其の伍「蝕」
「遅かったな、何やってたんだ?」
戻ってきた僕の顔を見るなり、そいつは言った。
赤黒く濡れた手をだらりと下げた、黒い革ジャン姿の男。その足元に広がるのは、湯気を立てる真っ赤な血だまり。
そこに何が起こったのかなんて、わざわざ考えてみるまでもない。
「なっ……なんて、こと、を……」
少し離れたところに、傷だらけで倒れている、羅水さんと綾女さんの姿を見つけて、ふ不謹慎だとは思ったけど、やっぱり少し安心した。
「そうだな……人質、ってやつ? お前が戻ってくるのが遅くて退屈だったもんで、里の人間一匹ずつ潰してみたんだけどさ、案外つまらなかったわ。所詮残りカスか」
ははは、とそいつは笑った。
何て奴。人の命をなんとも思ってない。
「――ああ、そうそう。お前の封印はどこにいるんだ? そいつら見る限り今なら幼いだろうし、喰うのに苦労はしねえだろ? それとも、もう喰った後か?」
吐き気がした。こいつが何を言ってるのか、判らない。いや、解りたくもない。
「……封印って何だ……誰、なんだ……! 僕を知ってて、こんなひどいことをする、君は……!!」
「へっ……?」
僕の反応に、そいつはきょとんと僕を見返し、やがて合点がいったのか、かぶりを振った。
「ったく、つれねえ奴だよ、お前は。俺を振ったかと思えば、今度は理由そのものを忘れちまったっていうのかよ?」
「振ったって……ちょっと待った、まさか僕は、君みたいな奴と付き合ってたって言うのか? よりによって男同士で?」
「おいおい……さっさと目を覚ませよ、ハティ。男なのは器だけだろ」
また、その名で僕を呼ぶ。聞いたとたん、どくん、と心臓が跳ね上がった。
ハティ。覚えのある名。でもそれ、は、当然の・・・こ、と。そ、れ――ガ、私ノ名ナノダカラ。
「う、ああ……ぁ……ッ!」
頭に再び激痛が走る。まともに立っていられない。今にも割れそうな頭を抱えて、膝を折る。
記憶が、戻ロウト、して、イル。
早く、取リ、戻さ、ナクテ、は。
あいつは/あれハ
僕と/私ト
違う/同ジ
――僕と――私ガ――混濁すル――
僕は――私デ。
私ハ――僕だ。
いや――違う。ソレハ、違う。僕と私ハ別の存在ダ。ただ、ずっと昔から一緒で、離レラレナイダケ。だから、思ったんじゃないか――
「うわああああああああ――ッ!!」
ふいに激痛から解放され、四つん這いになって荒い呼吸を繰り返す。
そう……だから「僕」は思ったんだ――『離れられないのなら、歩み寄るしかない』って。
「落ち着いたらしいな。気分はどうだ?」
「……はぁ……ふ、う……。すこぶるいい|よ、ラア」
「……ラア、か」
立ち上がる僕に、がっくりと肩を落として見せる。
「はあ。やっぱり主人格はお前か、スマ」
「何度も失望させて悪いね。また振ったことになるわけだ」
羅水さんと綾女さんをかっさらい、大きく跳躍して間合いを取りなおす。
今までの、記憶がないことからくる漠然とした不安が、嘘のように消えうせ、頭の中はすっきりしている。全くもってすがすがしい気分だ。
「かなめ……どの」
「綾女さん、しゃべらないで。命に別状はないようだけど、無理をしちゃダメだ」
綾女さんと、気を失ったままの羅水さんを降ろす。
「ハティ、と、きこえたが……どういう、ことじゃ? その名は、桂木の、真なる仇敵……!?」
「……聞こえてましたか。お察しのとおりです。綾女さんたち桂木一族の敵は――僕の中にいます」
「な……どう、いう……!」
「……なんだ?」
と、ラアが面白そうに口をはさんでくる。
「隠れ里なんかに長い間引っ込んでて伝承が欠けちまってるのか、お前ら? 盛り上がらねえから教えてやれよ、スマ。俺らの因縁を。そんくらい待ってやる」
「相変わらずいい性格してるな君らは」
「へっへェ」
笑いながら、彼は手近な石に腰を下ろした。本当に待つつもりらしい。
「……どうします、綾女さん? 決して面白い話じゃないんで、僕としてはあんまり話したくないんですけど……」
「すまんが、教えてくれんか」
「わかりました。仕方ありませんね」
しぶしぶ、僕は話を始めた。
太古の昔、人と邪神の戦いがあった。
邪神の姿は番の狼。それぞれが闇をもたらす二柱の名は、日蝕を司る雄『スケル』、月蝕を司る雌『ハティ』。
後に『真神』『大神』『熊野』『桂木』と名乗ることになる二人の戦士と二人の巫女によって、邪神は長き戦いの末、神格と生命とを別々に分かたれ、封印された。
二人の巫女が引き受けた『生命』封印は、その子孫たる熊野・桂木両家の当主の体そのものを触媒としており、その血を受け継ぐ直系の子さえ生まれれば、誕生と共に継承・維持されてゆくことになった。
しかし『神格』の封印は二つの問題をはらんでいた。
第一に、二人の戦士、ラアとスマは自らの魂を触媒として『神格』を引き受けたために、以後彼らは、自らの血を受け継ぐ真神・大神両家の子孫たちの体を乗っ取る形で、何度となく転生を続けることとなったのである。
この選択ゆえに、戦士たちは、本来なら最も深い絆で結ばれるべき自らの子孫に『始祖憑き』という現象として忌み嫌われることとなる。
そして、第二に。永い時の中を意識と記憶を維持したまま転生を続けることとなった二人の戦士は、次第に人の容を持つ邪神そのものへと変質を始めていったのだ。
「始祖であり、封印そのものでもある僕らは、邪神が解放されないよう、人目を避けながら天寿を全うすることを繰り返してきました。ですが、この何百年の間に、ラアはスケルに呑まれ、同化してしまいました。それが、今そこで座っている男です」
「っつーことだ。わかったかババァ」
「余計な茶々入れるんじゃない、ラア」
ひとまず言い終えたら、ため息が出た。まあ、当たり前と言えば当たり前。
本当は記憶なんて取り戻さない方が良かったんだ。何千年も「自分」をやってると、はっきり言って疲れる。何度死んだって、気が付けば生まれて、生きているんだから。
でも、まあ……記憶喪失のままだったら、それはそれで、自分が何者だか解らずがけっぷちにいたんだろうけど。
「乗っ取られるってのは気に食わねえ言い草だが、間違っちゃいないな。それが今のこの俺、真神スケル晶ってわけだ。で、そいつが、大神ハティ玲。俺が散々完全体にしてやろうとしても振り向きゃしねえつれねえオンナだよ」
「僕らは、君らとはまた別の形で同化してるんだよ。一方的な見方はやめてくれるかな」
「けっ」
「そう……か、かな――いや、玲殿が、結界さえ、無視して……里に現れた、のは。桂木の血に……引かれたの、じゃな?」
「はい。桂木に受け継がれる『生命』は、元々が僕……と言うかハティの――」
分けるな、とばかりに、心臓が大きく脈打った。
はいはい、解ってるよ、ハティ。便宜上言っただけだ。僕らはもう、一人なんだったね。
もう一人の自分の抗議に苦笑しつつ、言葉を続ける。
「で、邪神が封印から解放され、完全な復活を遂げるためには『生命』の封印を宿す巫女一族の当主を食べるなり何なりして直接取り込む必要があるわけです。でも、僕は水緒ちゃんをを食べたくはない――さて」
改めてラア、いや真神に向き直る。
にやりと笑って立ち上がり、真上に掲げられた手から、ずるずると音を立てて漆黒のダイヤモンドを先に抱く、巨大な金色の杖が生えてきた。
応じて僕も、それより小ぶりの、同様に漆黒のダイヤモンドを抱く、細い銀色の杖を手から生やし、握る。
それぞれ、有機的な形を持ちつつ、金属の質感を持っている。
どちらも人の体には収まりきらないような大きさだけど、別に驚くほどのことじゃない。眷族同様、たった今生み出しただけなんだから。
それらは名を『破壊の杖』という。光を喰らい呑み干す邪狼神の、武器であり、また一部でもあるもの。
「綾女さん、羅水さんを連れて早く逃げてください」
真神から目を離さず、後ろの綾女さんに声をかける。
「わしは怪我人じゃぞ?年寄り遣いの荒い……」
「分かってください。彼はさっきみたいな怪物を無制限に生み出せます。僕も同じことができますけど、今の僕は支配力が弱いんで、百パーセントあなた方の味方をさせられる自信がない」
「わ、解った!」
声からしてあわてて、綾女さんは立ち去っていった。羅水さんともども遠ざかっていく気配に、僕もほっと一息つく。
これで、気にかける必要があるのは自分のことだけ。僕は銀の杖を剣と変え、正眼に構えた。
「さーて、始めるか」
「……いやだって言ってもその気だろ?」
「違えねえ」
笑みを含んで楽しげに揺れる声。それが、ゴングのようなものだった。
振り下ろされた金の杖の一撃によって起こる激震に波打つ地表が、無数の槍と化し、僕に襲いかかる。
広がった革ジャンの内側から飛び出す闇色の獣の群れが牙を剥く。
対抗してこちらは銀の杖に光をまとわせ、振り抜く。
烈光が、軌道上にあるもの全てを跡形もなく消し飛ばして走り抜ける。光が去った後には何も残らない。
今までの僕――要は『光の剣』と呼んだけど、本来の名は『火法』という。最初の僕がハティに対抗するため編み出した、神すら傷つける光の神剣。
攻撃の第一波は完全に沈黙させたけど、第二波がすかさず続く。土の剣山が大地から、眷属が真神自身の体から、無尽蔵に生み出される。
物量に抗しきれず弾き飛ばされる僕を、黒い烈光が襲った。
古の戦士ラアが編み出した光の神剣『威確』。今はスケルの力の影響で色が変わり、元々僕以上だった戦闘能力にスケルの力が上乗せされていて、もはやその威力は凶悪としか言いようがないものになっている。
とっさに『火法』で迎撃してどうにか威力を削ったものの、反動で受け身をとれないまま地面に叩きつけられる。
「う……っく……」
息が苦しい。どうやら、何箇所か肋骨が折れてしまってるらしく、満足に呼吸ができない。
下手に動けば、肺に骨を刺して自分の血で溺れかねない。これはしゃれにならない。かなり……まずい状況だ。
両腕を――体を広げる。服越しに黒い色彩が広がり、そこから波紋を残し、びゅる、びゅるっ、と黒い獣たちが飛び出して、真神に牙を剥く。
「おい、本気を出せよスマ。何ちまちまやってる?」
生み出した月蝕の眷族を薙ぎ倒しながら、訝しげに訊く真神。
「全力を出した俺たちは時間や空間だって歪めたはずだろ? 現に今、こうして過去に跳ばされてるわけだからな」
「そう――か。過去だったのか」
道理で、ハティとしての感覚以外でも水緒ちゃんが気になったわけだ。
僕は本来の時間軸上で、成長した彼女と実際に会っている。ただ単にそれを覚えていただけだったんだ。
ああ、よかった。僕はロリコンではなく、ノーマルだったらしい。
「――あ、今のお前は本気出したくても出せないか」
僕の安堵をよそに、合点がいったように手をぽんと打ち合わせる真神。
「そういやお前の体は人間のままだったっけ。神の力を振るうと体が耐え切れねえな。七名とか言ったか、あの特製の眷属を俺との間に産んだのもそれを補うためなんだよな」
「それだけじゃ……ないんだけどね」
あの子は、僕と同じ時間を持ってるんだ。僕はずっと独りでいられるほど強くない――だから。
「細かい事情なんざこの際どうでもいいだろ。……そいつは今、時間の向こうだ。これじゃ手も足も出まい?」
「お構いなく。そろそろ呼ぼうと思ってたとこだから」
「あー言ってろ言ってろ。――来世こそちゃんと完全体にしてやるからな。愛してるぜハティ」
呆れ顔から一転、真神は真顔で金の杖を振るった。
猛烈な勢いで迫ってくる、漆黒の奔流。本来の五百パーセントくらいはあるんじゃないかってくらいの強烈な『威確』。本気で今の代の僕を殺すつもりらしい。
今の僕には太刀打ちできない、圧倒的な力が迫ってくる中、僕は空を仰いだ。
別に観念したわけじゃない。ただ単に、そうすれば声がより届きやすいような気がしただけのこと。
「おいで、七名」
呼んだ直後、轟音と共に僕の視界は黒く塗りつぶされた――。