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望むものは

作者: 天秤

 来るべき時が来れば、私は高遠翔の妻になる。

 それは、夢でも希望でもなく、決定事項の筈だった。


『あなたはこの人のお嫁さんになるのよ』


 幼いあの日、父の後ろを母に手を引かれながら着いて行った先に立っていた、自分と似通った背格好をした、ひどく綺麗な男の子。

 大人たちに囲まれ、けれど自分と違って堂々と背筋を伸ばして立っている。

 一目で惹かれて、幼いながらに恋に落ちるのはあっという間だった。

 その男の子の前に立たされて、母にそう告げられたあの日から私は彼の婚約者であるという事実に、ずっと胡坐をかいていたのだ。



 ―――あの高遠翔に好きな女が出来たらしい。


 一つ年上の彼と同じ高校生になってしばらく経った時、そんな噂が出回り始めた。

 自分と変わらなかった筈の背丈は、いつの間にか見上げなくてはならなくなるほど伸びていて。

 作り物かと思ってしまうほどの秀麗な、美少女にも見紛う顔立ちは、すっかり男らしいものに変わっていた。

 モテるということは知っていたけれど、婚約者である私という存在がいるからか、恋人というポジションの人間はいなかった。


『好きな人が出来たんですか?』


 居ても立っても居られず、どうか否定してくれと願いながら尋ねた時、彼は間違いなく否定してくれたのに。

 そのことにすっかり安堵して、何もしなかった私が悪いのか。

 彼の言葉を信じて、まだ誰のものにもなっていないと、安心しきった私が愚かだったのか。

 だって仕方ないじゃない。

 彼は、誰も寄せ付けない人だった。

 親が決めた婚約者でしかない私には、決して彼の内側に入ることはできなかった。

 いや、一人だけ例外がいた。

 親友の香坂晴臣。

 生後数ヶ月からの付き合いだと紹介されたのは、いつのことだったか。

 その人といつも二人でいたはずなのに、ふと見てみると、いつの間にか三人になっていた。

 季節外れの転校生だという彼女は、特別美しいわけではなかったけれど、笑顔のとても可愛い人だった。

 二人とも、簡単に誰かを傍に置くことなんてしないのに、彼女はそれを容易くやってのけた。

 初めは、翔さんではなく、その親友である晴臣さんが、彼女のことを好いているのだと言われていた。

 けれどいつの間にか、翔さんと彼女が二人でいることが増えていき、あの翔さんが優しく笑いかけ気にかけていると、そういったことから、彼女に思いを寄せているのは翔さんだと言われるようになった。

 そして、彼女も翔さんのことが好きだと。

 ―――私は、邪魔なのだと。


 そして、恐れていた時がやってきた。


「華乃、近いうちに時間を作ってもらえるか」


 その表情と声音に、決して私にとっていい話じゃないんだと、彼女のことについて話されるのだろうということはすぐに察しがついた。

 話なんて聞きたくない。

 そう言えたらどんなにいいか。

 臆病な私は、心の中で詰ることしかできず、明日の放課後なら時間を作れると返事をした。

 別に今日特別何かがあるわけではなかったが、心の準備をしたかった。

 みっともなく縋ったりしない準備を。 



 翌日の放課後、待ち合わせたカフェにやって来た翔さんは一人ではなかった。

 翔さんの一歩後ろを着いてきた、申し訳なさそうな顔をした、噂の彼女。

 この場にさえ、翔さんは彼女を連れてくるのか。

 最後になるかもしれないのに、それさえも二人きりで会ってはくれないのか。

 先に到着して、紅茶を飲んでいた私に気付くと、少しだけ歩みを早くして私のところまでやって来た。


「遅れてすまない」

「いいえ、私が早く着いただけです」


 ダラダラと待ち合わせギリギリまで粘れば、そのまま約束を反故にしてしまいそうだった。

 見上げた翔さんは、相変わらず精悍で整った顔をしていて、思わず見惚れてしまう。

 私たち以外のお客さんも、翔さんに視線を集めているのが分かって、自分が注目されているわけでもないのに、居心地が悪い。

 一方そんな視線に慣れている翔さんは、気にする風でもなく、連れてきた彼女に椅子をすすめる。


「急に悪かったな」

「大丈夫です」


 急なんて嘘。

 一体いつ話をしようかと、今か今かと待っていたくせに。

 そして、私は一体いつ話を切り出されるのかと、彼女を見つめる翔さんの眼差しを見た時からずっと怖かった。

 どうして私のことはそうやって見てくれないのかと思うと同時に、つまりはそれが答えなのだと思った。


「お前が、俺のために努力してくれていたのは知っている」


 頼んだコーヒーが来るのも待たずに、翔さんが切り出した。


「だけど、そのことを知るたびに、俺は高遠の家に縛られている気がしていた」


 一口、もう冷めてしまった紅茶を飲む。

 さっきよりも、渋い気がした。


「理紗といる時だけは、高遠の名を忘れられる」


 ちらりと、横に座る彼女、理紗さんに目をやり、見つめ合うところを見せつけられる。


「家も何も関係ない、俺自身を見てくれる」


 再び私に向き合った翔さんには、向かい合った時に見せた微かな迷いが消え去っていた。


「だから、俺は理紗と共にありたいと思った」


 翔さんに手を伸ばし、袖を掴む白い手。

 振り払いたい衝動を、手を握ることで耐えた。


「すまない、華乃」


 謝って欲しくなんかなかった。

 そうされることで、余計惨めになるということを分かってくれと言うのは横暴なのだろうか。


 今までずっと、彼が私の婚約者なのだと教えられてからずっと、将来彼の隣に立つためだけに私は生きてきた。

 教養も立ち居振る舞いも、習い事も、全ては高遠の妻に相応しくあるようにと言われれば、どれだけつらくても耐えてきた。

 その全てが、無駄だと言われた。重かったと言われた。

 好きな人に相応しくあるようにと努力したことが、彼には負担だったのだ。

 家も何も関係ない?

 そもそもが、家同士の政略的なこの関係で、家を無視することなど不可能だった。

 そんなこと、分かっている筈でしょう?

 私だって、家なんて関係なしに貴方に惹かれたのに。

 瞳を潤ませてこちらを見てくる彼女に苛立ちが募る。

 その中に、ほんの少しの優越感と私への同情を見つけてしまっては、もう駄目だった。


「……分かりました。父と母には?」


 家など関係なくありたいと言う貴方が、一番家に拘っているじゃない。

 そのことを認めないというならば、とことん私が拘る。

 私の感情など関係なく、家のために貴方と今まで付き合ってきたのだと、そう態度で示してあげる。

 そうすれば、きっと貴方は私に気兼ねすることなく彼女と笑いあえる。

 素直に了承した私に、翔さんはあからさまに安堵する。


「それは当然俺から話をする。時機をみて伺おう」


 ホッとしたように目の前で笑いあう二人。

 それを前にして、異を唱える勇気など、私は持っていなかったのだ。

 家なんて関係ないと、声を大にすれば何かが変わったのだろうか。

 私が十年以上かけて辿り着いた場所に、彼女はほんの僅かな時間で辿り着いた。

 そうして気が付いた時には、とっくに追い越されていた。

 敵うわけがなかったのだ。



 時間をかけて高遠のおじ様とおば様を説得した翔さんは、その勢いのまま家へやって来て、巧みな話術で私の両親を説得した。

 悪いのはすべて自分だと、私は何も悪くないと、私のフォローまでして。

 両親は私がそれでいいならばと、特に抵抗することなく、翔さんの話を受け入れた。

 そして、今までの時間は何だったのだろうという呆気なさで、私と翔さんの婚約は解消されたのだ。


 私との関係が綺麗さっぱりなくなった翔さんは、晴臣さんを交えることなく、彼女と常に行動を共にするようになった。

 一応、自身に婚約者がいるということを考えて、晴臣さんと三人で行動していたらしい。

 噂の広がり方からして、それほど意味はなかったようだけど。


「君はそれでいいの?」


 仲睦まじく昼食を中庭で食べている二人を廊下の窓から眺めていると、後ろから声をかけられた。


「いいも何も、翔さんが決められたことです。私にどうこうできることじゃありません」


 晴臣さんだということはその声で分かっていたから、振り返ることなく返事をする。

 失礼な態度だと分かっているけど、晴臣さんも特にそれを咎めることもなかった。

 私と翔さんの婚約がなかったことになった後、時々こうして晴臣さんは私に声をかけるようになった。

 今までも、顔を合わせば挨拶ぐらいはしていたが、会話という会話はほとんどしたことがなかった。

 きっと気を遣われているのだろう。

 内容はいつも当たり障りのないことで、二人のことに触れたのは、考えてみれば初めてだったかもしれない。

 隣に立ったのを気配で感じて、そっと上を窺う。

 翔さんには負けるけれど、晴臣さんも充分長身だ。

 静かに見下ろしてくる晴臣さんに、私は上手く笑えているだろうか。

 この人の前に立ち、真っ直ぐに見つめられると、何もかも見透かされているような気がしていた。

 ちっとも強くなどない、張りぼての私の正体に気付かれるのではないかとずっと思っていた。


「全然そうは見えないけど?」

「……そんな簡単に忘れられたら苦労はしません」


 だから、気付かれているのならいいかと思ってしまった。

 誰にも言ったことのなかった心情を、この人になら打ち明けてしまっても。

 くしゃりと顔が歪むのが自分でもわかったけど、取り繕おうとは思わなかった。


「……彼のためだと思ってやっていたことが、重荷だったそうです」


 全て無駄だった。


 婚約解消の場での会話を、翔さんはどの程度晴臣さんに話したのだろうか。

 彼のためだった、そう思っていた。

 だけど、その先には高遠の家があったことは間違いなくて、きっとそのことが翔さんには負担だったのだ。


「そう」


 否定も慰めもしない。

 もしかして、以前から翔さんに私の存在について何か話を聞いていたのだろうか。


「それで、大人しく引き下がって、こんな場所からあの二人を眺めてるってわけか」


 非難めいた、というより、呆れを多分に含んだ声音に目を見開く。

 そこにはいつも通りの穏やかな顔の晴臣さんがいて、無性に腹が立った。

 翔さんにぶつけられなかった怒りが、今更湧いてきたのかも知れない。

 それを、目の前にいるこの人にぶつけるなんて間違っていると分かっていたけど、我慢できなかった。


「どうしてそんなことを晴臣さんに言われないといけないんですか」


 こんな風に喋ったのは、いつ振りだろうか。

 もしかしたら初めてかもしれない。

 たおやかであれ、穏やかであれ。

 そう言われ続けてきた私は、声は上げることはおろか、きつい口調で喋ることすら皆無だった。


「婚約解消が不満で仕方ないくせに、何をそんなに物分かりのいい振りをしてるんだろうと思って」


 図星だった。

 クスリと笑われたことがどうしようもないほど恥ずかしくて、消えてしまいたいと思った。

 それと同時に頭に血が上り、吐き出さずにはいられなかった。


「あなたには分からない。翔さんの傍にいることが、当たり前の様に許されてたあなたに、私の気持ちは絶対に分からない!」


 口にして初めて分かった。

 私はずっとこの人に嫉妬していたのだ。

 翔さんとの間に壁を作ることなく、隣にいることが当たり前だった人。

 そこにたどり着きたくてしょうがなかった。


「そう言われてもね」


 そして、苦笑されて痛感する。

 こうやって理不尽に詰られても、軽くいなせる冷静さ。

 私が決して持ちえなかったもの。

 表面上は何もないように振る舞っていても、心の中は大荒れだったことは数えきれない。

 嫉妬していて、けれど自分がそこにたどり着けない理由だってきっと分かってた。


「……本当は分かってるんです。私じゃ駄目だった。自分では頑張ってるつもりでも、足りなかった。それだけの話です」


 そして、彼女は翔さんの望んでいたものを満たしてた。

 ただ、それだけのことだ。


「……くだらない」

「え?」


 俯いて、けれど涙だけは流したくないと必死に堪えていたら、頭上から言葉が降ってくる。

 何を言われたのか聞き取れなくて、視線を上げて聞き返すと、冷たい表情の晴臣さんがいた。


「くだらないと言ったんだ。いくら君がいいと言っても、君と結婚することは当人だけでなく家同士の問題だ。私情で簡単に覆していいものじゃない。そんなことも分からなくなるほど彼女に溺れているのか」


 今まで聞いたことのないような冷たい声に震えそうになるのを必死で堪え、どうにか言葉を紡ぎだす。


「翔さんがお嫌いなのですか?」


 ともすれば、翔さんを貶しているとも取れるそのセリフに、確認せずにはいられなかった。

 私が嫉妬するほど長い間近くにいたのに。


「まさか。嫌いだったらこんなに長い間一緒にいないよ」


 肩を軽くすくめる姿なんて、今までも見たことがあるのに、こんなに素っ気ない仕草だと思ったのは初めてだった。


「嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、愚かだとは思ってる」

「愚か、ですか?」


 くだらない、と切って捨てた時よりは幾分柔らかくなった声色に、少しだけホッとする。

 出てくる言葉は相変わらず棘があったけど。

 非の打ち所がないと常々言われている彼を、そう評するのはきっとこの人だけに違いない。


「愚かだろう。これほど長い間健気に慕って尽くしてくれている子を袖にして、あんなのを好きだなんてのたまうんだ。これが愚かじゃないと言うのなら一体何て言うんだ?」


 あんなの――。

 翔さんと彼女とこの人が一緒に笑いあっているところを何度か見たことがある。

 こうやって蔑んでいる様子など、欠片も見せなかったのに。


「強かな女だよ、彼女は。君のほうがよっぽど繊細だ」


 あんな女に、助けが必要だって?


 続けられた言葉に首を傾げる。

 助け? 彼女は翔さんに何か助けを求めたのだろうか。

 そんな疑問が頭をよぎったのは一瞬のことで、冷たく吐き捨てた後、そっと頬に添えられた冷たい手が怖くて仕方ない。

 こんなに怖い人だっただろうか。


「可哀想な華乃。あんな奴、君から見限ってしまえばよかったのに」


 呼び捨てにされたのは、初めてだった。

 いつも優しげな声で、“華乃ちゃん”と呼んでくれていたのに。

 あんな奴、と翔さんを呼んだ晴臣さんは、笑っているのに酷薄に見えて、知らず膝が震える。

 翔さんのことを分かっていない以上に、私はこの人のことを何一つ分かっていなかったのだ。


「まあでも、結果としては良かったのかな」

「よかった……?」


 私が翔さんに振られたことが?

 付き合っていたわけではないから、振られたと表現することが合っているかは分からないけど。


「これで、俺が華乃に対してどう行動しようと咎められる理由はなくなった」


 肩を引き寄せられ、すっぽりと晴臣さんの腕の中に納まる。

 家族以外の異性に抱きしめられるなんて初めてで、抜け出そうとするけれど、あっさりと封じられる。


「そんなにあからさまにしていたつもりはないけれど、そこまで君は鈍くないはずだ」


 その言葉は、それでもめげずにもがいていた私の動きを止めるには充分すぎた。

 大人しくなったことに気付いたのだろう、私を抱きしめる腕の力が弱まる。


 ―――ふと気付くと、向けられていた静かな熱に、気付かないふりをしていた。

 何かの間違いだと、私の気のせいなのだと言い聞かせていた。

 そうしなければ、どんなに追いかけても振り向いてくれない翔さんを追い続けることがしんどくなった時、引きずられてしまいそうだった。


「もう充分だろう華乃」


 囁かれる声が、あまりに甘くて、魅力的で。


「他の女を選んだ翔に操立てする義理なんてどこにもない。良心が咎めるなら、全て俺のせいにすればいい。翔のせいで傷ついた君に、つけ込んだのは俺だ」


 そっと髪をなでる手はどこまでも優しく。


「華乃」


 拒否するために晴臣さんの胸に当てていた手を、おずおずとその背に回す。

 こんな簡単に絆されて、なんて軽い女だろう。

 けれど、そうなって困ることなんてもうないのだ。

 貞淑でなくてはいけない理由なんて、どこにも見つけられない。

 私を望んでくれる人を私も望んで何が悪いの。



「華乃、好きだ」


 その言葉が、ずっとずっと欲しかった。


「翔のために全てを捧げて頑張ってきた華乃の全てが好きだ」


 努力してきたことを認めてもらえるのをずっとずっと待っていた。

 

「直ぐにじゃなくていい。少しずつでいいから俺のことを見て欲しい」


 翔に向けられる華乃の視線が、俺に向けばいいのにと、ずっと思ってた―――。


 零れる涙は歓喜の表れ。

 拭ってくれる手の優しさに、また、涙が溢れる。

 さっきは冷たいと感じたその手が、今は酷く心地よかった。



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