第三十四章 ハリウッド
《天堂陸》
空港のロビーへと走り込んだ俺は狂おしい目で紫苑を探す。
(いない! くそっ当然か! もう飛行機の中なのか!?)
電光掲示板のアメリカ行きの便を見る。どの飛行機に乗っているかわからない。
いや、そもそも民間の飛行機に乗って帰るのか?
アレックス君は海ではクルーザー、陸では高級外車、先ほどはヘリまで調達するような資産家なんだ。
なら専用のジェット機を持っているんじゃないか?
そんな情報は掲示板を見上げてもどこにも表示されていない。されるわけがない。
(なら直接、滑走路に出るしかない!)
今更だがパスポートを持っていないことに気がつく。もちろんお金もない。
こんな状態で飛行機には乗れるわけがない。そんな当たり前の出来事ですら失念している。
それくらい俺は焦っている!
「くそ!」
ロビーの外、闇に浮かぶ飛行機。
その視界の端に普通の飛行機とは違う影が見えた。
(あれだ!)
確信などない。
ただ直感的に“あれ”だと思った。
よくも調べてないし、この距離だ。間違えている可能性は当然高い。
すぐに走り出す。目的地は滑走路! そしてそこに至る道だ!
悩む時間はない。許されてすらいない。
今まで紫苑のことを悩んで悩んで、それで良い結果は出たのか?
用意も準備も万端に揃えて、ことを成せればどんなにいいだろうか。
だけど人生においてそんな都合のいい展開はありえない。
いつだって唐突に。突然、準備をする間もなく人生は展開と選択を人に突きつけてくる。
そのとき今ある手持ちの材料でどれだけやりくりして成し得たか……どんな状態だろうと行動できたか。成功と失敗はそこだと学んだ。
深い喪失と最後の望みさえも断たれようとした今、ようやく気がつけたんだ!
もう迷うくらいなら、俺は走る!
間違いだと気がついてすぐ行動するなら、これより遅いことなんかない。
引き摺られて想いを燻って、後悔をする生き方はもう嫌なんだ!
俺の心を今ほど本気に連れ去ったあの子を――――紫苑を追うんだ!
温かい笑顔を、愛しい感情を手放したくない!
好きということを諦めたくない。
だから神様、もしいるなら僅かな奇跡を俺にくれ!
迷いはない。
アメリカでもどこまでも追って行く覚悟だった。
だけどこうして逃げ去る前に追いついけるなら、飛び立たせるものかと凶暴に思った。
鳥の羽根を引き裂くほどに獰猛に思う。あれを飛び立たせたくない、あの機械の鳥を!
(逃がさない!)
性格が変わったと思うくらい、自己中心的で向こう見ずな考えが頭に浮かぶ。
作業員専用、関係者以外立ち入り禁止の扉を開ける。
そこに躊躇などない。後がどうなるかとか、常識や道徳などの単語が虚しく頭の中で消え去る。しちゃいけないことを行ったことで頭の中は沸騰しそうだ。
だけどそれすらも強い興奮と想いに掻き消されていく。
通路を走り、案内掲示板に従い、貨物倉庫へと辿り着く。
夜なお動く貨物倉庫。
機械の音に混じって、人の声が聞こえた。
空港の荷物を運び入れる大型のウォークリフト。
これだ、と。
見た瞬間、天啓のように思った。
それを操る係委員へと駆け寄る。
「すいません!」
「えっ?」
驚いて声のある方向――――俺を見る男の職員。三十代半ばくらいだろうか。驚きに目を見開いて困惑を表している。
そりゃそうだ。
従業員でもない俺がいきなりこんなところにいるのだから。
「おい君、ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ! 一体どこから入ったんだ?」
「大変なんです!」
ありきたりな注意をする職員に叫び返す。
「え、どうしたんだ?」
困惑は変わらず、むしろ強くなって聞き返す職員になお続ける。
「降りてください! 向こうで大変なんです!」
「え! ちょ、ちょっと待ってろ」
俺の様子からただ事ではないと悟ったのか、無防備に背中を見せてフォークリフトから降りようとする職員。
瞬時に野生の獣さながらの俊敏さで飛びかかる。
職員の首根っこを掴んで床へと引きずり倒す。
「うわっ!? な、何を!」
立ち上がろうとした所を、即行で鳩尾、胸へと当身をくらわす。呻いて体勢を崩した職員の襟首と右袖を掴んで、腰を跳ね上げるように職員を背負い、地面へと叩きつける。
「がはっ!?」
背中から硬い床に強かに叩きつけられ、職員が激しく咳き込む。
畳ならともかく、この硬い床に受身も取れずに叩きつけられたらそれも当然で、これで痺れにも似た痛みで暫くは立ち上がれないだろう。
素早くウォークリフトへと駆け上がる。
ちなみに俺は原付の免許すら持っていない。
だけどアクセルを踏めば進むだろうし、ブレーキを踏めば止まるだろう?
というか止まる気なんかさらさらないから、アクセルだけで充分だ。
ハンドル横にあるレバーでアームの上下を動かすのを確認。ならこれが方向指示のレバーで、椅子の左横にあるレバーがギア?
Pがパーキングだろう。止まるんだよな?
じゃDがなんだ。D1? Rてのは……わからない。とりあえずDに合わせて――
「わっ!?」
止まっていたウォークリフトが動き出す。
ブレーキがどれかわからず近くのペダルを慌てて踏むとエンジンが吼えて急加速、目の前の壁にぶつかり車体が揺れる。
ハンドルを思いっきり左に回す。
車体の右側面を壁に擦りつけるように無茶な前進の後、壁から外れつっんのめるように左へと旋回。
慌てて今度は右にハンドルを切る。
今度は左後ろの辺りを壁にぶつけ、体勢を取り戻そうとまた左。
まるで打ち出されたパチンコの玉のように、あちらこちらに勢いよくぶつけながらもウォークリフトは倉庫から外の滑走路を目指して前進。
「くそ!」
予想以上に運転が難しい。
思ったように動いてくれない。俺は産まれて初めて車を運転できる人を尊敬した。
右に左にハンドルを切る、アクセルらしきペダルを踏む。
壁にぶつかり、扉にぶつかりながらも滑走路へととうとう躍り出る。
なら後は加速するだけだ。
アクセルを強く踏み込む。
障害物がなくなり、広々とした滑走路の上は、みるみるウォークリフトの速度を上昇させてくれた。
吹き晒しの車体は風の勢いと唸り声を直接身体に叩きつけてくる。
見通しの悪い暗い滑走路を猛スピードで走る。
奇妙な浮遊感と不安がない混ぜになった恐れにも似た心を掻き消すようにアクセルをなお強く踏む。
やがて、一台の小型ジェット機が見えた。
ジェット機は滑走路から今、離陸せんとばかりに目の前を横切ろうとしていた。
止める手段は一つだけしかない。
奥歯を噛み締める。ハンドルを強く握り締めた。
(このままぶつける!)
加速するために動き出しつつあったジェット機が、横合いから突っ込んできた俺のウォークリフトを見て、直線の軌道を右へと避けるように変わる。
ジェット機が放つ圧倒的な光の渦へと突っ込む。
「うおおおおおおぉぉぉぉ――――!」
雄叫びを上げて、その長い胴体へぶち当てる――――
「――――おおおおおおおおおぉぉぉ! 止ォまれええぇぇぇぇッ!」
――――より早く、軌道を変えたジェット機の左翼が右方向から迫ってきた。
「~~ッッ!?」
こちらの体当たりがジェット機の長い胴体に当たるより早く、右方向へと進行方向を変えたジェット機。その左翼がまるで薙ぎ払いの一撃のように俺の乗るウォークリフトを襲う。
本能的な予感。
(ヤバい!)
咄嗟に身を屈める。
瞬間、バキャとかいう恐怖音。
破壊音と共に頭上の天井とそれを支えていた四本の支柱がまとめて――――根こそぎ吹き飛ばされる。
まるで断頭台から落ちてくるギロチンに似て、上部を切り取られたウォークリフト。
挙句、その勢いで弾き飛ばされた車体が時計回りに猛烈にスピンしながら弾き飛ばされていく。
「うわぁあああああああああ!?」
この体験をなんて表現すればいいのか。
遊園地の遊具である暴走するコーヒーカップ? シートベルトをしていないことに弾き飛ばされそうになって気がついた。遅すぎる!
前方にスピンする車体から半ば振り落とされそうになる。必死で運転席から落ちそうになるのをハンドルを握り締めて耐える。
ハンドルはとても忠実で、右に全開に切られたことで狂ったような特攻をジェット機にかまそうと、戻ってきたブーメランのような軌道を描き、真正面からジェット機の鼻面へと激突。
「うあああああああああああああああああ!?」
甘かった。
俺は馬鹿でした。
考えて見ればすぐにわかる話だ。
たとえば幼い子供が大人に向かって頭から突撃して行ったらどうなるだろうか。
当然――体重と体格差に軽々と跳ね飛ばされる。
弾き飛ばされ、尻を強かに打ち、泣きを見ることになるだろう。
その規模を変えて、試したのが俺だ。
「―――――――――――――――――――――――!!!!!」
声なき絶叫を上げる。流した涙が叩きつけられる風圧で、瞬時に後ろへと流れていく。
泣く暇すら与えられず、ふざけるほどの無重力と浮遊感。
ウォークリフトは空中に弾き飛ばされていた。
夜空が、灰色の雲が、瞬く星と輝く荘厳な月が見えた。
飛ばされ、上下に回転する車体。すぐ手を伸ばせば届きそうな至近距離で長い胴体が横にグォオオオオと駈け抜けて行く――――次の瞬間。
衝撃! 激震! 超衝突!
ギロチンのもう片翼。右翼がウォークリフトを直撃。
どこか形を成す重要な場所が剥ぎ取られる破砕音。
(死んだ!)
グシャグシャにした紙の中に包まれて投げ捨てられた小虫は、おそらくこんな気分を抱くんじゃないだろうか。
回転する身体。回転する思考。回転する悲鳴。
そして俺は運転席から放り捨てられた。
滑走路の横の芝生に投げ出され、縦横無尽にその上を転がり、転がされ、わけもわからずにされるがままに吹き飛ばされる。
遅れて腹に響く爆発音。
起き上がった数十メートル後方で煙を上げ、盛大に燃え上がるウォークリフト。それを他人事のように眺めて呟いた。
「え? ハリウッド?」
振り返れば遥か視界の先――――滑走路で斜めに止まったジェット機に気がつき、生きていることがわかった。