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第三章 動き始めた乙女の夏



                              《天堂陸》





 胸の中の紫苑の存在が信じられなかった。

 まるで真夏の大気が生み出した陽炎のように存在は鮮明なのに、掴むことのできない不確かさ……そんな感覚を目の前の少女に感じていた。

 実を言うと紫苑に会って、喜びよりも戸惑いの方を多く覚えていた。

 普通は喜ぶだろう。なにせ幼馴染みがアメリカから帰国したのだ。

 それも自分を――俺を覚えていてくれた。

 そのことに対する嬉しさ。それは空港で紫苑を見た瞬間感じた胸一杯に広がる歓喜。

 それが裏付けている。

 けど、歓喜が過ぎた後に来たのは戸惑いだ。

 戸惑いを覚えた理由は紫苑の《今》にある。

 朝見たCMが頭を掠める。

 そう――紫苑の祖父。

 つまり祖父の綾崎秀士は世界的に有名な巨大複合企業経営者の社長だ。色々な事業に幅広く手をつけている相当な資産家――――いやそんな一資産家という小さい枠に彼をくくることはできない。

 綾崎財閥の総帥である綾崎秀士。紫苑はその孫娘だ。

 俺と紫苑は今こんなのにも近いのに、突如見えない巨大な壁が立ちはだかった気がした。



『見上げるような世界』



 確かに昔の紫苑の家は俺の家に比べてかなり大きな家だった。俺の家の数倍は軽くあったと思う。屋敷というような豪邸に公園かと見紛うばかりの広い庭があった。

 けど、昔はそんなことはどうでもいいことだった。

 富豪と庶民の世界の違いなんて全く気にならなかった。



『今、目の前にある巨大な現実』



 けれど、今はもう理解してしまった。

 事業拡大のせいで生じたアメリカへの引越し。それによる紫苑との別れ。流れていく五年という年月。

 紫苑と離れていた五年間の歳月が俺に理解させてしまっていた。

 その歳月は分別のない少年を、世の中のことを諦念混じりの理解ができるような青年へと変えていた。

 社会に生きていく上で縛られる『常識』と言う名の鎖。年を重ねるにつれて、隠す事を余儀なくされる感情。廃れていく情熱に、蓄積していく虚無。



『知らなかったことを気が付くのは、必ずしも良いと言えない事実』



 そして、紫苑と自分との違い。

 それはテレビのCMや新聞などで、克明に慈悲なく圧倒的な脱力感を持って俺に伝えてくる。



(『住む世界が違うんじゃないか?』)



 叶わぬ夢ほど嫌なものはない。

 憧れるだけ憧れ続け、届かず、掴めない夢。求めて膨らんだこの憧憬は一体どうすればいいんだ?

 目の前にいる少女は、本当はこんなところにいるはずのない存在だ。

 非日常の顕在。それが戸惑いの理由だった。

 そんな事を考えながら、俺は五年振りに会う幼馴染みを見上げる。

 長い髪は活動的な印象のショートカットになっていた。

(髪、切ったんだな……)

 その一言を胸の中で飲み込む。

 そんなことはCMを見ていればわかっていたことだ。

 紫苑がその長い髪を切った時期だって本当は覚えている。

 でも俺はこの時、何を言えばいいかわからなかった。

 胸が高鳴る。感動に震えに震えるのは身体なのか心なのかわからない。

 この切ないような苦しいような、それでいて暖かいこの気持ちは――――


「陸、これは肯定の合図と受け取ってよいのか? つまり寝室のハート型の枕でイエスの選択ということだな? ふっ、そうと決まればムラムラがもう我慢できんでござる。ほらあそこのトイレでいい。行くぞ! さぁ行くぞすぐ行くぞ今行くぞ! 色々な意味でイクぞ!」


――――あ、絶望ですね。(乾いた笑み)

 五年振りに再会した幼馴染みは、いい感じに振り切れていた。もう常識とかそういうゲージが。

 たぶん存在しないんじゃないかな、そういう単語が。

 乙女として守らなければいけない絶対境界線の遥か向こうで魔王笑いしていた。

 勘弁してくれよ、もう!

「い、一体何をする気なんだよ!」

「何って、それは陸、ナニに決まっているだろう?」

 声を荒らげる俺に、にやりと笑う様は下手に容貌が可憐な分、その威力が凄まじい。

(親父ネタかよ!?)

 戦慄する。マジで戦慄する。

 その可憐な容貌で、その返しはして欲しくなかった! 思春期の少年の憧憬がハイエナに骨まで貪られていくかのようだ! 痛い、痛いよ! 数瞬前までのときめきを俺に返してくれッッ!

 紫苑、お前がいましたことは、国民的アイドルの主要メンバーが鼻くそをほじったに等しい行為だとわかっているのか!?

 というか紫苑のとんでもな問いかけでようやく自分達がどういう体勢にあったか、嫌なくらい気がつかされる!

 白昼堂々空港の床の上に仰向けで、紫苑に押し倒されている。

 慌てて視線を走らせて見ると、通行人の多くがこちらに好奇の視線を投げかけている。

「うわっ!? ちょ、ちょっと! 取りあえず立とう! 離してくれ!」

 紫苑を離し、急いで起き上がろうと……

「否ッ! 断じて否ッッ!」

「!?」

 手品でも見せられた気がした。

 起き上がろうと身じろいだ瞬間、足を絡みつけられ、柔道の寝技に近い状態に持ち込まれ、まるで動きが――――馬鹿な、動けない!?

「このままの姿勢の方が、私は超都合がよいぞ? 両手の親指を思わずビシリだ」

「お、俺が都合よくないッ!」

 乱暴にならないように、俺は紫苑を体の上からどかせようと必死の抵抗をする。

 するんだけど男と違って華奢なその身体を、柔らかい感触を強く振り払うことができない。

「むふ~~ぅ、その表情……そそるッ!」

 あぁ、これが悪役に囚われたヒロインの気分なんだな。やべぇ、俺、大ピンチじゃないか!

 アニメやマンガと違って、ヒーローはいないし、男を助けてくれるヒーローなど絶対的に存在しない。つまり産まれて男という存在は誰からも救われない悲しい生物なのだ。

「や、やめろ? な? やめようよ、ここはまずいよ? な、嘘ですよね? 嘘って言ってよ」




「マジだッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」



「何それ!? 『嘘だッ!』の逆バージョン!? 新しい、新しいけど、今はその新しさは欲しくない! というかお前ほんとに帰国子女か!?」

 思わぬ返しにたじろぎつつも、突っ込みで応戦する俺だったが、

「気にするな。そんなことよりも……ふふふ、嫌よ嫌よも好きのうちでござる」

「一言で切って捨てられた上に、どこの悪代官だよ!?」

 ハマりすぎる紫苑の口調と表情に思わず突っ込む。

「だが、まぁ安心しろ、陸」

 すると紫苑は慈母のような優しい微笑を見せる。そんな顔で笑えばメディアが清純派美少女という単語を使うのも納得できるから――――怖い。

「優しくするから大丈夫だ、フククックックッ、フヒヒッグフフフフフフフ!」

「ごめん、最後の笑い声で台無しだから! 黒い本音だだ漏れですから!」

「ぬっ」

 慌てて口元を隠す紫苑。けど遅いから。致命的に遅いから。人身事故起こした後に無免許だったというくらいに致命的ですから。

「まぁ、流石に冗談だ」

「あ、ああ。そうだよな……」

 あっさり紫苑は俺を拘束から解き放ち、その態度に勝手だと自覚しているんだけど……失望を覚えてしまう。

(何を自惚れているんだ、俺は? さっきの紫苑の言葉は冗談に決まってるじゃないか……)

 知らずうちに紫苑の存在に浮かれていた俺は内心で恥じる。

(俺ってやつは……つくづく単純なんだな)

「私もこんな人の多いところでラヴに持ち込む気は毛頭ない。露出狂ではないからな」

だが、紫苑の発した次の言葉で俺は硬直する。

「ええッ!?」

 驚愕の呻きを上げ、落としていた視線を紫苑に戻す。

「じゃ、じゃあ……人気のないところだったら……どうするんだ?」

 恐る恐る探るような目つきで尋ねる俺に、紫苑は惹きこまれるような凄絶な艶笑を浮かべた。

「無論、知れたこと」

 それはさながら契約を交わした人間の魂を手にした悪魔の如く。

 麻雀で言うならロンを宣言する寸前の人間の超ドヤ顔に近いかもしれない?

 清純な顔つきがどう転べば、このような恐ろしい笑みになるんだろうか!?

 美女と野獣の題名が違うとこの瞬間わかった。

 美女と野獣じゃないんだ。何で気がつかなかったんだ、俺は!



(美女は野獣だッ!)



 知りたくなかった真理を悟ってしまい、哲学的電流に身を震わせる。

 だが、俺の震えなど紫苑は待ってはくれない。

 形のいい唇が、毒電波を高速シャウトする。

「18禁の激甘ラヴ★ピーチ萌え的美少女ゲームのようなラヴに持ち込むに決まっておろうが! 

わかりやすく言えば、少年誌ではできないが、青年誌では容赦無用にできることだ!」

「か、勘弁してくれ!? 最近のトレンディはR15ですよ!? って言うか……冗談……だよな? だよね?」

 すがるように俺は紫苑へと問いかける。

 頼むよ。結構ギリギリなんですよ。これ少年誌ならトゥ●ブルの如く色々見せすぎて少年誌追放デビューですよ!?

 そんな俺に紫苑はきりりとした視線を向けて言い放った。それはもう容赦無用に。

「武士に二言はない! で、ござる」

 その真剣の如く切れ味に満ちた鋭い視線! マジだ! 彼女は本気と書いてマジだ!

 どこぞの魔球を投げる寸前のピッチャーのようにドス桃色の炎が双眸に燃えているよ。

(このままだと俺は恋の三振打者だ。球場ではブーイング、控えでベンチを温め続け、契約打ち切られる寸前の公園的サラリーマンじゃないか! とにかく話題を変えないと!)

 本能がよこした明確な危険信号。

 背筋を絶叫上げて駈け抜けた悪寒に一もなく二もなく飛びついた。

「そうだ! 紫苑お腹減ってないか!? ほら飛行機に何時間も乗ってたんだろ? お腹減ってるんじゃないか?」

 目を覆いたくなるような不自然な話題のふりかたに引き攣った笑顔を出してしまう。

 もうちょっと、まともなことは言えないんだろうか、俺は?

 もう相手の術中にハマって、何を切るかわからずに出してしまった牌が、


「そうだな。腹が減ってはラヴができぬ、と言うしな。ここはたらふく食って力を蓄えるか」


 紫苑の上がり牌という……レートが巨額なら「ロンロンロンロォォォォォン!」と脳内分泌が大量に流れるが如くだ。いや、これハネ満跳んで四倍満で役満? 裏ドラ乗っちゃってます?

 お金払えないので採血ですか?

(ぼ、墓穴!?)

 それは精神的なものだったけど、まるで身体中がバネのようにたわみねじ曲がって、深い奈落に落ちて行ったような気がした。

 まさに自分で掘った落とし穴に落ちた気分だ。切ないも度を超すと、その……犯罪ですよ?

 曲がり角の自動販売機でジュースを買って飲んで、戻ったら原付に駐禁で罰金とか、それ酷いよ! 惨いよ! 切ないよッ!

 この時代、世紀末救世主を望んでいるよ!

 誰か取り締まってください。この世の中の切なさを。罰金は仕方ないですけど、せめて良い行いをしたならポイント還元してくれよ!

 七十歳から年金支給の引き上げとか……それマジ犯罪ですよ?

 なんてどうでもいいことを考えてしまうくらいに、要は混乱していたわけで……俺、どうなるんだろう?

 取りあえず……周囲の目が……もう本当に痛いんで……お願い助けてください。






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