16話:月面、あるいはクレーターで一杯の岩石
しばらくの自由落下によって、ムーンワームとの距離はだいぶ開いたはずだと安堵していたが、甘かった。
「おいおい、何キロメートルあるんだ、あの虫!?」
「月の中心に根を下ろしているはずですので、悠に100キロは越しているかと」
レーネが俺の軽口を拾って律儀に返している間に、かの虫は俺たちめがけて更に体を伸ばして、真上から真っ逆さまに襲いかかる。
「さあ来い、寄生虫! これはお前のために用意した切り札だ!」
ワームの頭がぱっくり裂けて、小型の歯が生え揃ったグロデスクな口が俺とレーネを飲み込まんとした。
その試みは叶わなかった。
「ハッ、どうした! 食えるもんなら食ってみろ!」
ワームは俺たちから数メートルのところで止まった。
それはまるで見えない壁に阻まれるように――というのは比喩でもなんでも無く、事実、阻まれているのだ。
「ムーンワームと私達の間の空間を固定したということですね」
当然、デメリットをメリットとして活かせば、停滞空間にはこんな使い道もある。
目の前のムーンワームは俺たちの直上が守られてると気づき、横に回り込んでの捕食を試みるが、その悉くが失敗に終わる。
「獲物が目の前にいるのに食えなくて悔しいよなぁ。だが、無駄だ。お前の次の行動に予測して空間を固定したッ!」
どの方向も死角はない。
攻撃を完全に防ぐ不可視の障壁に守られているといえる。
矢弾も魔法弾も停滞空間に入ると運動を止める。
まあ、どんな防御魔法にも弱点はあって、停滞空間も例外ではない。
こうして停滞空間の前に無駄な努力をするワームがこちらに見えている以上、一つだけ通してしまう魔法が存在するということだが、この虫が魔法を使うことはない。
「それにいいのか、虫野郎? 足元がお留守だぞ。おっと、線虫風情が足なんて持ち合わせちゃいないか」
数秒遅れて、塔が音を立てて崩れていく。
幸い俺たちは塔を結構登っていたようで、月の表面まであと数キロメートルと言ったところだ。
ワームも崩れ行く塔から体を月へと引っ込めていく。
長大な線状の体を翻し、月に巨大な輪を描く。
その姿は月に舞い上がるプロミネンス。
月寄生虫とはよく言ったものだ。
ワームが月に帰って行くに従って、体が妙に軽いという浮遊感のような感覚を抱く。
「俺たちが月のほうに引き寄せられている……?」
その違和感の正体が、月の方向へ自分を引っ張る力が働いていることだと気づく。
「地底の月は重力変更機能を持っています。これによって月の表面にいても立っていられるのです。擬似的な重力圏がここまで拡大したのは、おそらくムーンワームが月の重力を操作したからでしょう」
塔の残骸の一部が月の周りで軌道運動を始める。
重力が強くなっているのを感じる。
「これは好都合。失礼しますね、主様」
レーネはそう言って俺を再び背に乗せる。
「何をする気だ?」
「これから月まで跳躍します」
「そいつはいい。ついでに月面行きのチケットを切ってくれよ。シャンパンと一緒にな」
月の表面に着地すると砂塵が舞った。
それが晴れると見渡す限りを青白い狼のような魔物が俺たちを囲んでいた。
「一斉に襲いかかるために、私達の隙を伺っていますね。彼我のレベル差を認識できるくらいには、知恵があるということでしょう」
「熱烈な歓迎嬉しいんだが、俺たちは暇じゃない。サインはこの術式一つで勘弁してくれ」
そういって俺は大規模魔法術式・“霧”を発動する。
一帯をマスタードのような不気味な黄色の霧が包む。
「これは地底からの土産だ。魔力を霧状に散布して広域に状態異常をばらまく、我ながら画期的な魔法でな。気に入ったか?」
俺がこうやって講釈垂れる間に、一匹また一匹と麻痺毒(毒+麻痺)に冒され、倒れていく。
地底にいた魔物も高レベルだったが、月面の魔物はさらにレベルが高い。
それでも今の俺達の敵ではなかった。
「『黄の霧』――よ~く味わって血反吐吐いてくれ」
さて、前座はこれくらいにして――。
「姿を見せろよ、ムーンワーム! ここはお前のホームなんだろ?」
すると地震とともに月の大地が裂け、ワームが頭を突き出す。
スープを吸いすぎたパンのようにぶよぶよした肉体がそれに続き、月の地表から100メートルくらいの高さまで達したところで、俺たちを正面に捉えると、人を十人くらい丸呑みにできそうな口を開き、聞くに堪えない、咆哮の出来損ないみたいな鳴き声を発する。
「気合入ってるな! 俺たちもお前に会いたかったぜ。
お前を倒すために一年も準備するくらいにはな!」
「ムーンワーム……。私の創造種が滅びる原因となった仇敵、そして私と主様の門出を邪魔する障害、ここで討ち果たします」
地底最後の戦闘の始まりだ!
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