其の壱「要」
初めに感じたのは痛みだった。
その次に感じたのは、虫の音と、土の匂い。目を開いてみると、一面の緑。そのもっと上は、橙色。
どうやら、夕方の森の中らしい。
なんとなく、地面がゆらゆら揺れているような気がするのは……思い過ごしかな?
背に当たっている硬い感触を振り返ってみると大きな石だった。石碑……いや、環状列石。
日時計に見えなくもないけど、僕のもたれていた石柱を中心に円形に敷き詰められた石の棒の数は、時間を示すには多すぎる。
「何で……こんな所に」
呟いてみたところで、思わず口をぽかんと開けたまま立ち尽くしてしまった。
ない。なんにもないのだ。思い浮かぶものが。
「記憶、喪失……ってやつかぁ……」
反則だよ。普通、こういう時って、自分の名前だけは覚えてるはずじゃないか。なのに、思い出せないばかりか、何も持ってないなんて。
とりあえず今判ることといったら、僕が背中までの長い黒髪で結構引き締まった体をして、それなりに背も高いナイスガイだってことくらいか。近くに鏡も水面もないから、顔は解らないけど。
「……ん?」
かさかさという葉擦れの音に振り向いてみると、そこには着物姿の小さな女の子が、僕を見て立ちすくんでいた。
ITが革命でどうこうってご時世に、こんな小さな子どもが着物?
女の子はこっちを見たまま何も言わない。
ひょっとして僕、怯えさせちゃってる? まずいなぁ、何か言うべきかな?
「えーと……こんにちは」
「こっ……こ……こんにち、は……」
おっかなびっくりの返事が返ってきた。うん、最初はこんなもんだろう。
「僕は……うーん……。こんな所にいるあたりでもう怪しいけど、そんなに悪い人じゃあないかも知れない……と思うかも知れないと思う」
不思議そうに女の子が首をかしげる。
そりゃそうだよ。言ってる当の僕自身も、何を言ってるんだかよく解ってないんだから。
「えーと……」
向こうは随分おとなしい子らしく、自分からは何も言ってくれない。こっちだって、話題になりそうなものは何も思い出せないもんだから、間が持たないよ……。
気まずい沈黙がしばらく続いたかと思うと、別の葉擦れの音が近づいてきた。
茂みをかき分けて顔を出したのは、やっぱり着物姿の女の人。多分女の子のお母さんなんだろう、どことなく顔立ちが似てる。
「水緒。また稽古を抜け出してこんな所に」
そう言って、女の人は女の子を捕まえようとした。けど、それを嫌がって、女の子が僕の後ろにさっと隠れる。
「え、ちょっと」
当然、女の人の注意はズボンの裾をつかまれて困る僕に向いた。
「あなたは……どなた?」
「あ、僕ですか? 僕は……誰かです」
「……は?」
「いや、その、記憶が、ぐれて家出しちゃってるみたいで。自分の名前も判らないんです」
「……ぷっ」
なぜか、女の人が噴き出した。僕、何か変なこと言ったっけ?
「楽しい方ですね」
「はあ……」
「ここは『桂木の里』といいます。山奥の隠れ里ですわ」
「うーん……」
やっぱり、知っているわけじゃないのかな。その名前を聞いて引っかかるものはない。
「そんなところに何でまた僕は」
「さあ?」
「ま、訊いても仕方ないですね。ここから一番近い町はどの方向にありますか?」
「解りませんわ」
「え」
「この里の者の大半は里の外に出たことがありませんから、外に出る道筋も知りません。記憶の区切りがつくまでこの里で暮らされては? 水緒もなついているようですし」
女の人に言われ、女の子……水緒ちゃんが赤くなった。
まあ確かに、わざわざ苦労して山を越えて人里に戻ったところで、記憶が戻る保証もないわけだし。
断る理由もなく、僕は頷いた。
「ところで、あなたのことは何とお呼びすれば? わたくしは羅水と申しますが」
森――正確には山だったらしいけど――を降りて、里に向かう途中の山道で、女の人はそう訊いてくれた。
「うーん」
「……要」
僕が考える前に、そんな単語がぽっと飛び出した。
「へ?」
「さっき、地震があったの……。会った時に、それが止まったから……」
振り返った僕に、ズボンの裾をつかんで離さない水緒ちゃんはうつむきがちにそう答えた。
「地震……要……?」
問い返した僕の頭の中に、
『地震の元凶たるナマズを押さえつけるための巨石を「要石」と呼ぶ』
そんな知識が、辞書でも開いたようにぱっと浮かんだ。
「なるほど……」
でも、そんなことが解ったって意味がない。記憶喪失というのはもどかしいな。
「よし、それで行こう」
悩んだって仕方がない。名前が決まったのを素直に喜ぼう。
そこはかなりの年季を感じさせる小さな集落だった。「隠れ里」というのもあながち間違いじゃないらしい。
住人全員の普段着が着物らしく、シャツにジーンズというラフな格好の僕はかなり目立っていた。そこらじゅうから視線が集中して、結構疲れる。
「こちらですわ、要さん」
羅水さんが手招きする行く手には、集落で最も大きな家がある。
「え?」
「申し遅れましたが、わたくしはこの里の長の娘なのです」
「は、はあ……」
返事に困って僕があいまいな返事をしたときだった。
「水緒!」
目の前の家から、一人のおばあちゃんが、しおれた外見からは想像もつかない猛烈な速さと迫力で走ってきた。
「……っ!」
まともに怯えて、水緒ちゃんが僕の後ろに隠れる。
「ん? 誰じゃ、おぬし」
息も切らさず止まり、おばあちゃんがしげしげと僕の顔を眺めながら訊く。
「僕は、要……ってことになってます。一応」
「一応とな」
「母様、この方は森の中で記憶を失って倒れていらしたのですわ」
そう、羅水さんが補足してくれる。
「ほう……珍しいこともあるものじゃ。こんなへんぴなところに迷い人かえ」
そう言って、おばあちゃんは僕の眼をのぞき込んだ。
「……嘘偽りのある眼ではないのう。よかろう。わしは綾女、この里の長じゃ。歓迎するぞ、客人。我が家でゆるりと過ごすがよい」
「ありがとうございます」
「さて、と」
問題は片付いた、と綾女さんが水緒ちゃんに視線を戻す。
「!」
びくっ、と僕のズボンを引く力がさらに強くなった。よっぽど怖いらしい。
「稽古を嫌がるのは勝手じゃが、逃げるでないわ」
「ご、ごめんなさい……」
「さあ、続きを始めるぞ。来い」
ずるずるずる、と、水緒ちゃんは綾女さんに引きずられ、行ってしまった。
「……羅水さん、さっきも言ってたけど、稽古って何ですか?」
助けを求める水緒ちゃんの眼に、後ろ髪を引かれる思いはしたけど、とりあえず羅水さんに訊いてみる。
「桂木の一族は、代々魔を祓う戦巫女の家系なのです。わたくしにはわずかな間しか宿りませんでしたが……母様や水緒には、そうした特別な力があるのです」
「で、それを磨くのが稽古、と」
「はい。修行を終え一人前になった暁には、この里を出、戦いに身を投じることになります。母様もそうしてきたそうですわ」
「よく解らないけど、大変そ……え!?」
「何か?」
「今……なんて言いました?」
「あ……そうですね。水緒が一人前になれば、要さんも一緒に里を出て行くことができるかもしれませんわね」
「……僕も、何か手伝おうかな」
もちろん、里を出たからって記憶が戻るとは限らない。けど、やっぱり一つ所にとどまっているよりは可能性は高くなるはず。
僕は水緒ちゃんの稽古を手伝ってあげることにした。