薄れていく季節といつまでも残る匂いに
雨上がりのコンクリートの匂い。
夜中に降っていた雨が、気づけば姿を消していた。
さっきまで右手にあった違和感が消えていることに気づく。
店に傘を忘れてしまったようだ。
まぁいいか、どうせ安物の傘だし。
家路を辿りながら、縁石の上を歩く。この何とも言えない、胸をくすぐる空気の匂いがたまらない。
縁石からぴょんっ、と地面に着地する。
そのまま、すこしずつ明るくなっている空を見上げた。
思えば、昔から「匂い」に敏感だった。
鼻が利くとかそういうのじゃなくて、「思い出」と「匂い」を結びつけるのが癖だったのだと思う。
お祭りが終わった後の、少しずつ消えていく騒がしい匂い。
海に行った帰り、ふわふわと浮かぶ感覚と鼻をくすぐる磯の匂い。
雨が降った後の、湿気を含んだ切なさと寂しさの混じる匂い。
どれも、思い出しきれないけど心に残る、そんな思い出と手をつないでいた。
そう思いにふけっていると、突然身に覚えのある匂いが私の鼻先をくすぐった。
身に覚えがあるなんてもんじゃない。
私の夏のすべてだった。青春のすべてを注いだ、すべてを捧げた人。
そんな思い出と手をつないでいた匂い。
急いで振り返ってもだれもいない。
そもそも、人なんて通っていなかった。
目の前に浮かぶ、駆け巡るあの時の情景に私は、追いつくことさえできない。
ずるい人だった。
出会いなんか特別なものじゃなくて、バイト先の先輩というなんとも面白くない関係柄だった。
それでも、私には何よりもきらめいて見えていたし、その人しか見えていなかったんだと思う。
そんな彼は、私を助手席に乗せて色々なところへ連れて行ってくれた。
彼の好きな音楽を流し、彼の好きなものの話をする。
時にはコンビニの駐車場に車を止めて、運転席で眠る彼の顔を見つめていたりもした。
私はそんな時間が愛しくてたまらなかった。
すこしキツめの彼の香水は、車内の私たちをあっという間に包み込む。
毎回「終わってほしくない」と望むドライブが終わっても、私に染み付く匂いで切なくなりすぎずに済んだ。
今思えば馬鹿らしいが、彼の持つ香水と似た香水も買った。
香水の名前を聞き出せなかった私は、己の記憶と鼻だけでなんとか近いものを見つけ出した。
あの時、あの瞬間。
私は彼だけを見つめて、彼との思い出だけを抱きしめていた。
でもやっぱり、終わってほしくなかったこの関係にも、しっかりと終止符が打たれた。
彼女ができたらしい。
私では引き出せなかったうれしそうな顔をして報告してきた。
悲しいなんてもんじゃなかった。
けど、彼に気持ちを悟られないように、祝福の言葉で自らを騙す。
本当は奪いたかった、手に入れたかった。
けれど、私に残ったのは、そんな独りよがりの思い出と、彼を思い出させる香水だけだった。
地面に光がさしている、あたりはすっかりと明るくなっていた。
眠い、早く帰ろう。
そういえば、あの香水の名前は何だっけ。どこに置いたっけ。
思い出せない、それほど記憶が薄らいでしまっているのだろう。
でも、これでいいはずなんだ。
これが私と彼との思い出なんだ。
顔に妙なつっぱりを感じる、気づかないうちに涙を流していたようだ。
家に帰って、顔を洗って眠ろう。
思い出したあの匂いと記憶を抱きしめて。
あなたと、あなたの大事な思い出たちがしっかりと手をにぎり続けますように。