知ってゆこう
そう。顔も覚えていない。けど、いろいろな体術を叩きこまれたのは覚えている。それから、小学校の途中で、顔も覚えていない父さんは私を児童養護施設に置き去りにした。
***
「確かに…父とは顔を合わせる機会がなかった…いつも会議や建築の設計のチェックばかりで、誰かと電話して。母も、段々私に対して冷たくなっていって。義父さんと再婚する前は、優しかったのに」
「それは夫が仕事ばかりに熱中して、妻の方を見てくれないとお母さんが感じていたから。怒りは常に弱い方に向けられる。心ちゃんはその分八つ当たりされたんだ。可哀そうに、きっとお母さん。心ちゃんがいなくなって半狂乱になってるよ」
嘘だ、と疑わしげに、涙で目をうるませて私を見てくる心ちゃん。可愛いね。でもそれを言うとKYもいいところなので言わない。
「全国のお父さんお母さんがなかなか気付かないことなんだけどね。例えば琴峰一家を例にとる。琴峰のお母さんにとっては、あんたがいてくれればそれでいいはずなんだ。高望みして、変に厳しくなったから、根本的なところを心ちゃんのお母さんは忘れているんだと思う」
「……」
「もっと、話せ」私はそう言った。
「私は、あんたよりもずっと貧乏で余裕のない家庭だけど。兄さんとたくさん話した。兄さんを勝手に警戒して、近づかないようにするよりずっと楽だった。そしたら、兄さん泣いちゃったんだ。泣くのは、時にいいこともある」
“お前ばかりに辛い思いをさせた。兄ちゃんは何も知らなかった、本当にすまない…”
「私が昔のまま不貞腐れていたら、今頃私は清羅学園にいないけどね」
涙が私を楽にした。
そう。兄の涙で、家族の涙で。
私は、昼の世界に戻らなくちゃいけないと思ったんだ。
「あの頃に戻りたい…っ私…沢原さんはそういうけど…でも、義父さんにはやっぱり…」
怖がっている。
この子は、得体のしれない父親ととってきた距離を縮めるのを怖がってる。
どうやって話したものかな、と考えていた時だった。
「心!!」
必死な女性の叫び声が聴こえてくる。
「心…いるの!?」
「母様…」
涙を流しながら、唖然としたような琴峰さん。え?今かあさまって言った?…金持ちだな~
私は大声で言った。
「琴峰心は、ここでーす!」
「ちょっと!!」
琴峰さんが掴みかかってくるけど、全然私の敵じゃないもんね!力よっわー。
そうこうしているうちにドアがガチャリと開いて、一人の女性が入ってきた。
スーツでびっちり決めた、まるで社長秘書みたいな人。髪も単純に後にまとめ、化粧も決まっている。ただし。両目が睡眠不足みたいに充血し、目じりに無理やりこすったような後があって腫れあがっているのを、化粧で隠し切れていなかった。おそらくやつれたに違いない。
「心っ!!」
つかつかと歩み寄ってきて、心ちゃんのお母さんと思しき人は思いっきり娘にビンタを見舞った。
「ごめん…なさい…」
「貴方と言う子は!!勝手に家出して…人様に迷惑をかけて!!怪我をしたのだって自業自得です、なんて勝手な子なの!事件のすぐ後で家に帰らなくなって、お友達に迷惑をかけて…
…親を、心配させてっ…」
お母さんの怒れる両目から。不意に我慢しきれなくなったように、大粒の涙がこぼれた。
私はふと気がついた。開かれた扉の向こうをじっと見つめる。
やっぱり、あいつしかいないよね。
「ちょっとごめん!私、あの人を捕まえてくる!」
私は布団から床へダイブし、スリッパもつっかけずに走りだす。若者の足で、廊下をうなだれたように歩く中年男性を捕まえるのは簡単だった。
「ちょっと!」
「!な、何だね君は」
「今すぐ娘さんのところに行ってください」
「何だあつかましい!人の家庭のことに…」
「はい。厚かましいのは知ってます。後図々しいですよ」
「私は娘に用は「じゃあなんで部屋の前まで来ていたんですか?」…」
「娘が生きているのか心配だったから、部屋の前まで来ていたんじゃないですか?」
びくり、と男性の肩が強張ったように見えた。
「私にとって、あの子は…」
馬鹿ばっか。
「関係ないとか言ったら遠慮なくその間抜け面を殴ってやる。いいか?」
どいつもこいつも、バカばっかだ。
親に愛してもらえない子は自分を愛せなくなる。そうして勝手に堕ちていく。どうして皆はそれがわからないんだろう。
「そんなことをすればどうなるか…「そして娘さんを無視し続けたらどうなるかー」」
私はとぼけたように男性の言葉を遮った。
「母親だけじゃダメなんだ」
頼む。わかってくれ。
「両方揃ってこそなんだよ!言ってやれよ、無事でよかったとか、もう無茶はするなとか、男らしくかっこよく!」
父さんがいなくなったことの、寂しさを。