末。わざとか? 俺のためを思って引き裂こうとしているのか? 自分のために引き裂こうとしているのか!? よく分からないが、俺は売り言葉に買い言葉ではないが、あいつに応戦した。
彼女から手を離せば、すぐにでもあいつは掻っ攫っていきそうな勢いだったので、俺は彼女を傍らに抱きながら反論した。
いっとくが、親友がバーに来た時点で、俺はすでに腹が十二分に満たされていた。折角だからと、俺は限界まで試そうと思ったのだ。
あいつが店に入って来た時、俺は“げ”と思った。だが、唯一の親友を無下にできず、あいつの不安を拭い去ることが出来るのであればと、あいつの質問に付き合った。この時、彼女に触れるのを止めとけばよかったのだが、それも過ぎてしまってからではどうしようもない。
そして、彼女を抱きしめての親友との言い争い。
苦しかった。本当に苦しかった。だが、敵前逃亡は俺のプライドが許さない。
俺は満杯になった腹を揺らしながら戦った。
あ――苦しい。食べすぎた。もう、ほんの少しも食べられない。
俺は腹を押さえながら、タクシーで彼女を家へと送る。もちろん、俺は助手席で、彼女は後部座席だ。これ以上接触したら、供給過多で吐いてしまうかもしれない。
「部屋にあがりませんか?」
タクシーを降りると、アパートの下で彼女が俺を誘う。
「ごめん、もうお腹がいっぱいで……。また会おうね!」
俺は逃げるように、彼女のアパートを後にした。
……無理だ、本当にもう無理……。
苦しさを抱えて走り出した俺は、家までジョギングをすることにした。こっちの食事でも太ってしまうのだろうかと、俺は腹を見下ろす。
はやり、腹はパンパンに膨れ上がったままであった。
「あ、今日は朝帰りじゃないんだ。珍しいね。」
実家に帰ると、弟が冷蔵庫の前で牛乳を飲んでいた。
……風呂あがりか?
俺は濡れた弟の髪を見つめる。
「まあな。」
「ふうん。いい女を見付けたんだね。よかたね。」
弟は感心なさげに返事を返す。
それもそうだろう、俺と寝た女は、弟には抱けないのだ。その反対もしかり。一種のマーキングみたいなものなのだろうか。弟に抱かれた女は、オスの匂いが酷すぎて萎える。
だが、弟以外の男が抱いた女は嫌な臭いがしないし、俺らが抱いた女でも、普通の人間なら匂いが気にならないらしい。
……はっ。俺らってもはや人間じゃないのかもな。
俺は自嘲気味に笑う。
まあ、弟は処女しか食わないし俺も店の常連だから、俺らの女が被ることがないのが不幸中の幸いだけどな。
俺はかいた汗を流すため、リビングを抜け風呂場へと向かう。
「その匂い……。その女は僕のだよ?」
俺が傍を通り抜けたことで何かに気付いたのか、弟は俺を引き留める。
「は?」
匂い? 何のことだ? マーキングか?
「君の纏ってる女の匂いのことだよ。その女、僕のだからね? 僕が先に見付けたんだから。まさか、もう寝たりしてないよね?」
女? ……彼女のことか? こいつ、女の匂いも区別がつくのだろうか……。いや、それより、彼女がこいつのもの!?
「なんだ、その理由。先に見付けたからって。」
平静を装うも、思いもよらぬ弟の言葉に動揺したのか、俺の心臓は大きく打ち鳴り始める。
……それに、彼女から弟の匂いはしなかったはずだが。
「え――約束したじゃん。最初に目を付けた方が、食べる権利があるって。」
「そんな約束……していたか?」
「したよ。高校の時。」
そう言われると、そうかもしれない。あの頃はよく女が被りそうになっていたから。
「寝ては……いない。」
「よかったあ。あの子、美味しいでしょう? 僕の癒しでね。だから、譲る気はないからね?」
「……お前が先に見付けた証拠でもあるのか?」
ここで引き下がってしまえば、彼女はもう手に入らないのではないかという思いが過ぎり、俺は弟に食らいつく。
「へえ。よほど気に入ったんだね。まあ、俺も気に入ってるしね。だからこそ手を出さずに、ちょっとずつ食べてたんだけど。」
「だが、あいつはもう俺と付き合ってる。」
彼女は既に自分のものだと、俺は主張する。
「……そうなんだ……。彼女さ、俺の会社の子なんだよ。どうせ、俺があまりにもそっけないから、顔が瓜二つのお前のところに行ったんだろう? はあ、こんなことなら、さっさと食べておけば良かった。君にとっては久しぶりの獲物かもしれないが、残念だけど諦めてよ。」
「え……。」
弟の言葉が、俺の胸に突き刺さる。
彼女が弟の会社の人間? ……だったら、俺がこいつと同じ顔だと知ってるはず。なのに、俺に一目惚れ!? 俺は……弟の代わりだったのか?
突然知った彼女の事実に、俺は戸惑う。
「もうさ、これ以上彼女に接触しないでくれない? 彼女は俺の大切な食糧なんだ。お前の匂をつけられると困るんだよ。俺、鼻が良いからさ、お前が触れただけで匂うんだ。」
「食糧!? あいつのことを、人として見ていないのか!?」
「……なに言ってるの? きちんと人間として認識はしてるよ。だが、俺らにとって女は生きて行くために必要不可欠な物。必要以上に感情移入すれば、俺らは飢餓で死んでしまうことをまだ学習しないのか? ……まあ、素人の女を捨てた時点で君の知能が低いことは分かっていたけどね。」
弟がため息混じりに呆れ、反対にそれを見た俺は焦る。
「分かってる! だが、彼女は他の女とは違うだろ!?」
「違うって何が? もしかして彼女に惚れたの? でも、もう俺のだからさ。約束は守ってよ。」
「……分かってる。約束は約束だ。守る。先に見つけたお前に彼女を拘束する権利がある。……だが、もし彼女がお前より俺を選ぶなら、すぐに俺に引き渡せ。いいな!?」
俺は弟に粘り強く食い下がる。
そんな俺に弟は不快感をあらわにした顔を向ける。
「……君を選ぶわけないよ。だって彼女、僕に惚れてるし。僕のことを君に一切話さなかったのが良い証拠だろう?」
「分かっている。俺がお前の代わりだったと言うことぐらい。だが、俺と知り合ったことで、俺の方がいいと言うかもしれないだろう? だから、力を使って拘束するのはなしだ。相手の意志を尊重しろ!」
「……君、今でもそんなこと言うんだね。全く成長してない。まあ、相手の意志を尊重するのも約束事項に入ってたから、守るけど。」
「約束だぞ!?」
「分かってるよ。じゃあ僕は今からデートだから。」
面倒くさそうに俺の言葉に同意をした弟は、約束の時間に遅れるからと足早に準備をして家を出て行った。
一人残された俺は、しんと静まり返る明かりのついた居間で、漠然とした思いで長い夜を過ごす。
次の日、俺はいつもの駅の改札口を抜けると、ぼんやりとしながら会社までの道のりを歩く。昨夜は彼女のことを考え、あまり眠れなかった。
……もっと彼女に優しくすれば良かった。そしたら、俺を選んでくれたかもしれないのに。
昨日、散々悩んだことを、俺はまた蒸し返して後悔していた。一度限りのチャンスだったかもしれないのに、と。
偶然を装い、今日も彼女の時間帯に合わせて出勤しようかとも考えた。だが、それでは弟との約束を破ることになる。例え、お互い合い入れなくても、女を取りあう者同士でも、唯一、本当に理解しあえる者同士なのだ。他にはいない、同じ部類。
弟との約束は、命に代えてでも絶対に反故してはいけない。それが、他人とはちがう性質を持つ俺の心情だった。
その時、一台の赤いスポーツカーが俺の横を通り抜ける。車はそのまま路肩の駐車場に停まるらしく、徐々にスピードを落としている。俺はついその車を目で追う。その車が弟の物にそっくりだったのだ。
……あの車だと、女をひっかけ易いらしい。
俺はじっとその車を見つめた。多くの女を知っている弟でも、彼女の味は美味しいと言っていた。触れることで食事が出来るのも、さほど気にしてはいなかった。と、いうことは、彼女のような体質の人間は探せば居るのだろうか。
弟のように数をこなす訳にはいかないが、触れるだけでいいのなら、多くの女を試すことが出来る。
……だったら、こんなにも彼女に固執する必要はないのか!?
そうだと気付くも、何故か曇った思いは晴れない。
今となっては懐かしい彼女の味を、俺は思い出す。胃はまだ満たされた状態であり、すぐに摂取する必要はないが、彼女の物なら今すぐでも食べたい。
俺はふと、弟の物に似た車に目をやる。やっぱり弟のそれだったらしく、運転席にはあいつの姿があった。
……え……。
俺は次に目に飛び込んできたその情景に愕然とする。“彼女”が一緒に乗っていたのだ。
やはり俺は弟の代わりだったのだ。あれから二人はデートをしたのだろうか。そしたら、彼女はもう……。
俺は絶望で目の前が暗くなるのを感じた。彼女の代わりは探せば居るかもしれない。落ち込む必要はないと、自分を励ますも、気持ちは上がらなかった。
と、俺の第六感に何かが響く。ぞくぞくと鳥肌が立つような違和感。
俺は息を呑み、再び弟の車に目を向ける。車内では、弟が彼女をじっと見つめていた。弟がじわじわと彼女に近づく。キスでもしそうな勢いだが、そこに甘い雰囲気は漂っておらず、何か重苦しい空気を感じる。その空気に俺の全神経が呼応する。
あいつ……力を、使ってる!?
俺は急いで車へと掛けだした。
俺を車外に見つけたのか、軽いため息を吐く弟の様子が見える。
「おい! 力は使わない約束だろ!」
ロックを外されたドアを開けながら、俺は弟に怒鳴りつける。彼女を車の外へ引きずり出そうとするも、抵抗されて思うようにいかない。俺は壊れ物の包み込むかのように抱きしめた。
振り返る彼女は、俺の顔を見て眉を潜める。
……邪魔をしてしまったのだろうか。
彼女から流れてくるものは甘いのに、彼女の目は冷たく、俺は心をかきむしられる。昨日はあんなに嬉しそうな笑顔を俺に向けてくれたのに、と。
だが、体から急に力が抜けたかと思うと、彼女は次第に体を俺に預ける。はっとした俺は、再度彼女の顔に目を向ける。彼女は嬉しそうに顔を緩め、俺を見つめていた。
「良かった、間に合って。」
ゆっくりと彼女を車の外に立たせると、俺は彼女を腕の中で拘束する。
……もう離さない。
「ご……ごめんなさい……。私ったら……。」
彼女が申し訳なさそうに俺を見上げる。
……泣きそうな表情も可愛いな。
「お前が謝る必要はない。全部あいつが悪いんだ。」
俺は彼女の頭を撫でながら、弟を睨みつける。
「残念。」
弟は悪びれなさそうに小さくため息を吐く。
……こいつ……。
「さっさと、行け。お前とは後で話し合いが必要そうだな……。」
それでも、あいつの大切な女を横取りしたことには変わりがないと、俺は弟の顔色を窺う。
「は――い。じゃ、先行くね。遅刻しないようにね!」
弟は爽やかな顔をしており、俺は拍子抜けながら立ち去る弟を見つめる。
「ごめんな。」
俺は二人になると、彼女を改めて抱きしめながらそう呟く。
「い……いえ。どうしたの? なんでリュウが謝るの?」
「お前、あいつと同じ会社だろ? 昨日の夜知ったんだけど。で、お前が俺とあいつを間違えて告白したってあいつが言い張ってさ。それに、先に目を付けてたのは自分だって主張するし……。」
「間違えてないよ!?」
彼女は全身で否定する。
それは俺を心から喜ばせた。
「うん。さっき理解した。力を使わないとお前を崩落出来ないなんてな。」
「……力?」
「あ――それにしても、本当にお前は美味いなあ。」
「……うまっ?」
「触れるだけで食事が出来るって。お前を抱いたらどうなるんだろうな。」
俺は彼女の頭に顔をうずめる。
……抱き心地も最高。
うっとりと彼女に酔いしれながら、俺は彼女を思う存分抱き締めた。