第三十一章 彼女の宣告
《天堂陸》
分厚い壁のように夏夜の大気が身体にからみつく。その中を無我夢中に走る。
獣みたいに荒い自分の息遣いとアスファルトを叩く足音が残響のように響く真夜中。
「はぁッ、はぁッ、はぁぁッ……!」
脈打つ鼓動は激しく、汗で額に貼りついた前髪がうっとおしい。
背中もジーンズも、噴き出た汗で気持ち悪い。
それでも疲労した身体に鞭打って、噴水公園に続く長い石造りの階段を二段、三段飛ばしで駆け上っていく。
いや、むしろ疲労など気にならない。
心臓を握り潰してくる焦燥感に比べれば、疲労などなんだというのだろう……ッ!
砂漠を歩く旅人がオアシスを求めるのと同じくらい強い想いで、紫苑を想う。
噛み締めた歯と歯の間から、紫苑を求める声が漏れる。
だから――――
噴水に到着した俺は切羽詰まった表情で紫苑の姿を探す。
噴水には街灯も人気もなかった。
噴水のせせらぎだけが周りの音を支配している。
「くそッ……」
不気味すぎる静寂を前に、恐怖にも似た焦燥の舌打ち。
それは迫り来る夜の暗さなのか、人気の消えた公園の様子なのか、夏の陽炎を掴むことができないように、紫苑の姿を見つけることが叶わない。
「紫苑……どこに……っ」
抑圧しきれない不安が、言葉と表情を伴って溢れ出す。
見つけられないもどかしさ。
見つけることのできない恐怖。
見つけられるのだろうかと思う不安。
「紫苑……ッ」
呼びかけは懇願を超えて、どうしようもないくらいに震えている。
本当に逢いたいと思う人に逢えないとき、人はこんなにも切なく胸が痛い。
心の悲鳴が止まらない。
(まさか――――もう……帰ってしまったのか……?)
不安の重圧に耐え切れず、聞こえない振りをしていた心の囁きが耳に木霊する。
神様にはとっくの昔に祈っていて、悪魔にだって交わしてはいけない契約でも結んでもかまわないくらい自暴自棄が胸の裡で暴れている。
認めたくない事実。
けれどそういう冷徹な現実こそが、認めなくてはいけないものなのだろうか……。
亡霊のような足取りで公園を歩く。
全身を包み込む絶望を辛うじて拒否するかのように……俺は頭を巡らせ――――
――――忙しく動いていた俺の首が止まる。
前を見上げる。
「紫苑……」
紫苑は、小高い丘に作られた噴水の前に静かに佇んでいた。
そこに姿が見えるのに、今にも溶けてしまいそうな希薄な存在感。
昼なら水飛沫を上げ、虹のアーチを描いたであろう噴水の水は止められていてモノを言わないオブジェと化している。
人の失せた公園は、どこか触れざる領域のよう。
切り取られた夏夜空間。
小高い噴水公園、
紫苑は静かな夜を背負い、
黒い空を見上げ、
月の淡い輝きの中、
独り佇んでいた。
悪い予感が身体を大きく震わし、戦慄が奏でる調べが幻聴のように聞こえる。
駆け寄りたくて、風が吹いて、綺麗すぎて、近寄れなくて、俺は動きを止めて、鼓動が熱く、叫びたいように、ただ見つめ続けたいように――――動けなかった。
「――紫、苑……っ」
喘ぐように。
吐き出すように、口から漏れた紫苑の名。その声のなんと小さいことか。
紫苑がゆっくり振り返る。
全ての表情を無くした紫苑は恐ろしく整った精巧な人形を思わせた。
見慣れた顔のはずなのに――――どこか遠い。
それは消え失せた感情のせいだろうか。
「紫苑ッッッ!」
それでも、まだこのときの俺は……
安堵の余り、喝采と共に彼女の名前を叫んだ。
だから――――俺はそのときの、紫苑の表情の意味を知らなかった。
「お別れだ、陸」
だから……静かに宣告された別離に、凍りついた。
物語は終盤を迎えました。
どうそ最後までお付き合い頂ければ幸いです。