記憶の海へ
うす暗いその部屋の中には、鎖で椅子にがんじがらめに縛り付けられた子供がいる。ぐったりと力なく傾いた頭。その身体からは、ぽたぽたと血が流れ出て、床を赤黒く染めていた。
その傍らにたたずむ少女の手にはナイフが握られていて、少しふるえるようだったが、その瞳には何もなく、まるで心が凍りついているようだった。
やがてその手からナイフが落ちて、彼女は暗い足跡を残しながら、この部屋を出ていった。
僕が彼女と出会ったとき、彼女は深い憎しみや恨みを抱いているようだった。
彼女はぼろぼろの衣服をまとい、靴は履いていなかった。そして僕に手をさしだすと、ただ「水」とだけ言った。
なぜか僕は彼女のことが気になってしかたなかった。だから僕も一緒に歩き始めたんだ。
彼女と出会ってから、僕は朝を知らない。
何日歩き続けても、どれほどの距離を歩いても、彼女の周りに朝はこなかった。彼女と僕は、いつも暗い夜の道を歩き続けた。
いつだったか、
「どこへ行くの?」
僕が彼女に聞くと、彼女はただ 「海」とだけいった。
たぶん彼女は、朝陽の見える場所を探していたんだと思う。
彼女の心は、まるで壊れているようだった。 彼女はとても短気で、意味不明の奇声を発したり、突然何度も壁に頭を叩きつけたかと思えば、急に狂ったように笑ったりした。
・・・・でも、きっと彼女は天使だったんだよ。翼はなかったけど、間違いない、天使だったんだ。
僕は一度、彼女に光を見せたくて、小さなろうそくに灯をともし、彼女の目の前にそっとさしだしたことがある。
とつぜん目の前にろうそくをさしだされた彼女は、一瞬驚いたようだったけど、ろうそくが燃え尽きるまでのほんの少しの時間、歩く足をとめて、じっと小さな光を見つめていた。気のせいなのか、僕にはその瞳がやさしくみえた。
灯がきえると、彼女は不思議そうに僕を見つめて、また何もいわずに歩き始めた。
「ありがとう」
そんな言葉を彼女が言うわけもなく、僕も期待していたわけじゃない。でも、それでじゅうぶんだった。
僕もそうだった。大人になるために、夢ばかり見ていた自分を殺した。そうしないと大人になれないと思ったんだ。
何かを捨てないと何も得られない気がした。それがルールだと思っていた。
彼女は歩き続けた。
靴もなく、休むこともなく歩く彼女の足はぼろぼろで、僕の靴をかそうとしても、それを拒んだ。
やがて彼女は足を引きずり始め、最後はまるで這うようだった。僕が肩をかそうとすると、彼女は僕を突き飛ばし、一人で歩けるからといってきかなかった。
そして、彼女はついに海へとたどりついたんだ。
ようやく浜辺にたどり着いた彼女は、そこに倒れると、まるで死んだようだった。やがて海の向こうが明るくなり、太陽が空にのぼりはじめると、彼女はなんとか立ちあがり、空へ向かい手をさしのべた。
疲れはてた身体で、声にはならない叫びをあげて、何かを求めるように、空へと手をのばす彼女の姿を、僕はなんとなく感動したような気持ちで、少し離れた場所で見つめた。
やがて太陽が中天に達したころ、突然彼女はその場に倒れた。
慌てて彼女のもとに走り寄り、膝をつき彼女を腕に抱いたときには、彼女の身体は指先から砂になり、崩れはじめていた。それはまるで、恨みを抱いた天使には、太陽の光はもったいないとでもいうかのように、その身体は少しずつ崩れていった。
「しかたないよね・・・・」
もうどうでもいいんだ とでもいいたげに、彼女は笑った。それはとても儚げで、寂しそうに笑った。そして最期は「ごめんなさい ごめんなさい」といいながら消えていった。
彼女が何にあやまりたかったのか、僕にはわからない。
だけど・・・・
ねえ、神様。なぜ彼女を死なせてしまったの?
ねえ、神様。彼女が朝陽を見られたことが、せめてもの慰めだとでもいうつもりですか?
ねえ、神様。教えてください。あなたは本当に存在するのですか?
僕は薄く輝く砂を集めると、それを海へとばらまいたんだ。
頬にふれる海の雫は、なぜかとても塩辛く、降りそそぐ太陽の陽ざしは、あまりにも冷たい気がしてならなかった。
ねえ、神様。あなたは存在しなければならない。あなたの名を呼びながら死んでいった、たくさんの人たちのために。
1998
2010
2025_6_14