第1話 天鏡の章 ——光と影の分かれるところ
> はじめ、この世は均されていた。
> 彼方も此方も、等しく揺らいでいた。
> 揺らぎの中では、何も失われない。
> 何も、保たれない。
天つ神は鏡を打たせ給うた。
それは映すための道具ではなかった。
鏡が立てられた時、世界は二つに分かれた。
鏡の手前を「此岸」と呼ぶ。
鏡の向こうを「彼岸」と呼ぶ。
鏡そのものを、人は長く「間」と呼んだ。
> 光は此岸に留まる。
> 影は彼岸に流れる。
> ——しかし影のない光はなく、
> 光のない影もない。
八咫の大きさを持つその鏡は、太陽と同じだけの面をもつと伝えられる。
太陽が全てを照らすように、この鏡もまた、此岸と彼岸の双方を同時に照らす。
映すのではなく、照らす——そこに本質の差がある。
映すならば、鏡の前に「見る者」が必要だ。
しかし照らすならば、鏡はそれ自体で完結する。
見る者がいなくても、境界は在る。
境界は、世界を壊れさせないための——
> 世界が一方に傾くとき、
> 鏡は揺れる。
> 揺れた鏡は、傾きを戻す。
>
> これを、天つ神は「調律」と名付けた。
* * *
> ★ 編者注
>
> ここに記された「照らす」という動詞の用法は、通常の鏡の記述と異なる。
> 記紀における八咫の鏡の記述は多くが「映す鏡」としての役割を強調するが、
> 本文書に収録された神話群は一貫して「境界を設ける装置」としての鏡像を描く。
> 本文書は、出雲系の口伝を基盤にしていると推測される。
* * *
天つ神が鏡を置いた場所を「鏡淵」と呼ぶ、という言い伝えがあ る。
淵——それは水が深く溜まる場所であり、鏡のように底が見えない場所のことだ。
鏡と淵が同じ名で呼ばれるのは、どちらも「こちら」と「あちら」の境目だからだとされる。
此岸は、生きることの重さを持つ場所。
彼岸は、重さを持たない者が流れ込む場所。
「間」は——どちらの重さも引き受けながら、どちらにも属さない。
> 境界は、壁ではない。
> 境界は、膜である。
> 膜は呼吸する。
> 呼吸する境界が、世界を世界として保つ。




