『脳裏』〜『落ちていく』
十一月九日『脳裏』
脳裏に焼き付いているのは強烈な打撲や罵倒の瞬間だらけで、それが一枚一枚写真となって私のアルバムになっているけれど、見返してみても噴き返すのは深い負の感情だけで、何があったかは思い出せない。
せめて、陳腐な救いの歌に出てくるような「忘れられないあなた」でもいれば、欠片を摘むことはできたのに。
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十一月十一日『飛べない翼』
学校に行くのって大変だ。電車に乗る時も降りる時も、駅員さんの手を煩わせる。エレベーターを待つのも、遅刻しないかハラハラするし、道に出ても、ずっと腕で体を動かすから筋肉痛。
学校についた後だって、移動教室の時には友達に押してもらって、申し訳ない。大好きな体育は、おままごとみたいなキャッチボールしかできない。
みんな、道を開けてくれる。中には、見下すような一瞥をくれる子もいる。私はそれに気付かぬふりをして、腕を急いで動かして、通り過ぎる。
気にしないで、私の天使ちゃん。って母さんは言う。私のかわいい子ってこと?それとも、母さんには私の背中に翼が見えるの?
だったら飛び方を教えてほしい。大空なんて飛べなくっていいから、みんなと同じように地面を駆けて、飛び跳ねられる方法を。
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十一月十二日『スリル』
よく日焼けしてて根明な上司と、二回目のツーリング。赤紫の海沿いを走って、オフシーズンの海水浴場の駐車場に向かう。彼は、よそ見をして、綺麗だと感動しながら、走っていく。僕は、ひたすら彼の背中を追いかけて、目を逸らせず、肩に力を入れていた。
駐車場に着くと、缶コーヒーを奢ってくれる。あまり好きではないが、わざわざ言い出すような関係性でもなかった。感謝の言葉を口にして、海を見る。赤く焼けて、恐ろしかった。
「綺麗だなあ。」
彼のその言葉に、僕は共感できなかった。
「この景色見るために、走ってるよな。」
彼のその言葉に、僕は共感できなかった。
「平和な毎日にちょっとしたスリルを与えてくれる、バイクってのは最高の相棒だよ。」
彼のその言葉に、「根本的に相容れない」と思った。
僕がバイクに乗っているのは、恐怖を克服する日を夢見ているからだ。死にそうになるくらいの恐怖に自分を慣れさせれば、日々生きる恐怖なんて軽くなると思ってた。
だけど、そんなことはない。むしろ、歩道を歩いているだけで、後ろから迫り来る四輪車の駆動音によって、喉がつっかえるくらい、動悸がするようになった。
僕はただ生きるだけでスリルフルだ。そんなにスリルが欲しいなら、こいつに分けてやろうか。
そう思いながら、僕は、
「そうっすね〜。」
と返答した。
帰りは真っ暗で、僕を追い越してバイクがスピードを出すから、輪郭さえあやふやになって、僕はこのまま横転して、海に投げ出されたかった。
「また来週、同じ時間な。」
上司は満足そうに言う。上司に逆らって、職場に居られなくなって自主退職して、次の仕事が見つからなくって毎日不安と恐怖を抱えながら布団を被る、そんな「スリル」は欲しくないから、
「そうっすね〜。」
と返答した。
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十一月十三日『また会いましょう』
友人とはぐれた。なんてこった。僕は登山初心者だし、友人に道案内を任せていたから、地図もない。携帯も圏外だ。おかしいな、普通に繋がるって聞いていたのに。ずいぶんと外れに来てしまったのだろうか。
道はあるけれど、看板がない。迷ったら下れという知識から、下る道を選ぶけれど、すぐにまた上ってしまう。同じところをぐるぐる回っている気さえする。
上って下って、平坦な道に差し掛かる。先を見た。
「!」
誰か、いた。動きが止まり、息も止まる。踊り損ねたような格好で、僕は静止した。目を逸らせず、じっとみた。
若い女性だ。黒髪が背中まで伸びていて、白いワンピースを着ている。山の中だというのに、ナップザックと登山靴を身につけていない。それどころか、何の荷物もなく、裸足だった。
今までは、人っ子一人いなかった。だから、突如現れたその女性が、ひどく不気味に感じた。格好といい、あまりに幽霊然とし過ぎている。
幽霊然とし過ぎているから、人間なのだろう。こんな創作じみた幽霊が本当にいるわけがない。なんだか、気分が良くなってきた。
「迷ってるんです。」
自ら話しかけた。女性は、ぼんやりと笑った。
「それなら、ここを上るといいですよ。てっぺんに辿り着けます。みんな、待っていますよ。」
女性は、白い腕を斜め上に突き出した。指差す先には、長い階段があった。こんなのあったのか。気づかなかった。
「ありがとうございます。」
礼を言って、階段の一段目に足を掛ける。二段目、三段目、再び女性の声がした。
「また会いましょう。」
声の方を振り返ったが、すでに女性の姿はなかった。てっぺんへ続く別の道もあるのかな。
見上げてみると、階段はすごく長い。でも、てっぺんに辿り着きたい。なぜか頭がふわふわして、とても幸せなんだ。階段も苦じゃない。足が羽根のようで、さっきまでの痛みが嘘のようだ。
登山禁止の期間だけど、僕たちは悪くなかったんだな。だって、てっぺんでみんな、待ってるんだろ。
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十一月十四日『秋風』
彼女は、毎年秋になるとこの別荘にやってきて、向かいのコテージの僕へ手を振ってくれる。
秋になったら僕はコテージへ来る。元々は、紅葉が素晴らしく、空気も美味いから買ったし、夏から秋にかけて滞在する場所だったのに、彼女とすれ違いになるのが嫌で、秋から冬に期間を変えたのだった。
毎日、ドキドキしながら彼女を待った。庭の木椅子に座り、唇を湿らす程度にココアを傾けて、ひたすら待った。夕方になると、冷め切ったココアを飲み干して、とぼとぼとベッドへ向かう。それをひたすら繰り返した。
今年の秋風は、やたらに寒い。心地よさはなく、喉を渇かし、肌を裂き、僕の心を冷え込ませる。
きっと冬が追い越していたのだろう。結局、僕の元に秋は訪れなかった。
彼女の別荘の玄関に、蜘蛛の巣が張ってる。枝でそれを振り払う。逞しい蜘蛛が枝に垂れ下がっている。「来年はあるか」と問うた。蜘蛛は去っていった。
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十一月十五日『子猫』
春に来た子猫はもう、砂のおトイレ覚えたよ。
お兄ちゃんはまだオムツのままなの?
「お兄ちゃんも子猫ちゃんと同じように可愛がってあげてね。」
お母さんはそう言うけれど、お兄ちゃんは可愛くない。
すぐ叩くし、すぐ蹴るし、すぐこぼすし、オムツは臭い。
子猫の段ボールに、交換こって入れてくれば良かったのに。
そう言ったらぶたれたよ。
子猫ちゃんと、お兄ちゃん。おんなじようにわたしもね、可愛がってよ、お母さん。
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十一月十六日『はなればなれ』
「またね。」
「たまには帰ってきてね〜!」
「ずっと友達だぞー!」
離れていく車のエンジン音に負けぬよう、声を張り上げた。武史は窓から顔を出して、大きく手を振っていた。僕らはさらに大きく、何キロ先からも見えるように、全身使って手を振った。車が見えなくなっても振り続けた。
武史、はなればなれになっても、ずっと親友だぞ。手紙書くからな。
手紙のやり取りは三回続いた。それからぱったり、音信不通になった。
「田舎じゃ友達が限られてるからな。向こうで自分に合う親友を見つけたんだろ。守、お前にはもっとおとなしい子が合ってるよ。」
僕を宥める父親に反発して、家を飛び出した。遮二無二走っていたら足を滑らせて田んぼへ落ちた。前髪まで泥だらけで、視界を塞がれる。
そしたら、武史の姿が見えた。泥だらけの僕を見下ろしていた。武史は寂しそうに口を開いた。
「なあ、守。俺、はなればなれになっちゃった。」
「ああ。僕ら、はなればなれだね。」
僕と同じ気持ちだったのが嬉しかった。やっぱり僕の幻覚で、すぐに消えた。
泥だらけで家に帰ると、怒られた。
『速報です。今朝未明、〇〇県の山中で、身元不明の──』
父親はテレビを消して、怒った。しばらくテレビ禁止だって。あーあ、つまんない。武史、帰ってこいよー。
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十一月十七日『冬になったら』
幸ちゃんと手を繋いで路地を縫うように歩いた。私は自然と早足になって、幸ちゃんは脚をもつれさせていて、申し訳なかった。
「雪国に行きたいな。」
幸ちゃんがぽつりと呟いた。言葉の少ない子だから、一言を大切にしたくて、理由を聞いた。
「ここはまだ冬にならんでしょ?だから、さっさと北に行って、雪に会いに行くの。」
幸ちゃんは「暑い」って、手袋を脱いだ。大きな痣のできた手首が露わになる。腕をまくろうとしていたので、止めた。
「寒けりゃあ、着てられるよ。ね、お姉さん、連れてって。あたし、お金あるよ。」
幸ちゃんは、小さな手に不釣り合いな長財布を取り出すと、お札の枚数を数え始めた。止めて、財布を預かる。
お金なら私が出す。お姉さんだから。
とびきり雪が降っているところに行こう。そうすれば、幸ちゃんは厚い服を着ていてくれるし、私たちの顔も過去も、すべて隠してもらえる。
ここが冬になる頃には、私たちの逃避行は終わる。それを信じて、改札に切符をくぐらせた。
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十一月十八日『たくさんの想い出』
あれから3ヶ月。ようやく、父の部屋に着手する気になった。父が肌身離さず持っていた鍵を使って、扉を開けると、久々に、キィという音を聞いた。
中を見た。そのまんまだ。あの頃のまま。私が夕食の呼び出しをして、父が原稿のキリが良くて、すぐに部屋から出てきた時、隙間から見えていた部屋のまんま。
初めて入った。絶対に入るなと言われてきたから。中は古い本の匂いがして、埃っぽかった。
掃除は案外簡単だった。価値のないものは置いてなかったから、私が欲しいものか、古本屋や骨董屋に売るものか、分けるだけで良かった。
だいたい片付けてから、書斎机に取り掛かった。父の背中を思い出して、気が憂うから、最後にしたのだ。原稿の束を持ち上げたら、その下に、厚い革表紙の本があった。
それは、日記だった。
取材旅行と書斎の往復ばかりで、私に全然構ってくれなかった父。母は、父のそういうお堅いところが好きだから良いって、すべてを許していた。私も、そんな母の血を引いているからか、仕事人間の父は格好良いと思っていた。黙々と机に向かうその背中が好きだった。
父とはなんの想い出もなかった。けれども、心のどこかで繋がっていたって、そう信じている。
少し、気が引けるけれど、父のことを知りたくて、日記を開いた。
なにこれ。取材旅行なんて嘘っぱちじゃない。だから、売れなかったんだよ。この薄っぺらい人間性が作品に出てるから、売れなかったんだよ。
大嫌い。
日記の中には、想い出がたくさん詰まっていた。私じゃない娘と、母じゃない妻との、想い出が。
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十一月二十日『宝物』
押入れの奥を整理するなんて、小学生の頃以来だろう。埃を吸わないよう息を止めて動かしたのは、ピンク色に金ピカが散りばめられた可愛らしい宝箱だった。
「あら、懐かしい。」
母が言った。開けると、プラスチックでできた宝石のぶら下がったネックレスや、大きな真珠もどきのブレスレットが、箱いっぱいに詰まっていた。
あの子と身につけて遊んだっけ。どれが似合うかなってお互いの選んで、鏡の前でポーズをとって、お姫様ごっこをしたな。
思い出しながら、『捨てる』袋に仕分けをした。
「捨てちゃうのね。まあ、今の貴方にとってはガラクタかしら。」
母が言った。概ね合っているけれど、少し違う。
今の貴方にとっては、じゃない。昔の私にとっても、これはガラクタだった。
あの子が笑ってくれるから、喜んでくれるから、あの子と遊んでいる時だけ、これらは宝物になれた。今の私にとっては、その思い出が宝物だから、いいんだ。
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十一月二十一日『どうすればいいの?』
急にすべてがどうでもよくなった。さっきまでどうやって逃げようか愚考を巡らせていたのに、ついにそれさえ諦めた。
ドンドンドン、ドアを拳で叩く音がする。大家か、借金取りか、それとも真弓が帰ってきたのか。
「祐二、開けて!誰か上がってくる!早く!」
真弓の声だ。だがこれも俺の幻聴かもしれないし、敵の罠かもしれない。俺は床に大の字のまま、時が過ぎるのを待った。
ずっと恐怖に囲まれてきたから、今は気分が良い。天井の木目が何に見えるか、考えているだけでいい。幸せだ。
どれだけそうしていただろうか。ふと、起き上がりたくなった。上体を起こすと、頭がフラフラする。思い出したかのように腹が鳴った。
いやに静まり返っていた。あのけたたましいノックはいつ止んだのだろう。外の様子を確認したくて、ドアを開けた。
目の前には……。腰が抜けて、座り込んだ。
あの時、どうでもよくならなければ、助けられたかもしれない。これからどうすればいい?警察に通報しても、俺が逮捕されるだけで、真弓は帰ってこない。逃げたって、元通りの毎日だ。
俺は再び大の字になった。急にすべてがどうでもよくなったのだ。
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十一月二十二日『夫婦』
「ああっ、離婚したいっ!」
そんな言葉、子どもの前で言うもんじゃない。祖母のお小言を笑顔で耐え抜いたあとの母はいつもこうだ。私と母と妹がぎゅうぎゅうの部屋で、顔を覆って泣き始める。逃げるところがここしかないのは分かるけれど、妹はまだ多感な中学生だよ?
父は一人部屋に篭りきりで相手にしてくれないもんね。祖母も一人部屋で悠々自適に暮らしてるんだ。羨ましいなあ。
「私、一人暮らしするね。」
って、言ってしまったらどうなるだろう。母は泣きじゃくって止めるかしら。妹は、うつが悪化するかしら。
ああ、早く結婚したい。そんで、この家から飛び出して、相手を怒らせて、すぐに離婚を言い渡されるの。夢の一人暮らしゲット。そうしたら、私を責める人は誰もいないでしょう。私だって、被害者になれるでしょう。
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十一月二十三日『落ちていく』
もし飛行機から投げ出されたらどう対処する?すぐに気絶するとも聞くが、もし意識があったならば上からも下からも大洪水で、どうすることもできないだろう。
携帯電話が繋がるならば、風切音と共に私の声を妻に届けるだろう。泣きじゃくる声なんて聞かせたこともないから、最初で最後、良い記念なんじゃないか。
それでも生きたくなって、クッションとなるものを捜すかもしれない。上空一万メートルから落ちて無事でいられるクッションなんて存在しないのかもしれないが、枝をばきぼき折りつつ全身血だらけになりつつも着地するとか、巨大マシュマロのギネス記録の現場に落ちて低反発で助かるとか、夢見がちに考えてしまうのは、寡聞で或ることの長所と言える。
実際には、命を他人に任せるしかないのだ。閉じ込められているのだから、どうすることもできない。
ああ、私が何も知らなくて良かった。この飛行機があとどれだけ持つのか察することができない分、希望が持てる。
妻への手紙は、したためた。胸に抱いて、落ちていく。意識は深く、落ちていく。




