かすかな争いの音
医師が戻ってくるまで、少女は動くことができなかった。空っぽになった自分を自覚するのには、そう時間はかからない。ただ、認めるまでには至らなかった。
名前さえ。――どうして?名前だけじゃないんだ。何もない。私はどこにいたんだっけ、何をしてたんだっけ。思い出せない。どうして……。
少女は絶え間無く自問し続けた。目眩がした。
「ほい」
差し出された水が数回揺れた。何度か声をかけられて、少女はやっとそれに気がついた。
「調子、悪いか?」
「いいえ……ごめんなさい。いただきますね」
水が食道を下り、全身に染み渡るのを感じた。かわいた神経が冷えていく。水分で体が癒えるのは感じたが、頭痛はむしろ酷くなっていた。
「今、混乱しているみたいなんです。少し考えていても、いいでしょうか」
「ええよ。ほな、なんかあったら、そこの紐引きぃ。鈴が鳴るわ。原始的やけど、風情あるやろ」
俺らは暇やから。そう言って、医師はカーテンを閉めていった。
どこからか、ドルルルル、と機関が回る音がしてくる。破裂音もする。もちろん、この建物の中ではない。だがそう遠くもない。はっきりと聞こえていた。
「騎士団や。あいつらや」
「ええ、そのようですね。エイルさんが、もうすぐ来るそうです」
「あの子に頼らなあかんのは情けないけど、しゃあないわな」
あの医師と、看護師らしき女が話している。いったい、ここはどこなのだろう?――戦場、なのだろうか。少女は身を震わせた。
少女は邪魔しないようにと息を殺していたが、それ以降、二人は喋らなかった。器具の当たる音もしない。
「すみません」
少女はカーテンを開けて言った。思った通り、前には医師と看護師がいた。
「お、平気か?」
「はい。それで……少し、教えていただきたいことがありまして」
二人は顔を見合わせた。やがて男の方が言う。「俺でええなら」
「というか、聞いていただきたい話、ですね。お忙しいところ、すいません。でももしかしたら、何かわかるんじゃないかって、思って」
少女は息を吸う。噛みしめるようにして、記憶を失くしたことを話した。馬鹿になったと思われるかもしれない、しかしそれも覚悟の上だった。少女は医師が何か言うまで、目を瞑った。
「そうか」医師は言った。
「同じようなんが、グリトニル邸ゆうとこにおるわ。……知っとる?グリトニル邸て」
「グリトニル邸?」
「ここから大して離れてへんトコにあるでかいお屋敷や。一本道やさかい、迷いはせえへんと思うで。……やけど、一人で行かせるんも心配やわ」
「さっき、銃声が聞こえましたね」
「せやろ」
医師は腕を組んだ。
「もし行くんやったら、うちのモン連れてき。カレン、行けるか?」
「わ、悪いですよ、そんなの」
カートを引いているカレンと呼ばれた女性が振り向く。さっきの看護師だった。「そんなことだろうと思いました。いいですよ」
「悪いですって……お忙しいのに」
「遠慮しなくていいのよ。もうすぐ治療師さんが来るから、あとはこの人だけでもどうにかなるわ。まだ看護師はいるし。……すぐにでも行きましょうか?暗くなってはいけませんね」
「今か……やけど、無理したらあかんやろ」
「私なら、大丈夫ですよ。他にアテもありませんし」少女は立ち上がって、スカートを払った。
――たとえどこだって、これ以上、ここにお世話になるわけにはいかないわ。
「ほんまに平気?」
「先生、もし具合が悪そうなら私が背負っていきますわ。無理そうなら戻ってきますし。ボディガードもお任せくださいね」
「……頼むで、カレン」
医師は肩をすくめた。