やっとわずかに笑った
「……フォルセティさんも?」
「そう、ボクも記憶を失くしてる。半年ぐらい前かな。何もわからなくなった。かろうじて名前だけはわかったし、普通に話すことも文字を書くこともできたんだけど、それだけだった。フリーンのおかげで、なんとか自分のおかれた状況は理解したんだけど、それだけでもずいぶん時間がかかったな」
少女は雨上がりの沼地を進むように、彼の言葉の一語一語を反芻していった。息を潜め、転ばないように、また道端の草をひとつも見逃さないように。
「先生が言っていた、同じようなの、って、あなたのことだったんですね」
「ん?」
「いいえ、なんでもありません」
「そう。……とにかくね、キミだけじゃないってことだ。この現象は、他の人にも起きている。少なくともボクと、あともう二人いる。ひょっとしたら、もっとたくさんいるかもしれない」
「他にも、もっと?」
「そ。安心してよ」
少女はふっと肩の力が抜ける感覚を覚えて、やっとわずかに笑った。同時に、こんな不安を感じている人がまだまだいるのなら、それはそれで嫌だな、とも思った。
「そういえば、キミの名前を聞いていなかった……と、そうだ、わからないんだっけ」
少女はこくんと頷いた。フォルセティは腕を組んで考える。「思い出すまで、なにか仮の名前が必要だね。仮といってももうひとつの自分の名前だから、それなりに考えないとな」
まあ、今はいいか、とフォルセティは呟いた。その間少女はじっと見守っていた。
「ねえ、キミ、他に頼れるところはある?」
「頼れるところですか……わかりません」
「だよね。……とりあえず今日のところは、ここに泊まっていったらどう?」
「ここに、ですか?」
「うん。別館には泊まれるような部屋がいくらかあるから」
別館――この家はどれだけ広いんだろう――その程度しか思う余裕はなかった。少女はすでに疲れ果てていて、断ることはできなかった。
記憶を失い、病院で目覚め、やっとグリトニル邸まで辿り着く頃には、日も暮れていた。長い一日だった。