第一章 穏やかな日常よ、さようなら
天堂家
《天堂陸》
「んっ……んーん………」
瞳を開けると、見慣れた自分の部屋が瞳の中へと、飛び込んでくる。
暫く呆けたように、視線の先にある部屋の白い壁を見ていた。
「ゆ、夢……か……?」
呟いて、ようやく思考が鮮明になってくる。
手に抱えていたクッションを布団に置き、ベッドから抜け出した。
俺には妙な癖がある。
それは、寝ていると無意識に近くにあるものを抱きしめてしまうというものだ。
「ん~~~………っ」
二、三度大きく伸びをすると、ついさっきまで見ていた映像を脳裏に思い浮かべようと、頭を働かせる。
大きく息を吐いた。頻繁と言うほどではないけど、数週間に二、三度くらいの頻度でよく見る夢。
詳しい内容まで覚えていないけど、懐かしい中にも衝撃的要素がかなり伴う幼い頃の記憶……。
少し気だるげに前髪をかき上げる。
「……暑いな」
時計を見る。そこに表示されてる時刻と温度を見た。
クーラーの冷気が消えた室内の温度は、28℃を表示している。窓を閉め切っていることと暑さを増してきた日差しのせいで、室内は蒸し風呂になりつつある。
窓辺に立ち寄り、勢いよくカーテンを開いて窓を開け放つ。
季節は夏。
網戸越しの外の世界は、朝からギラギラと暴力的に太陽が輝いている。
窓越しに聞こえる蝉の大合唱が、夏独特の雰囲気を運んでくる。
夏の太陽を直視してしまい、思わず目を細める。今日も暑くなりそうだ。
学校は夏休みに入り、部活もバイトもしていない俺はのんびりとした夏を過ごせそうだった。
自然と唇が笑みの形を作るのを感じる。
透き通った青い空。鮮やかな白い雲。蝉の鳴き声。唐突に初夏の涼風が駈け抜け、窓に吊るした風鈴が軽やかな音色を響かせた。
何といっても身体中に降り注ぐ、太陽の暑い日差し。
これらを素直にいいなと感じられる穏やかな日常。
それを俺は大事にしていた。
「……午後から図書館に夏休みの宿題でもやりに行くかな」
自分の部屋にある出窓の桟に腰掛けて、青空を見上げる。
夏の雰囲気を一時楽しむと、洗顔を済ませてリビングへと向う。
その途中で共通廊下の壁に掛けてある伝言板を見る。
「母さんは買い物で、海は、本屋……か」
海とは俺の双子の弟のことだ。現在同じ高校に通っている。
クラスは別だけど、隣のクラスなので体育とか一緒だし、休憩時間も一緒にいることが多い。
リビングにある壁時計は自室で見た時刻から十分ほど時を進めており、午前十時半に差し掛かっていた。
食卓に置かれていた食パンに、いちごジャムをつけて食べると、何気なしに食卓の上にあったテレビのリモコンを手に取り、テレビの電源のスイッチを押す。
アナログ放送が終わり、地デジの開始と共にブラウン管のテレビから液晶TVへと買い換えた。
分厚さがなくなり、薄型のテレビは綺麗ではあるが、なんとなく頼りない気がするのは俺だけだろうか。時代の流れと共に何もかもが変わっていく。
変な物悲しさに囚われていた俺だったが、浮かび上がった映像を見て口を止めた。
テレビにはさっき夢の中で出てきた少女――紫苑がCMに出ていた。
正確には夢の頃の小学生の外見とは違い、俺と同じく十六歳の姿でだ。
昔と違い、少しシャギーの入った大人っぽい印象のショートカットのヘアースタイル。
小さい頃よりもずっと綺麗に女性らしくなった美しい容貌は、多くの者を魅了して止まない。
だが、まあ……
『恋する女子にお勧め! 愛しきあの者の心を手にせよ! いつもおぬしの唇を私に独り占めさせてくれぬか!?』
桃色の口紅の宣伝をする紫苑の性格は、どうも昔と変わっていないみたいだ。
ところが、この紫苑の普通の女の子と違う独特の性格……つまり見た目は清純派美少女なのに、性格は竹を割ったようなさっぱりとした気質に若武者口調というアンバランスな魅力が、大衆に人気がでている。
今では綾崎紫苑と言えば、芸能人並みの知名度の高さを獲得していた。
CMに出ているわけは、紫苑の祖父――綾埼秀士氏にある。
彼は巨大複合企業経営者の社長で、様々な経営に着手している。
そのため彼の事業のイメージアップの一環として、孫娘である紫苑がCMや雑誌などに出ているという訳だ。
日本人とは違う垢ぬけたファッションセンスが女子高生に受けていて、女性用のファッション雑誌やクラスの女子の間で紫苑の名をたびたび耳にすることがあった。
少し寂しげな笑みを口の端に刻む。
昔は幼馴染みと言う関係だったけど、今は元幼馴染み。仲の良かったとは言え、おそらく小学校の幼馴染みなんて紫苑はとうの昔に忘れてしまっているだろう……。
それこそブラウン管のテレビが徐々に各家庭から消えていくように、彼女の思い出の中の俺も消えてしまっているに違いない……
事実、引っ越ししてから紫苑から手紙や電話の類いはなかった。
怒りはない。
あるのは何か胸の奥が寂しいような悲しさだ。
テレビの電源を消すと、食欲を失っているものの、食べかけの食パンをほうっておく訳にもいかないので、強引に残りの食パンを口の中に入れる。
いつもの甘さをどこかに置き忘れてしまったような……空虚な味がした。
食べ終わると、図書館に行く準備をする。
藍色のジーンズを穿くと、肩から袖の部分がミリタリーの柄がプリントされた黒のTシャツに着替える。
それから洗面所に向うと、寝癖のついた髪を水で軽く整える。当然の如く正面の鏡に映る己の顔。
父さんに似れば男らしい容姿になったのに……そう思う中性的な顔立ちをしている。
しかも、声変わりがすんでもあまり低い声にならない。
パッと見て一瞬、男か女か判断がつかないと友達は言う。
言動や服装、雰囲気からで男と判るらしいが……それはつまり、少し女の子っぽい服装をすれば、ボーイッシュな女の子と思われるということだ。
だから女々しいと言わないまでも、男らしくない自分の容姿があまり好きではない。逆に父さんのように男っぽい容姿に憧れてしまう。
ため息を一つつく。容姿のことなんて考えたって仕方がないことだ。
「行くか……」
それから勉強道具をバッグに入れて、外に出ようと玄関まで来た瞬間のことだった。
プルルルルルル……。
「あ、電話か…」
慌てて履いていた靴を脱ぐと、共通廊下に置いてある電話を取るために、来た廊下を戻る。
プルルルルルル……。
急いで電話機に向かうと、受話器をとった。
「はい、天堂ですが」
『…………』
返事をすると、相手は沈黙を保ってくる。
絶え間なく、何かのアナウンスとかが聞こえてくる。駅だろうか?
『……陸か?』
受話器から俺と同年齢くらいの少女の声が俺の名前を呼ぶ。
綺麗な声だ。けど内心の芯の強さが滲み出た凛々しい口調。
ドクッ!
(この声……!?)
心臓の鼓動が大きくはね上がるのを感じた。
電話の相手は、さっきテレビのCMで聞いた少女の声に……似ている気がした。
「…………ッッ」
にわかに信じられない現実を眼前に突きつけられ、声なく固まってしまう。
『陸じゃ……ないの、か……?』
「あ、はい、そうですが……」
不安な思いを感じさせる声に反応して、戸惑いつつも慌てて返事をする。
けど俺の戸惑いは、少女の怒声にかき消された。
『遅い、遅い、遅い、遅いぞ、陸!』
「す、すまん……?」
謎の少女の剣幕に反射的に謝罪してしまう。い、一体何なんだ?
『全く、どうしてすぐに返事してくれないんだ!? 凄く怖かったではないか! だが、まあなかなか男の色気に溢れる声音になったな陸! 私の乙女回路はピュアにドキ☆ドキと言う感じで…………?? のわああああああああああああッ!?』
少女は語気荒く続けたかと思うと、突然、鼓膜を破らんばかりの驚愕の叫びを上げた。
「ど、どうしたんだ?」
キーンという耳鳴りの音を抑えて尋ねてみる。
『いかん、テレフォンカードの度数がみるみる減ってるでござる!? うなぎ下りだ!』
「う、うなぎ??」
『と、とにかく国際空港にある噴水の側で待っているから、早く迎えに来てくれ。以上、通信終わり』
ツー、ツー、ツー……。
電話の音が、虚しく俺の鼓膜を打つ。
虚しく?
いや違う。これから何かが起きるような、そんな合図のような運命の鐘にも似た音で鼓膜を叩く。
まるで夏の夕立のような集中豪雨の如く言葉の前に、俺は一言も言い返すことができなかった。
それはあの小学生の時の、なつかしいやり取りを俺に呼び覚ました。
受話器を元に戻す。
電話をかけてきた少女の正体はだいたい見当がついている。
あの若武者口調。激しい性格。妄想癖の思考回路。意味不明のスラング。
「はは……嘘だろ……」
思わず口元を押さえる。
期待と困惑。喜びと不安。それらが嵐のように胸に去来する。
たった一つわかったことがある。
今をもって穏やかな日常が遠のくという変な確信がある……!