其の弐「祥」
「要兄様」
「うん?」
日当たりのいい縁側でぼーっとしていたところに、もうすっかり耳になじんだ声がかけられた。
見ると、着物姿の小さな女の子が、そばに立っている。
「あ、水緒ちゃん」
「おばあ様が、呼んでるよ」
「そうかい、ありがとう」
立ち上がって歩き出した僕を追いながら、
「えと……その……、ついてって、いい?」
おずおずと訊く。初対面のときから態度は変わってないけど、僕の呼び方からも判るように、これでも懐いてくれている。感情表現が元々苦手なだけらしい。
「いいよ」
「うん……!」
嬉しそうに、水緒ちゃんは目を細め、立ち上がった僕の脇を歩き始めた。
僕がこの『桂木の里』の外れに位置する山の中で目覚めて、もう一週間になる。
魔物を討つ者の隠れ里だとのことで、ここは『結界』と呼ばれる目に見えない壁によって、外界と隔絶されている。そのせいなのか、ここの生活様式は一昔前の農村そのまま。僕の認識とは数十年ほどかけ離れている。
どうやってこんな所に来たのか、僕自身には覚えがない。目覚める以前の記憶が抜け落ちていたからだ。だから「要」という名前も、仮のものでしかなかったりする。
この里を出られるのは、魔物を討つ者『戦巫女』だけ。それになる資格を持ち、そのための修行を積んでいる最中なのが、今僕の脇を歩いている幼い女の子、水緒ちゃん。僕に「要」の名をくれた人物でもある。
里を自力で出られない僕は、彼女について里を出るため、その成長を気長に見守っている。
もっとも、別に焦って記憶を取り戻す必要は感じないので、のんびりしたご隠居生活を楽しんでもいる。
「おお、来たか要殿」
里の中でも一際大きな家で、しわしわのおばあちゃんが僕を出迎えてくれた。
先代の「戦巫女」にして現在の里長、そんでもって水緒ちゃんのおばあちゃん、綾女さんだ。
「水緒。おぬしは先に修行場に行っておれ。わしは要殿と話すことがあるでな」
「は、はい・・・」
声に「しぶしぶ」と「恐る恐る」を複雑に混ぜて返事をすると、水緒ちゃんは足早に立ち去った。
先代として師を務める綾女さんは、水緒ちゃんをかなり厳しく鍛えているらしく、水緒ちゃんはなかなか綾女さんに逆らえない。
「えーと、話って、なんです?」
「何、大した実のある話でもない。単なる礼じゃ」
「礼」
「うむ。水緒は元々随分な臆病でな。少しでも厳しくすると、すぐ修行から逃げ出しおった。じゃが、最近になってアレの姿勢が積極的に変わりおったのじゃ」
「それがなんで僕にお礼を言うことになるんですか?」
「心の支えさえあれば、どんな臆病者も、どんなことでも頑張れる。魔を祓う大義など、あの年頃には解るまいて。そんなものを心の支えにしろ、というのが土台無理な話。おぬしはそれになってくれておるのじゃ。感謝しとるぞ」
「はあ……」
彼女の家に居候してるついでに、よく修行や色々な話を聞いてたけど、そんなことでも心の支えになるものらしい。
「まあ……これからも頑張ります」
「うむ。頼むぞ、要殿」
上機嫌で、綾女さんは修行場に足を向けた。
「……あ、綾女さん」
「む?」
「お手柔らかに。綾女さんは僕なんかよりもずっとよく解ってるかも知れないけど、あの子結構辛さを見せずに、結局無理しそうな気がするんで」
「全くじゃ。心遣い痛みい入るわい」
表情を緩め、綾女さんは去っていった。
それから数週間が過ぎた、ある日のこと。
「兄様、要兄様ったら」
「……う、ん?」
控えめに体を揺すられて、目が覚める。僕を起こしたのは、やっぱり水緒ちゃん。
いつものように暇をみつけて縁側でひなたぼっこをしていたら、いつの間にか寝付いてしまってたらしい。
「えーと……どうしたの?」
「剣のお稽古の、相手になってほしいの」
「え? それなら、綾女さんに言えば……」
「だめなの」
そう、水緒ちゃんは僕の言葉をさえぎった。
「お婆様は、今日はもう、お稽古をつけてくれないから。体を休めなさい、って」
「あ、なるほど」
修行で体力を削った後はしっかり休ませるというわけだ。考えてみれば当然な話。水緒ちゃんを鍛えるという目的があるんだから、彼女の体力が無駄に消耗されることは綾女さんも望んでいないんだろう。
「……でも、なんで?」
水緒ちゃんは今までにない真剣な目をしている。
「おばあ様に聞いたの。桂木の一族が戦わなきゃいけない、本当の相手のこと。……負けたくないの。絶対。兄様を、護りたいの」
何を聞いたのかは解らない。けど、とても小さな女の子のものとは思えない決意が、はっきりと水緒ちゃんの中に根づいているのが感じられた。
それをはねのける理由なんて、僕にはない。
「……いいよ。僕でよければね」
渡された木刀の感触を、手にしっかりとなじませる。
「……僕の方はいいけど、稽古の相手って、どうすればいいのかな?」
「みおと戦ってくれればいいの。……いくよ」
言葉少なに応えた水緒ちゃんが、体相応のサイズの木刀を構える。
とたん、冷たく冴えた気が水緒ちゃんから伝わってきた。殺気……というものなのかも知れない。
「え……?」
こんなものを感じ取れるのか、僕?
戸惑い、我に返ったときには、水緒ちゃんの木刀がすぐ鼻先に迫っていた。
まるでスイッチを切り替えたように、頭の中が急速に熱を失ってゆく。
斬撃に応じ、こちらも木刀を持ち上げる。刀身と刀身の触れ合った刹那、螺旋を描いて相手の木刀をからめとり、弾き飛ばす。相手に反応する暇を与える前に、仕留め――
仕留める!? 何をしようとしてるんだ、僕はっ!
本当に殺しかねない勢いで水緒ちゃんの小さな肩口にめり込みかけた木刀を、何とか止める。
「だ……大丈夫、水緒ちゃん?」
体の動きの流れに急に逆らったせいで、一気に疲れた。肩で息をしながら、訊く。
「う、うん……」
ほとんど上の空で、水緒ちゃんが応える。
「兄様、強かったんだ」
「そう……だね」
おぼろげながらも剣術の型らしいものが頭の中に蘇ってきていた。でも、記憶らしいものがせっかく戻ってきたのに、そのせいで前よりも余計解らなくなってしまった。
僕は……何者だったんだろう?