第二十六章 貴公子の憂鬱と令嬢の焦燥
《アレックス バグネット》
「ふう……」
ボクは小鳥の囀りにも似たセクシーなため息を吐き出す。
そして、ゆっくりとリク・テンドウに殴られた左頬を、自分の左手でさわさわと羽毛のようなタッチで撫でてみる。
頬は……あのパーティーの夜に殴られた痛みと驚きの熱を保っているように思えた。
驚きだった。
腰を抜かさんばかりの巨大な驚愕。マジでリアルでクールにしょんべんチビるかと思ったさ。
今まで、ボクに逆らう者など皆無だった。
しいて言うならNothing.
それも当たり前。
麗しく、華麗で、優美で、コケティシュで、美しく、この世の美と権力を掌握し、財力も、知性も、品格も、全てを兼ね備えたこのボクに歯向かう者など――――いるわけがない。
いや、今は……いるわけがなかったのに、だ。
「このボクを初めて殴った存在……」
全てを兼ね備えた完璧無敵のこのアレックスを殴った男……リク・テンドウ!
取るに足らない矮小な存在だったはずなのに、今やリクはボクの網膜に、そしてハートに鮮烈に焼き付くほど、無視できない大きな存在になっている。
思えばボクはあまりにもリク・テンドウのことを知らなさ過ぎる。
ここはリクを念入りに多角的な視線で分析する必要があるだろう。
確かシオンの身辺調査したときに、リクのことも調査させたはずだ。
「エドワード……エドワードいないか!」
「はい。坊ちゃま、いかがなさいました?」
すぐにエドワードはボクの許に駆けつける。
なぜか……ボクは緊張し震えながら言葉を口に出す。
「……た、確かシオンの身辺調査をした時に……その……リクのことも調べさせたと記憶しているんだが……」
「はい。テンドウ様の調査も仰せ付かりました」
「そ、それに少し目を通したい」
「畏まりました。只今、お持ちいたします」
「あ、ああ……頼むよ」
用件を伝え終えただけなのに、なぜか緊張で喉の乾きを覚える。
忠実に、無駄のない動きでエドワードはリクの調査書を保管している部屋へと急ぐ。
エドワードが調査書を持って来たのは、時間にして僅か数分だったはずなのに、不思議と長い時間がかかったように思えてならなかった。
「お待たせいたしまして申し訳ありません、坊ちゃま」
頭を下げるエドワードに、首を横左右に振って調査書を受け取る。
「ありがとう。行っていい」
「は、失礼いたします」
慇懃に頭を下げるエドワード。
エドワードが部屋から退室したのを確認してから、ボクは調査書に視線を走らせる。
リク・テンドウ/天堂・陸。
性別・男。身長172㎝。体重60kg。血液型・O型。
備考に目を通す。
性格は穏和で実直な人柄。成績は優秀で、クラス委員を務めているらしい。
だけど――――
「これだけではな……」
ボクは情報の少なさに落胆のため息を吐く。
やはり、ここはリクにもう一度会いに行く必要があるだろう。
決意を瞳に込め、窓から見える澄んだ青空を見据えた。
《綾崎 紫苑》
焦っていた。
その焦りを少しでも紛らわせようと、空音殿からあてがわれた部屋の窓を開ける。
どうして、夕焼けと言うやつはこうも何かに急き立てられるような気分にさせるのだろう?
私は陸と私の現状に歯噛みする。
アレ公が催した夜会での踊り……あのときの私は幸福絶頂だった。
しかし、現状は最悪とまではいかないが、漠然と好まない方向に徐々に向かっていると思う。
(あそこで畳み掛けるべきだったのだ!)
ほぞを噛むが、いまさら後の祭りだ。
と、夏の終わりを感じさせる夕凪が私の頬を撫でる。
それが私の焦燥を一層かきたてた。
陸の夏休みは残り少ない。
それは即ち、私の時間が少ないということに繋がる。
「いや……」
私の居所がもう完全にお爺様にばれてしまっている。
本家から迎えがくるまで――――もう時間がないだろう。
私だって、手をこまねいて見ていたわけでない。
毎日、てやんでぃな感じで『ラヴ☆アタック』を、昼夜を問わず繰り返した。
けれど、いつも焦って陸を怖がらせてしまい、失敗してしまう。
「どうすればいいんだ……」
私にしては稀なくらい泣き言を吐いて、唇を噛みしめる。
実際にどうすればいいのか…………答えがみえない。
わからないんだ……
視線を足元の畳に向けて、私は頭を振る。
「…………」
いや――――本当はわかっている。
答えは陸の所にしかない。
そして、私の今後の答えを出すのは、陸だけだ。
陸の部屋へと行く。
陸の部屋の入り口には、真っ二つにされたドアがバリケードのように配置されている。
おそらく、私の侵入を拒むための障害なのだろう。
胸が痛かった。
寂しくて、苦しかった。
いつもの紫苑ちゃんならば、昨夜のように扉を平気で真っ二つにするくらいの行動力とラヴパワーを遺憾なく発揮して、余裕綽綽に目の前にある扉のバリケードを排除する。
でも今の私には――――
――――今の私には、目の前のバリケードが陸の明確な拒絶にしか見えない。
陸の拒絶を認識してしまうと、体の中で力が萎むのがわかる。
強い脱力感が全身を襲い、指先まで力が伝わらないような、鋭い無気力感が私を苛む。
私は拒絶されているのだろうか?
迷惑だと思われているのだろうか?
好きだとは思われていないのだろうか?
何よりも、
(私は陸に嫌われているのか…………?)
頭を横切る答えに恐怖する。
そんなことはない……はずだッ。ないに……ないに決まっている!
それなら――――それなら、なぜ?
そして、
「どうして……涙が出てくるんだ?」
何なのだ、この胸の痛みは?
どうして……この感情の波はこんなに苦しいんだ?
まるで心臓を握り締められているようだ。
呼吸困難のように息が苦しくなって、背中を壁に寄りかかる。
(苦しくて……それよりも、もっと悲しい)
そんな、軟弱極まりない感情が私を支配する。
いや、支配しかけた。
そんな時だ。
私の左肩に手が置かれたのは。
「~ッッ!?」
ポンという響きが聞こえてきそうな気軽さと優しさが同居したような接触。
でも、余裕のない私は、そんな気軽さにさえ身を竦ませて、身体を震わせた。
驚いた私が振り返った先には――――
「やあ、紫苑ちゃん」
――――海殿がいた。