其の肆「秘」
ずん、ずん、ずん……。里を揺るがす鳴動はやまない。ひとしきり揺れが続いた後、それは起こった。
ぎしっ。鳴動の後の、微かな異音。空に亀裂が走り、わずかな間を置いて、砕け散った。
破片は空中に解け消え、砕け散った後にも、空は全く変わらないまま存在していたけど、それが、結界が砕け散ったことを意味しているのだということは直感的に解る。
「結界を……力ずくで破りおった。何者じゃ?」
僕の直感を裏付ける綾女さんの視線は、里の四方を囲む山から一斉になだれ込んでくる、おびただしい数の真っ黒な獣の群れに向けられていた。
それになら倣って僕もそれを見たとたん、ずきり、と頭の片隅が痛んだ。
「日蝕の……眷属」
意識しないうちに、そんな言葉が口からこぼれる。まるで視覚情報をデジタルに変換したような具合だ。
アレは、危ない。まっとうな生き物ですらない。そして、それが認識できるということは……。
「アレは……アレを……知ってる、はずだ、僕は――くゥッ!」
おぼろげに浮かんだ記憶を手繰り寄せようとしたとたん、さらに頭痛が走った。まるでねじくれたワインオープナーをこめかみにねじ込まれているような、そんな激しさだ。
「う、……あ」
「要殿? 大丈夫かえ?」
「え、……ええ、なん、とか」
「日蝕だか何か知らんが、わしらに牙をむくとは、なかなかいい度胸じゃ。手伝ってくれい」
「だ……っダメだ、綾女さん。あなたじゃあいつらの相手にならない。僕があいつらを何とかしますから、綾女さんは里のみんなをすぐに避難させて下さい! 勝手なこと言ってすみません!」
返事を待たず、僕は手ごろな長さの薪を武器に選び取り、走り出していた。
多分、綾女さんもアレを斃すことはできるだろう。でも、一体を相討ちにするのが限界のはず。無傷で対抗できるのは僕だけだ。ただ厳然たる事実として、僕は僕の知らない間にそう結論づけている。
人を襲おうとしていた小さな群れを――斬る。ただの薪という粗末な武器で、五匹の急所を打ち抜く。我ながら呆れる腕だ。
「早く逃げて!」
「は、はい!」
襲われていた人が逃げるのを確認してから、改めてそいつらの方を向く。
頭の片隅ではとっくに知っていたことだけど、そいつらはそれだけじゃ死ななかった。僕が斬った場所からと融け、他の仲間と一つになり、大きな獣の形をとって僕に牙を剥き――不意に動きを止めた。虚ろな眼窩にぼうっと光る朱い光が、僕を直視する。
「……はてぃ……サマ」
「ハティ……?」
オウム返しに問い返したとたん――治まっていた頭痛がぶり返した。それも、今までの比じゃない。何かが頭の中を手当たり次第に引っ掻きながら駆けずり回っている。
「ぐッ! あ、が……はァ……ッ!」
だめ……だ……いし、きが……と・お・く――ダメだ!
急速に意識が覚醒してゆく。そうさせたのは、どこからか聞こえた、人間の断末魔の悲鳴。
目の前に、まだ巨大なかたちが佇んでいる。
「邪魔……だ」
握った薪が燐光を帯びる。こいつは滅ぼさねばならない。体に染み付いた型が、滅びを即座に体現する。
「じゃ……ま、だぁぁッ!!」
光に包まれ、記憶が一瞬空白になる。我に返ると、目の前の直線上にあったものが、残らず消し飛んでいた。
「これは……いや、やめとこう」
悩んだり考えたりするのは後だ。今は一分一秒でもあの黒い連中を殲滅しなくちゃいけない。
そして――戦いが終わる頃には、里の地形は激しく変わり、もはや人の住めるような状態ではなくなっていた。
しかしその被害の大半が、僕の取り戻した『光の剣』によるものだ。
「何て事をしてくれたんだ……!」
「里長の決定とはいえ、これ以上こんな奴を置いておくのは納得できない!」
「だから得体の知れないよそ者なんかを里に置いておくのはいやだったんだ!」
生き残った人たちの憤りが僕に突き刺さる。口に出なくとも、みんなが僕の存在を嫌っているのがはっきり判る。
――懐カシイ。コレハ、敵意ダ。古クカラ忌ミ嫌ワレル我ラニ、最モ身近ナ感情。
再び、異質な思考が僕の中に蘇った。
「おぬしら……、この青年に命を助けてもらっておいて、その言い草は何じゃ!」
「アレだってこいつが呼んだのかも知れないじゃないか!」
「違う! 兄様はそんなことをする人じゃない!」
「ご機嫌とりをしてただけだろ!」
「村にずっと居座るつもりであんなものを呼んのなら、もう少し被害の少ない方法を選ぶと思いますけれど」
綾女さんも羅水さんも、水緒ちゃんも、一生懸命僕のことをかばってくれている。でも、ダメだよ。同じ里の住人同士がこんな不吉な存在のために仲違いをする必要なんてない。
「……あの、皆さん」
思い切って、声を出す。ほんの少しの例外を除いて、鋭い視線が僕に突き刺さった。
「つまらないことで争わないでください。僕さえ出て行けば解決することなんですから。水緒ちゃん、綾女さん、羅水さん、それに里の皆さん。お世話になりました。」
頭を下げて、僕は足早に里を後にした。
「待って……ね、待って兄様! なんでいきなり――」
「来るな!」
振り返らないまま一喝。僕を呼びながら長い距離を追ってきた水緒ちゃんの、怯えて立ちすくんだ気配がする。無理もない、今まで僕は声を荒らげたことなんてなかったんだから。
「……でもっ!」
「元々僕は里にいるはずのない人間だったんだから。そんなに気にしちゃダメだよ。同じ里の住人同士、仲良くしなきゃ」
それに、ヘマトフィリアにカニバリズム、下手をすればペドフィリア、と僕の発露しかねないアブナい性癖フルコースは、水緒ちゃんの精神衛生にもよろしくない。僕は傍にいない方がいいんだ。
「やだ……」
「え?」
「やだ! 絶対イヤ! みおは兄様とずっと一緒にいるの!」
振り返ると、水緒ちゃんが、大粒の涙をぼろぼろこぼして泣いていた。
――この子が感情をあらわにするのを見たのは、初めてだ。
「……え?」
水緒ちゃんに別の面影が重なって見え、同時に頭がちくんと痛んだ。また、失われた記憶が身じろぎを始めたらしい。
「兄様……大丈夫?」
「うん、大丈――!」
涙目でなお僕を案じてくれる水緒ちゃんを安心させようと言いかけたとたん、また背筋を悪寒が走った。
日蝕の眷属が襲ってきた時よりひどい。具体的に表現するなら、脊髄に氷の針を差し込まれ、かき回されるような気分。
「兄、様……何、これ……怖い……!」
「え?」
気が付くと、水緒ちゃんまでそれに反応し、震えていた。
ああ、なるほどな、と納得する自分が、頭の片隅にいる。でも、まだ「要」である僕にはその理由が解らない。
解るのは、悪寒の元凶が里に近付いているということだけ。
「水緒ちゃん、危ないからここにいるんだ。来ちゃいけない」
「兄様っ――」
不安げな声を無視して、背を向けた。できればその不安を拭ってあげたいけど、ダメだ。今の僕は不安定過ぎる。
後ろ髪を引かれるような気を振り払い、里に走る――。