【加筆】もう帰りません
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「こんなことも真面にできないのか」
洗ったばかりの洗濯物が、私の頭の上に投げつけられた。
頑張って洗った着物も襦袢も手ぬぐいも。何もかもが、妙と一緒に踏みつけられて草履の痕でいっぱいになって、土にまみれていく。
「すみませんすみませんすみません」
息が続く限り謝罪の声を上げる。
ここで黙り込んでしまうのは悪手だと最近ようやく分かったのだ。
父は母の忘れ形見である私に八つ当たりのように暴力を振るう割に、それを誰かに知られるのが怖いのだ。
この村一番のお金持ち。本百姓であったこの家の惣領娘であった母はとても奔放だったという。未婚の娘でありながら、ある日村へ迷い込んできたとても美しい器量をした旅人との間に、子を孕んでしまうようなことをしてしまったのだ。
婚約者であった男は大激怒。
それでも、お金持ちであったこの家の惣領娘との婚姻を拒むことは許されなかったという。
自分の子ではない胎の膨れた花嫁を、婿となった男は憎みながらも大切にした。
初めての出産を終えてすぐに自分の子を仕込むべく夜ごと身体を繋ぐ。子を産み終えるとすぐに仕込み続け、妙の弟妹は増えていくばかりだった。
子孫繁栄。家の繁栄を喜びながら、祖父と祖母は天へと召されて行ったけれど、母は子を孕む度、産む度に窶れ衰えていった。
最後の最後、8人目の弟を産んだその夜に、母は死んでしまった。
妙は、10歳になっていた。
「14までは、育ててやる。その後は、遠いところへ、嫁に出す」
そう言われた日から、妙の花嫁修業は始まった。
日が昇る前から炊事場に立ち、使用人たちに混ざってたくさんの弟妹のための朝餉を作る。
弟妹たちが食事をしている間に、脱ぎ散らかされた寝間着を集め、おねしょで濡れた夜具を干し、前日の汚れ物と一緒に纏めて洗って、こちらも干す。
濡れた敷き布団は重くて臭い。
まずはおねしょを布で吸い取り、水をたくさん含ませた布で叩いて出来る限り取っておくことが肝心だ。
天日でよく乾かしてブラシを掛けると、布で吸い取り切れなかった尿が乾燥して粉になり、風に舞って飛んでいく。
「けふんけふん。あぁ臭い」
どれだけ頑張って処置をしても、それでも幾らかは染みが残ってしまう。
どうやら夜中に替えた末の弟のオムツに隙間ができていたらしい。
尿だけでなく大きい方も布団についてしまっていて、どうしても汚れが取り切れなかったのだ。
残ってしまった便の汚れと臭いに気が付いた父が、傍に干していた他の洗濯物にも臭いが移ってしまったと怒りだした。
風の通る日だったので、臭いが籠ってもいない。移っている訳がない。
それでもそれを、妙が父に向かって主張しても無駄なのだ。
「お前がっ! お前なんぞを産んだから! あいつは逝ってしまったんだ!」
人間というものは、あまりにも矛盾した生き物だ。
父は母を憎みながらも愛していたのだと思う。
村一番のお金持ち。美しく我儘な惣領娘。
幼い頃より定められていた婚約者は、多分きっと父の憧れそのものだった。
なにより、私から父と呼ばれるのも厭で仕方がないのだろう。
それは分かる気がする。
それでも、家系図には私の名前が惣領娘として載っていたし、それは今でも変わらない。
それなのに、嫁に行くことに決まっていると告げられた意味。
「いいか。嫁入り先でこんな真似をしてみろ。俺達の、この家の恥になるんだぞ!」
そう告げながら、妙は婚約者の顔どころか名前すら、教えて貰っていなかった。
つまりは、そういうことだ。
「すみませんすみません。やり直します。本当にすみません」
足跡だらけになった汚れ物を搔き集めて抱きかかえると、顔を埋めるようにして頭を何度も下げた。
踏みにじられた際に解れた糸が、頬に当たる。
それが痛いはずもないのに滲んできた涙を、汚れモノが吸い取った。
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川辺に作られた洗い場。日の沈んだ夜の洗い場へ近付く者など普段は誰ひとりとして居はしない。
行燈の明かり一つない場所だ。雑草が生い茂り、松明を掲げられる場所もない暗がり。
月明りしかないその場所で、山のような洗濯物を背にした少女がひとり、汚れと格闘していた。
人の作り出す明かりはないが、夜目の利く妙には、それほどの苦はない。
けれど夜の川の水は冷たくて、汚れを擦る手指に沁みた。
風に乗って、夕餉の席のはしゃぐ声が微かに聴こえてくる。
「私の食べる分が、なにか残っているといいけど」
妙は、きゅるると音を立てて空腹を主張してくる腹を押さえて、ひとりごちる。
今日最後にした食事は、住み込みの人たちの分までご飯をよそった残りだ。釜の縁をこそげても残るおこげと味噌漉しに残った滓を、みそ汁を作った鍋を濯いだ水に漬けて、ふやかしたモノ。
みそ汁の具として入れた菜っ葉の繊維と、粥というには硬い米だったものが浮いている汁は冷たくて、誰より長く働いて疲れた体に沁み込んでいった。
それももう、昼前のことだ。完全に消化され、胃の中は空っぽだった。
「水で腹を膨らますよりは幾分かマシだし」
米と大豆と塩分。それが得られるだけ有難がらないといけない、らしい。
はぁ、と大きくため息をつくと、妙は辺りを見回した。
「誰も、見てないし。もう疲れちゃった。だから、いいよね」
ひとりで勝手に呟いて、うんうんと頷く。その瞳が決意に輝いた。
その姿は先ほどまでの萎れた少女とは何かが違っていた。
血の繋がらない父親から、怒りをぶつけられ耐えている時とも。
月明かりの下、立ち上がり、細い手を翳す。
ゆっくり。ゆっくりと、手を動かすと、同じように、足元の川の水が動いた。
くるくるくるくる。
水が動き出し、汚れた着物も、下履きも、手ぬぐいも、それどころか末の弟の漏らしたモノで汚れた敷き布団までも。
妙の手の動きに合わせて川の水と一緒に回り出した。
「そおれ!」
両手を振り上げ、捩じる動きをする。
すると、水浸しだった洗濯物も、空中で捩れた。
ざんざと派手な水音がして、絞られた洗濯物はすっかり半分乾いた状態になっていた。
夜の空に、まだ半がわきの洗濯物が、舞う。
「あはは。ちょっと楽しくなってきちゃった。でも夜に完全に乾いている物を持ち帰ったら、術を使った事がバレちゃうわね」
妙がこの術を使うことを、父親は嫌がった。
気味悪がったと言ってもいい。
初めて目の前で物を浮かせて遊んでいる所を見つかった時、父は妙の頬を思い切り叩いた。そうしておいて、懇々と言い聞かせた。
「俺の前では絶対に使うな。俺の前じゃなくても、使うんじゃない。いいな!」
妙はその言葉に黙って頭を下げた。そうして二度と、使わないようにしてきた。
ずっと。約束を、守ってきた。
だから、父親はもう妙がそんな事ができるということを忘れてしまっているのかもしれない。夢だと思っているのかも。
さて、これからどうしようかと悩んでいる所に、声が掛けられた。
「バレたら、拙いのかい?」
大きな手に、後ろから抱き上げられた。
すっぽりと腕の中に囲い込まれ、すぐ間近にある麗しい貌に微笑んだ。
「パパ! ひさしぶりね。私、もうすぐお嫁に行くらしいから、その前に逢えてよかったわ」
「なんだって!? 相手は誰だ」
「知らない」
フルフルと首を横に振る妙に、男は柳眉を上げた。
信じられないと驚いた顔をしていても、美形は美形なのだと妙は感心した。
「あら。前の時に伝えていなかった? 父が言っていたの、14までは育ててやるって。その後は遠いところへ嫁に出すんですって」
「そんなこと言っていたか。俺の娘の縁談を勝手に決める権利があんな奴にあるか」
「そりゃあるでしょ。私を育ててたの、父だし。パパなんて、何年振りに逢ったんだと思ってるのよ」
「ん? ついこの間、逢いに来たばっかりだろう。いや、もうすぐ14歳、になるのか、俺の妙が?」
はぁ、と妙はわざとらしいほど大きなため息をついてみせた。
「これだから妖は。時間の経過が、人とは違い過ぎるのよ」
妙は、目の前に立つ美貌の妖が初めて逢いに来た日のことを思い出していた。
『おや、我が恋人はほんの少し目を離した隙に、随分と縮んでしまったね』
『……どなたですか』
『忘れるなんて、酷いな。あれだけ情熱的に求めあった仲じゃないか』
『あー……もしかして、私の本当の父親の人でしょうか。残念でしたね。母なら去年死にましたよ』
『なんだって! ……もしかしてお前はあの時の?』
『えぇ。あなたが無責任にも未婚の母に仕込んだ子です』
『未婚? だが、しかし我が恋人は経産婦のはずでは?』
『これでも一応、最初の子だって言われて育ってきました。結婚前に他の男の子供を孕んだ母を娶ってくれた養父からも、祖父母からもそう言われてます』
『……お前、術が使えるな?』
『あなたも、使えるの?』
『あなたじゃなくて、パパと呼んでくれたら教えてやろう』
『パパも使える?』
『あっさりしてるなぁ』
『……それで? パパも使えるの?』
妙はその時、父から申し付けられた蔵の掃除でてんてこ舞いだったのだ。
会話が雑になっても仕方がないだろう。
「そうね、確かにあの時は、パパも母が死んでしまったと知ったばかりだったし、私も父から仕事を言い付けられていたから。お互いに、会話の記憶がいろいろ抜けても仕方がないわよね」
しょんぼりと肩を落とした美貌の妖の頭へ手を伸ばして撫でた。
艶やかな黒い髪だ。
黒目の大きな瞳は、よく見ると縦に割れていた。
けれどそれを、妙は怖いとは思わなかった。多分、母も怖くなかったんだろう。
怖いモノ知らずの我儘娘。母がそんな女でなかったら、妙はこの世に生を受けることはなかった。
その方が幸せだったかもしれないと思わなくもないが、今更だ。
妙はこの世に生まれ出た。
「迎えに来てくれたんでしょう?」
「あぁ。お前が人としての生を終えてから使えるようになるはずの術を使えたからには人の世界には置いてはおけない。すぐに来たつもりだったのだが。待たせてしまったようですまない」
妙という子供が産まれていることも知らなかった妖は、半妖の娘を迎え入れる準備をしてくると言って帰って行ったのだ。
まさかそのまま3年も放置されるとは思いもしなかったが、それでもその言葉があったからこそ、頑張れた。
「いいの。待たずに家出しようかと考えてたところだったけど、ちゃんと迎えに来てくれたから」
ぎゅっとしがみついた首元に、しっとりとした鱗があることを妙の手が感じ取った。
自分にはない鱗を、指先で辿る。
「私にも、鱗とかできるのかな」
「そうだな。龍になれるようになるかは、修行次第だな」
「修行! うわー、どんなことやるんだろう」
はしゃぐ我が子の姿に、男は目を細めた。
「何か、心残りはないか? 持って行きたい物などは」
「なにも。何もない……ことも、ないわ」
「あるのか」
こくんと頷いた妙は、伸ばした指先を、くいっと動かした。
半がわきだった洗濯物や布団が、夜空を舞って、まだ明かりのついている家の方角へと飛んでいく。
「たぶん、残っていた水分も飛んだから、ちゃんと乾いているでしょ」
「……あれでいいのか」
「うん。父から言われた、最後の命令だったから。父のために嫁にはいけない私の、最後の親孝行よ」
妙の嫁入り先は、うんと年上の金持ち。
老人の後妻だという噂があることを、妙は知っていた。
婿が跡を取った妙の家が、村一番のお金持ちであったのは昔になった。
惣領娘を孕ませ続け命を奪った婿に、親戚一同が頭を下げる訳がないのだ。
幼い弟妹に掛かる養育費は鰻上り。妻を亡くしたことで歯止めが掛からなくなり、使用人たちに手を出し幾人も妾とする。名主としての仕事も分かっていないようで、田畑を使わせ作らせた作物の上前は己の税金と合わせて村として国へ納める分も入っているのだということすら理解していなかった。
それだけ使い放題して、財政が破綻しない訳がない。
「大丈夫よ。私の弟妹は8人もいるんだもの」
「なるほど?」
よく分かっていない男に向かって、妙は笑顔で旅立ちを促した。
「さようなら。教えて貰った花嫁修業の方は役に立つかわからないけれど。精神修業としては良い感じに使えると思うわ」
目の前にはいない父へ、最後の言葉を告げる。
半分だけ血の繋がった弟妹の幸せを祈れるほど、妙は自分が強くないと知っていた。だから、彼らに告げる別れの言葉は無いし、彼らの幸運を祈ることもしない。
勿論、謝るつもりもない。
実母の代わりにもなれない養い子。
努力すれば認めて貰えるに違いなんていう、ほんの少しだけ心に残っていた未練も置いていく。
養父への贖罪の気持ちも、すべて。
「では、行こう」
誰も見ていない満月の夜。
龍が、娘を伴い天へと昇って行った。
それまで干ばつなど知らなかったその土地に雨が降ることは稀になった。
ただ、満月の夜にだけ、しとしとと、涙のような雨がほんのちょっぴり降るばかりだ。
2025.08.07加筆しました。