先の見えない朝
次に目覚めた朝は、よく晴れた心地よい日だった。窓から見えるところにウグイスカズラの花が咲いている。ああ、今は春なのだ、と名もなき少女は思った。
ここはどこだっけ。……ええと、ああ、そうだ。私は昨日ここへ来て、それで――少女は深呼吸をして回想する。
少女の記憶はなくなった。正確に言えば、失ったのは「想い出」だった。現に、花の名前もわかるし、すらすらと言葉が出てくる。普通に話すぶんにはなんら問題はない。ただ自分がどこでなにをしていたのか、何者なのか、そもそもどういう名前であるのかさえ、わからなくなったのである。
――同じようなんが、グリトニル邸ゆうとこにおるわ。
そんな話を聞いて少女はここへ来たのである。そして成り行きで一晩を過ごしたのだ――が。
あれ?私、何やってたんだっけ?いきなり泊まったんだったけど……いいのかな、これ。いきなり人の家上がり込んで泊めてもらったって、もしかしたらすごく失礼な気がする。家が広いからとか、そういう問題じゃないでしょう!
少女は手早く髪を整え、借りた寝間着を脱いだ――そこで、小棚の上にある、昨日着ていた服がやけに綺麗に折りたたまれていることに気がついた。広げてみると、昨日付いたはずの泥の汚れなどが一切見当たらないどころか、しわ一つない。洗濯され、シワ伸ばしまでされているらしかった。
こんなことまで。すごい。こんなの、どこの宿だってやってくれないんじゃないかな――ああ、感動している場合じゃない。急に世話になったんだし、とりあえず挨拶ぐらいしなくちゃ。そうしたら早く出てかなくちゃ……。
手荷物が全くないことを思い出し、少女は自分が無一文であることを知って、途端に憂鬱になった。この先、どうすればいいんだろう?
こんこん。
部屋の扉がノックされて、少女は一瞬驚いて固まった。
「はい」
『朝ごはんですー。おなかすいたですか?』扉の向こうで、可愛らしい女の子の声がする。フリーンというメイドだ。
「ご、ごはん、ですか?ちょっと待ってください、着替えますから……」
少女はさっと着替えて、扉を開けた。フリーンは待っていた。
「急がせてしまったみたいですね、ごめんなさいです」
「いえ、とんでも……。ですが、朝ごはんまでご馳走になるなんて、悪いですよ。泊めてもらうだけでも十分なのに」
「何を言うですか。ごはんはしっかり食べなくちゃダメです。いいのです、これはボクのおしごとですから。遠慮しちゃダメです。……気分が悪いなら、別ですが」
「そ、それは……」
そのタイミングで、少女の腹がきゅぅうと音を立てた。……しまった。昨日、何も食べてない。
フリーンはにっこり笑った。「食堂は一階にあるですよ」
少女の遠慮に説得力などなく、諦めてフリーンについていった。改めて、すごい家だと感じていた。