第十九章 ナイトパーティー 中編 その2
《天堂 陸》
とりあえずなんとか紫苑の涎によって汚れた服を整えた俺は、パーティー会場へと案内された。
スライムに襲われる美女の気分がよくわかった気がした。
本館で催されるパーティーは、一階のホールで行われていた。
ホール全体がタキシードやイブニングドレスで着飾った人で埋まっている。
壮麗でどこか近寄りがたい光景。
「凄いな……」
ホールを見回す。
和・洋・中の様々な種類の料理がコの字型に並べられ、華美な服に身を包んだ人々が談笑している。
耳に入ってくる声は、日本語よりも外国語が多い。実際、招待客のほとんどは外国人のようだ。
メイド服のお姉さんからアルコール類を断り、オレンジジュースを貰った。
自慢じゃないが俺はアルコール類がからっきし駄目だ。
アルコール度数が低い飲み物でも顔が真っ赤になってしまう。
アルコール度数の高い酒ならば匂いだけで酔ってしまうかもしれない。
ちなみに紫苑は……ウィスキーのストレートだった。
ウィスキーのようなアルコール度数の高い飲み物にはそれなりの飲み方があるみたいで、
水割り→ロック→ストレートとあり、ストレートは水や氷で薄めることなく、そのまま飲むためアルコールを飲み慣れていない者には少し酷なのだが……
グビリと一気に紫苑は100mlくらいのウィスキーを飲み干す。
顎を逸らし、喉元がはっとするほど白い。無防備に逸らされた紫苑の胸元から慌てて視線を逸らす。
なんとなく俺も悔しくて……その……オレンジジュースを一気飲みしてみる。
「ふぅ……うまいな」
「……そうだな」
紫苑の満足そうな声に比べて、俺の声は複雑だ。
と言うのは、別にオレンジジュースが不味かったわけじゃない。
むしろオレンジジュースがこんな美味しかったのかと驚くほど味は良かった。
白状してしまえば、それは男の面子と言うか、なんと言うか……
紫苑はウィスキーのストレート。
対する俺はオレンジジュース。
性差別する気は毛頭ないが、何か逆じゃないか?
そもそもこういった上流階級のパーティーに紫苑は別段違和感なく馴染んでる。
洗練された雰囲気を纏って……。
紫苑の際立った容貌は、周りの雰囲気にゆっくりと浸透していくのではなく、取り込み圧倒する。
逸脱した他の女性には持ち得ない何かを天然に紫苑は手にしていた。
視線を走らせて見れば、男女問わず紫苑は皆の視線を集めている。
俺の元幼馴染みで、手に届かない恋慕の相手と言う欲目もあるが、それを差し引いてもこのパーティーにいる誰よりも綺麗だと断言できる自信があった。
「むう、アルコールも良いのだが、腹がペコリヌスでござるなぁ……武士は食わねど高楊枝と言うが、ペコリヌスにはやっぱり勝てないでござるな」
ただ、口を開かなかったらと言う条件付きだが……。
でも、これも紫苑の魅力のひとつなんだろう。
そして、紫苑のそういうとこが困った所でもあるけど、きっとそういう所に自分でもどうしようもなく惹かれていて、目が離せないんだろう。
たとえ紫苑と住む世界が違うとわかっていても……
自分の中で息づいている騙しきれない感情に苦い笑みをこぼす。
「陸……」
そんな俺の気配を察したのか、紫苑が俺の方を振り返る。
「!?」
思わず息を飲む。
信じられないほどの美貌が、信じられないほどの近い距離で、すぐ横に――――ある。
息遣いすら聞こえてきそうな――――魂すら奪われそうな……そんな切ない距離間。
紫苑のいつもと違う表情で、声で……いつもと違う何かが俺の平静を狂わす。
「陸もペコリヌスじゃないか?」
だけどいつも通りの紫苑のセリフに安堵のため息をもらす。
「何だよ、ペコリヌスって?」
「ふふ……よくつっこんでくれた! きっと第三者の皆さんも困り気味のところに現れた救いの問いだ!」
いつも通りの長ったらしくて意味不明の前口上を、とても長い間、聞いていなかったように思い、俺は紫苑に尋ねる。
「で、何なんだ?」
「少し腹が減っている時は『ペコリ』。かなり減っている時は『ペコリヌス』。餓死寸前の時は『ペコリヌス帝』。紫苑ちゃんワードだ!」
「俺は……」
そこで意外にも自分が空腹だったことに気が付いた。
おそらく、緊張のために今まで食欲を感じなかったんだろう。
「俺も、ペコリヌスかな……」
「おお! ペコリヌスでござるか!」
紫苑は一緒だなと、顔を綻ばせる。
「ムシャingだな、ムシャing!」
確か『ムシャing』の意味は、食いまくる……だったかな?
紫苑と一緒に中華の料理の並んでいるテーブルへ移動する。
お互いに会話を交わしながら食事をしていると、紫苑の知り合いらしき人たちがやって来て紫苑と話し始める。
知り合いらしきと思ったのは、男女問わず全員紫苑より年上の人たちが多かったからだ。
なんとなく紫苑たちから見えない障壁の存在を感じて、紫苑たちから距離を取る。
適当な飲み物を手にすると、近くの壁に寄りかかった。
紫苑たちは家の話や、彼らの中で有名な誰かの体の調子や近況など、俺のような庶民には会話に入っていけない内容だ。
さっきまでは見惚れるだけだった豪奢な周囲の空間が、今は人々の談笑の輪から外されて、疎外感が強く身体に突き刺さった。
紫苑という鎮痛剤のおかげで痛みを忘れていた疎外感という傷が俺を苦しませる。
「さっさと帰りたいな……」
パーティーの明るい談笑の空気に、呟きはかき消されてしまう。
でも、俺の心に思いのほか独白は大きく響いた。
と、ホールの明かりが消え、フッと闇が押し寄せる。
すると俺の位置からちょうど真正面にあるバルコニーに、明るいスポットライトが当てられた。
スポットライトに照らされているのは、紫苑の婚約者のアレックス君だ。
『皆さん、ようこそバグネット家のパーティーにおいで下さいました。今夜はゆっくりと楽しんでいって下さい』
マイクで拡張されたアレックス君の声がホールに響く。
『今夜はボクの婚約者であるアヤサキファミリーのレディを紹介させていただきます……シオン・アヤサキさんです!』
スポットライトが闇の中を彷徨い、やがて一人の少女を探し当てて照らされる。
薄闇から浮かび上がる紫苑は、現実味からかけ離れた幻想的な感覚を受けるほど綺麗だった。
綺麗で……決して手に入らない俺の宝物……苦い想いが突き刺さる。
手元の飲み物を一気に飲み干す。
どうもカクテルだったらしく、失敗したなと心の中で舌打ちする。
近くにあったテーブルにグラスを置くと、紫苑が周りを見回しているのに気が付く。
周りを彷徨っていた紫苑の視線が……俺を真っ直ぐ――――捉える。捉えて離さない。
(そらせない……!)
そう思った。
紫苑の真摯な眼差しは、俺を完全に拘束する。
だから、紫苑がゆっくり俺の方に近づいて来るのを見て、身動き一つできなかった。
紫苑は俺の隣へと移動する。
それと同時にスポットライトの明かりも紫苑を追いかけて移動する。
つまり、俺も紫苑と一緒にスポットライトの明かりを浴びることになる。
つい先程、アレックス君が自分の婚約者だと紫苑を紹介したのに、いくら幼馴染み――――しかも頭に元がつく――――だとは言え、今、俺と一緒にいるのは不味いのではないだろうか。
それもただ俺の隣に立つというより、その……恋人同士のように寄り添うように――――手を繋いで立っている。
『か、彼はボクの婚約者の小さい頃の幼馴染みのリク・テンドウ君です……シット(小声)』
思ったとおり、微妙に引き攣った声音でアレックス君が俺のことを紹介してくれる。
「おい、まずいんじゃないか?」
寄り添う紫苑に、添えられた手を目配せして耳打ちするが、紫苑ははっきりと俺に言った。
「あんな顔をしていた陸をほっておけるはずないだろう」
「……あ、あんな顔?」
動揺する。
一体、俺はどんな顔をしていたんだろう?
「……」
多分、いやきっと俺は情けない顔をしていたんだろう。
自覚はある。
俺は宝物をなくした子供のような顔をしていただろうから。
でもここは事を荒らげないために、紫苑の言ったことを否定するべきだったんだろう。
それはパーティーに招待された人たちの好奇心に溢れた瞳から察するに、当然の判断だった。
「…………」
だけど。
紫苑の隣にいたかった俺は、否定の言葉を紡げずにいた。
やがて、ホールに明かりが戻り、華やかな談笑が再開される。
俺たちの手は……ずっと繋がれたままだった……