とあるオジサン
私は休日に一人で、形成外科…つまりそういう傷を診てくれる橘医院にやってきていた。もう治療の必要はなかったけれど、親切にしてくれる院長の百合さんが、経過観察が必要だからもうちょっとだけ来てほしいと言ってきたからだ。
不思議なことに、治療費は誰かが勝手に橘医院の口座に払い込んでくれているという。一体誰がそんなことをしてくれているのかは不明だけど、私が病院に通っていること、その怪我が両足に集中していることは、千里兄さんしか知らないはずだった。
そして治療とは関係なく、何故か勝手に私達兄妹の口座がつくられ、お金が振り込まれているのを銀行から連絡を受けたのは、一緒に暮らすことになった今年の一月の初めのこと。それから千里兄さんはいつも狐につままれたような顔でお金を引き出してくるのが、日常になった。
朝一番に行ってみると、今日は、見慣れないお客さんが来ていた。全身黒ずくめのスーツを着て、かなり背が高い。ハーフなんじゃないかってぐらいカッコいいけど、私達よりも年上のオジサンだった。…何だかヤクザっぽい感じがしたので、少々身構えてしまう。
だから、そのオジサンが友好的に話しかけてきた時にはびっくりした。
「あれ、今日は空いていると思ったんだけどな。君が百合の言っていたお嬢さんかい?チンピラを殴り続けて気が着いたら不良の頂点に立っていたって子」
「…今は、違います。れっきとした高校生です」と言いながら、人がいないのをいいことに受付窓口に顔を出していた橘院長を睨みつける。
「一体見ず知らずの人に何を教えているんですか?」
「そう構えないで、千華ちゃん。この人はね、貴方達兄妹の後見人なのよ」
「え…?」
一体どういうことだろう、と考えて、やっと思いいたった。いくら今年から、生活保護とか兄さんのアルバイトとかでお金を得ているとはいえ、考えてみればそれだけで生活が成り立つはずはない。勝手に作られて勝手に振り込まれていたお金も、何故か自動的に払い込まれていた治療費も、説明がつく。
「ごめんね。本当はもっと早く来たかったんだけどね、オジサン仕事の関係でずっと海外にいたんだ。やっと戻ってこられたんだよ~」
ホームレスのオジサンみたいな無精ひげを撫でながら苦笑するオッサン。
「貴方が…?」
「そ。俺が後見人」
…全体的に信用ならないイメージだな。
「俺いろいろと記憶無かったんだけどね、君の父さんに頼まれて後見人になったんだ。幸い、金なら有り余るほどあるからさ」
「父さんを知ってるんですか!?」
「まぁ…いろいろとな」と、彼は言葉を濁して苦笑した。
でもまあ、橘院長がそう言うんだし、嘘はついてないんだろうけど…
「まあ、後でいろいろと話そうや。今は診察があるんだろ?」
「そうそう!それを忘れるところだったわ。すっかりスタッフを待たせちゃってるわね」
…ってか、本当に誰なんだこの男…
「あの、あの人は一体誰なんですか?」
「あぁ…彼は、潜入捜査官を退職して、日本に戻ってきた人よ。名前は浦野・シートン・泰造。名前と外見からもう分かったと思うけど、彼はアメリカ人とのハーフなんだって」
「え…父さん、まさか外国で…?」
「そうらしいわねえ…アメリカに渡っていたらしいわ。私も初耳なんだけど。空手家で、特技を生かして犯人を追いかけまわしていたんだって」
「なんでその同僚が…後見人なんかやってるんですか?何の関係もなさそうですけど」
「貴方のお父さんは、彼の部下で、でも親友だったらしいのよ。彼も日本生まれだから、いつか日本で暮らしたかったって。自分の捜査のミスで、貴方達のことを託されていて、お父さんを殉職させてしまったって…彼はずっと悔やんでいたの。長期休暇をもらって、この町で暮らすそうよ」
小学4年の時、私を施設に置いて行った後、勝手に蒸発しやがった男。遺体とかは見なかった。ただ、死んだと告げられただけだった。
やっぱりね…奇跡はそう簡単には起きない。
「彼は引っ越してきたばかりだし、貴方達の後見人なんだから、いちいちケンカ売ったりしないように。分かった?」
「…うーん…はあい…」
これが、私達沢原兄妹と、浦野・シートン・泰造さんとの出会いだった。
「…なんてことがあったんだよ」と、私は夕食を囲むアリスと千里兄さんに話して聞かせた。
「近くに住んでるんだって。…っていうか…うちらの父さん、警察官だった、らしい、よ…」
千里兄さんの顔が次第に暗くなっていくのを見て、私の言葉は段々尻すぼみになっていった。次の瞬間、兄さんはキッと私を睨みつけて言った。
「よくあんな奴を父さんって呼べるね」
「何だよ、あんな奴って」
「あいつは千華を施設に押し込んで捨てたんだよ?妹の親権はあいつが持っていたのに」
「仕方ないでしょ、父さんは父さんなんだ」
「あんなの、父さんなんて呼ばなくていい。あいつは勝手に死んだんだ。警察官だったってことすら、今まで知らなかったし、そんなこと母さんから何も聞いていなかった。顔も覚えていないし…」
「兄さん!いくらなんでも…」
「兄妹げんかはいけませんヨ」
アリスの温厚な声が割って入り、私達はアラステア・エルシュタインの存在を思い出した。
「ご…ごめん、アリス…」
「ごめんなさい…」
「ボクは何も聞いてませんヨ?」口調はあくまで優しかった。ほんと、温厚だよなあ…
「でも、後見人…ですか?その人がいるなら、良かったじゃないですカ。もしかしたら、父親代わりをやってくれますヨ」
微妙に日本語が間違っている気がするけど、アリスはケンカを目の前でされて決して愉快じゃなかったはずだ。…兄さんには、できるだけ父さんの話はしない方がいい…。
「でもシートンさんって、潜入捜査官を引退したって言っていたんだ…ケンカとか強いのかな」
夜の世界を抜けだしてからは、もうケンカの技術は忘れていくのみだと思っていた。
でも…あの夜の街で琴峰心に関する手掛かりを探していた日。チンピラ達にいろいろ聞いていたから、自分の困った「方向音痴」については問題なかったけど、…誰かの事情に首を突っ込もうとする段階で、…誰かと全力バトルを繰り広げることは避けられないことがわかった。
しかもあの学長。あのスーツ男達。不良相手の型の定まらない無茶苦茶なやり合いとは違い、的確に急所を突かれた。学長に背負い投げされたあの時ほど、悔しかったことはない。あれはやり合う展開じゃなかったとはいえー…どうせなら学長の首に回し蹴りを入れたかった。
浦野・シートン・泰造。…絶対何かの格闘技術を心得ているはずだ。
「習いたいなあ~…」
結局私は、拳でもっと強くなりたいという願いを捨てられなかった。
小学生の時に、顔も思い出せない父親から格闘技術を教えてもらったけれど、それが中途半端にしか活かされなかったせいかもしれない。




