ダンジョン僧侶 ユミルの仕事
そのダンジョンが踏破されたことで、多くの冒険者は現世に帰ってくることができた。ここからは我々ダンジョン僧侶の仕事である。
「あと一つ下の階だね」
盗剣士のヤイは、完成ほやほやの支給された地図を私の杖の明かりに照らして、眉間にしわを寄せている。
「依頼者の話によれば、だが」
「でも、あの様子だと、5階層までは行っていないはずだよ。あれだけ錯乱しているとは言え、体が濡れた話が出ないのは変だ」
「そうだなぁ」
「あれ、いまいちな納得?」
ヤイは地図をしまって私を横目に見た。
「聞かせてよ。ユミルの推理をさ」
私は額の汗をグローブの小指で拭う。
「仲間を見捨てて逃げる程に追い詰められた人間が、嘘も記憶の改ざんもなく正しいことを他人に言えるか私は知らない」
「だから、5階層を越してるかもと?いや、逆だね」
「そうか?」
「その程度の冒険者が5階層を超えられると思えないよ」
ヤイはふん、と鼻を鳴らした。
「まあ同意するよ。彼らのレベルは低い。だから分不相応のところまで行けてしまって、トラブルにあったと思うよ」
ヤイは口に苦い香草を放った。これ以上の口論は面倒くさくなったのだろう。
「着いたぞ、階段だ」
私の言葉にくちくちさせながらヤイはうなずいた。
階を降りると、長い通路があり、そこを右に曲がった奥が、見捨てられた冒険者のいるらしいところだ。
「待て、光量を上げろ」
ヤイの言う通りに杖の光量を上げる。二、三歩先に行くと鞄をドカッとおろし、床に這いつくばった。それから右の壁に耳を当て、小さく指を鳴らす。おそらく罠があったのだろう。そういう動きだ。それから、ポケットの中から二番目に細い鉄の針を壁に差し込むと、一部は取り外された。
「もう少し左」
もう少し左から穴に光を差し入れる。それからは何をしていたのか分らないが、針で催なぞったりした後に、ふうと息をついた。
「お疲れ様」
「ん」
否定しているようには見えないので、作業は終わったのだろう。ヤイは鞄からペットボトルを取り出すと、一口分の水を振って私を見た。私が何も言わないと、彼は喉を鳴らして飲み、最後の一滴を、舌を出して受け止めた。
「では、行こう」
「まだ待て」
「え?」
ヤイは床の何かをはさみで切ると、そこをまたいで歩きはじめた。別のワイヤートラップが近くにあったらしい。
それから、私は光量を少しだけ下げて、私たちは右に曲がった。
依頼者は錯乱していたものの、記憶は正しかったらしい。今回の対象者らしきものが、そこにいた。
ユミルが灯した光が、奥の空間に影を落とした。
その影の中心に、セランは座っていた。
背を壁に預け、宝箱を膝の上に抱えている。いや、正確には──膝の「あたりにあった」何かから、宝箱が生えているように見えた。
彼の腰から下は、まるで木箱と肉塊が混ざり合ったように変質していた。
膝の関節も、脛も、つま先も……人間だったはずの形は失われ、古びた木板と革張りのような皮膚が交互に走っている。
宝箱の縁には、牙のような金具が生え、わずかに開いた蓋の隙間から──舌か、それとも別の何かか──赤黒い筋が、じわじわと揺れている。
だが、上半身はまだ人間だった。
痩せこけた顔、虚ろな目。
その眼差しは明らかに生きていた。かすかに潤み、こちらを見ている。
「……誰にも、渡さない」
掠れた声とともに、セランの指先が箱をなでた。その手も、爪の先がわずかに金属じみて光っていた。
「君はセランか?」
返事はない。筋が揺れるだけであった。
「何かお宝を守っているのか?どうするユミル」
「やるぞ」
ヤイは腰に刺した剣を抜く。私は祝詞を唱え始める。杖でどんと床を叩くと光量を最大まで上げる。長く伸びた強い影は、セランを覆い隠した。
セランは体をガタゴト揺らすが、半分しかミミック化してない体をうまく動かせていないようだ。
――盗剣術――
ヤイは身体を影として膨らませ、幾枝かの剣先を宝箱に突き立てた。
あの時のパーティーはどうかしていたよ。俺ら駆け出しは低階層の宝を目指してダンジョンに入った。ダンジョンは、一日の概念が曖昧になる中で、区切れる人間でなければ、すぐにやられてしまう。
「てめぇのせいで、てめぇの。クソが」
ダンジョンに奪われた、無い左腕を振って痛みを訴える。見殺しにしたんだろう、俺を。
「何飲んでんだ?」
「もう水が入ってないと思わなかった」
「あああ、うああ」
ヒーラーは落とし穴に落ちて行く。くぐもった一声の後、静まり返る。助けに行く気さえのこっていない。残された俺たち2人は走る。もう、たくさんだ。でも、帰るわけにはいかない。全てを失って、何も得ずに帰るのは、自律神経が許さない。走る。右に曲がれ。あった。
「おい!」
振り向いた顔に斧が振り下ろされた。取られてなるか。失ってなるか。すがりついた宝箱といつしか気が合って、体が半分に溶け合った。
ふと気づくと、仲間は地に倒れ、ダンジョンに奪われた。全員奪われたんだ。よかった。これでもう、誰にも奪われることはない。静けさの中で、俺は宝箱を守った。宝箱の中からは時々、若い頃の俺たちの笑い声が聞こえた。
そして、強い光――。
ダンジョン僧侶の仕事は、ダンジョンに奪われずに残った者を現世に取り戻す仕事である。
石床に置かれた手のひらは温かく、冷え切った空間に、何か柔らかい気配を伝え始める。
「……生ける者の道に帰らんとする魂よ。名を呼ばば、道は開かれん」
そう言葉を紡ぐたびに、空気がわずかに震えた。
音にならぬ音が石壁を撫で、古びた木板と化したセランの身体に染み込んでいく。ユミルが唱える祝詞は、単なる祈りではない。魂を繋ぎ止める鎖をゆるめ、現世へと編み直す古の術である。
「そなたが遺した痛みを、わたしが見届けよう。
そなたが奪われた時間を、ここに還そう」
その言葉に応えるように、セランの体がわずかに震えた。
宝箱の蓋が軋み、ミミックの歯列がかすかに揺れる。
だが、蓋の奥でぬらりと動いていた赤黒い筋は徐々に力を失い、しゅるりと箱の内へと引き込まれた。
「……戻れ」
最後の一語と共に、ユミルは額に指を当て、掌で空を撫でるような仕草をした。
すると、宝箱の縁がすっと消え、まるで夢から目覚めるかのように、セランの下半身が肉の感触を取り戻し始めた。
板張りの脚が肉に戻る。鉄のように硬化していた皮膚が、血の通う生気を帯びていく。
目元に走っていた木目のような模様が消え、潤んだ眼差しにひと雫の涙が浮かんだような気がした。そうして霧と消え去った。
彼はこれから、依頼主と不快な怒りを分かち合うことだろう。モンスターになった代償を抱いて苦しみ合うことの共有は私たちの仕事ではない。
残った宝箱を見ると、ヤイは、カバンの中から三番目に大きい針と、二番目に細い針を組み合わせて開ける。
中身は――空だった。
2人はその場を立ち去ると次の依頼をこなすため、さらに深く下って行った。