6話:月狩人
振り返った先には、この世のものとは思えないほどの美少女が立っていた。
彼女はサファイアの瞳で、あっけにとられ声を出せないでいる俺を見据えてこう言った。
「お遊びだったのですか?」
「え?」
「主様はお遊びで私に生を授け、一生に一度の大切なもの(なまえ)を刻まれたのですか?」
「え……ええと?」
想像の範疇を超えた質問にただただ困惑する。
「冗談です。私は主様の所有物ですので、主様の好きなように扱ってもらって構いません」
彼女は唇についた血液を舐め救う。
健康的な赤色の舌は唾液で濡れており、本当に人形なのかと疑いたくなるほどだ。
「申し遅れましたが、自己紹介を。私は『月狩人』レーネ。我が創造種並びに地底の月の守護者にして、仇敵を悉く屠る武装せる腕。そして主様の忠実なる僕。ちなみに座右の銘は『規格外』です。どうぞよしなに」
そう言ってレーネはスカートをつまんで膝を曲げる恭しいお辞儀をする。
「お、おう……。そうか……。たしかに圧倒的だな……」
対して俺はそうとしか答えることができなかった。長らく育んできた孤独のせいとかでなく、ただただ圧倒されるのだ。
俺の反応が望ましくないのか、眼の前の少女・レーネは「むぅ」と小さく頬を膨らます。
「おかしいですね。シミュレーションでは第一印象を柔らかくし、小気味よく冗談を挟むことですぐに打ち解けられるはずでしたが……」
レーネは小声でボソボソと呟いた。
こちらに聞こえない独り言のつもりなのだろうけどバッチリ聞こえている。
「しかし、主様は私のことを知っていて、私が主様の名前を知らないというのは些か不公平にございます」
「ん? ああ……! 自己紹介か! 俺の名前は――」
言いかけたところで細く白い人差し指が口に押し当てられていた。
いつの間にか眼の前にレーネがいて――。
「いいえ、主様。私のために自己紹介などと、そのようなことであなた様を煩わせるわけには参りません」
「…………」
「御身に流れるその血を拝領させていただければ、あなた様のすべてを識ることができます」
「その……なんだ? それも冗談の一部だったりするのか?」
生き人形のはずなのにレーネからは甘い香りがした。
女性との交流がないせいでドギマギしてしまう。
だから辛うじて言葉にできたのはそれだけだった。
「いいえ、主様。たしかに先程まで遊びが過ぎましたことをお詫びします。しかし、私人形なれどもあなた様と同じく、血を頂くことであなた様を構成する記憶を『識る』ことが可能でございます。私は主様のすべてを識りたいのです。嘘偽りのない裸のままのあなたを受け入れて差し上げたい。これがレーネの偽らざる本音にございます」
切実なまでの願いだった。少なくともそう思わせるほどには真剣な表情と声音だ。
血液から情報を得るとは一体いかなる術であろうか?
そのような魔術は聞いたことがないが、おそらくは古代人の叡智なのだろう。
「だめ、ですか?」
濡れた瞳で彼女は何を期待しているのか?
蠱惑的な雰囲気に俺は何を期待しているのか?
それでも生唾を飲み込まずにはいられなかった。
「俺は……どうすれば?」
「その指先から垂れる血の雫がなんとも美味しそ……いえ、その雫を数滴ほどいただければと」
「あ、ああ……。そんなことでいいのか」
俺はレーネに誘われるがままに血の滴る手を差し出した。
レーネは跪いたかと思うとテラテラと艷やかな舌を出して、ポタポタと滴る赤い液体を必死に受け止めようとしている。
なんと淫靡な光景だろう。
「ああ、苦い。とても苦くて熱い。これが主様の味」
レーネは垂れた血を舌で貰うだけでは飽き足らず、ミルクを飲む子犬のようにピチャピチャと俺の指を舐める。
「足りませんね。もっと欲しくなってしまいます」
そう上目遣いに舌舐めずりをしたかと思うと――。
「失礼を」
といって長い黒髪を耳にかけて、俺の人差し指をパクリと咥える。
舌のザラザラした感触が傷口を刺激してこそばゆい。吸い付く唇の柔らかさに酔いそうだ。
やがて指から唇が離れる。俺の人差し指から紅は消え、代わりに唾液に塗れてツヤツヤしていた。
「酸味もコクも香りも要らない、ただただストレートに苦さを追求し、それでいて煮えたぎるほど熱い。これは、苦難と憤怒、そして誰にも理解されぬ孤独と愛情に飢えた寂しさが隠し味。独りもがき苦しみ煮え湯をかぶる――地獄のような人生……。大変美味しゅうございました」
眼の前の少女はまるで究極の美食を味わったかのように恍惚の表情を浮かべたが、俺に見られていることに気づくと、恥ずかしそうに口元を手で隠す。
「主様のすべてを理解できました。主様は人間でいらしましたか」
「その言い方、お前は人間を模した存在じゃなかったのか……? それならお前は一体何なんだ?」
「私、ですか……。そうですね、私は血肉をもらっただけの生ける人形。創造種の模造品に過ぎませんが――」
レーネはおとがいに細長い指を当てて言葉を探しているようだった。
「私を生み出したのは吸血種――あなた方が古代人類と誤認するモノの真なる姿にございます」