微睡みの朝
カーテンの隙間から、白々とした朝の光が差し込んでいた。
降り続いていた雪は止み、窓の外には銀世界が広がっている。
「……ん……」
ミラは重いまぶたを擦り、微睡みの中で身じろぎをした。
全身が鉛のように重く、そして甘く痺れている。
動こうとすると、腰に巻き付いた「重り」に引き留められた。
「……どこ行くの?」
耳元で、寝起きの掠れた声がした。
振り返ると、シーツに埋もれたアルヴィンが、不満げに眉を寄せてミラを見つめていた。
乱れた銀髪、無防備な鎖骨、そしてとろりとした甘い視線。
そこには「氷の死神」と呼ばれた英雄の姿はなく、ただの甘えん坊な大型犬のような男がいた。
「おはよう、アル。……もう朝よ。起きないと」
「やだ」
アルヴィンは即答し、ミラの腰を抱き寄せて、その背中に顔を埋めた。
「あと五分……いや、あと五十年はこのままでいたい」
「……それ、一生寝てるつもり?」
ミラが苦笑すると、彼はふふっと喉の奥で笑い、ミラのうなじにチュッと音を立ててキスをした。
「それでもいいよ。……君がいれば、世界なんてどうなってもいい」
その言葉は冗談めかしているようで、背筋が凍るほど本気だった。
彼は本当に、ミラさえいれば勇者の称号も、世界平和も投げ出す覚悟があるのだ。
「……だめよ。今日は条約締結の翌日なのよ? 各国の代表への挨拶とか、事後処理とか……」
「そんなの、クリオに任せておけばいい」
アルヴィンはミラの黒髪を指で梳きながら、拗ねたように唇を尖らせた。
「僕は昨日、世界を救ったんだよ? ……ご褒美に、君との休日くらい貰ったってバチは当たらないはずだ」
彼は上目遣いにミラを見上げる。
長い睫毛の影が落ちるその瞳は、計算され尽くした「可愛げ」を放っていた。
ミラがこの表情に弱いことを、彼は熟知している。
「……ずるいわよ、その顔」
「知ってる。……で、いい子にしてたら、キスしてくれる?」
「っ……」
断れるはずがない。
ミラはため息をつき、彼の額に軽く口づけを落とした。
「……はい、ご褒美。これで満足して」
「全然足りないけど……まあ、続きは後でたっぷり貰うからいいや」
アルヴィンは満足げに目を細め、ようやく拘束を少しだけ緩めた。
コンコン。
その時、控えめなノックの音が響いた。
「……ミラ様。ルルでございます。……シエル様がお目覚めで……ミルクを欲しがっておいでです」
扉の向こうから、恐縮しきったルルの声が聞こえる。
現実に引き戻される瞬間だ。
「あ、ごめんなさい! すぐ開けるわ!」
ミラは慌ててベッドから飛び起き、床に散らばっていたドレス(昨夜、アルヴィンが無残に剥ぎ取ったものだ)を拾い上げようとして――諦めた。
ホックが引きちぎられている。
「……アル」
「んー? ごめんね、夢中だったから」
アルヴィンは悪びれもせず、枕元に置いてあった自分の予備のシャツを放り投げた。
ぶかぶかの白シャツ。
それを着ろということらしい。
「……もう」
ミラは顔を赤くしながらシャツを羽織り、髪を適当にまとめて扉を開けた。
「お待たせ、ルル。入って」
「し、失礼いたします……」
ルルがおそるおそる部屋に入ってくる。
彼女の腕の中では、シエルが「あー、うー」と不満げな声を上げていた。
ルルは、ベッドの上で半裸でくつろぐ勇者アルヴィンを見て、ヒッと息を呑み、ガタガタと震え出した。
無理もない。魔族にとって彼は、昨日まで同胞を殺し回っていた恐怖の象徴なのだから。
「……怖がらなくていい」
アルヴィンがベッドから起き上がり、意外にも穏やかな声で言った。
彼はシーツを腰に巻いたまま近づいてくると、ルルの腕からシエルをひょいと抱き上げた。
「あ……っ!」
「……よう。おはよう、シエル」
アルヴィンは、自分の腕の中にすっぽりと収まる小さな命を見つめた。
昨夜は暗がりだったが、朝の光の中で見ると、その色彩はあまりにも鮮明だった。
自分と同じ栗色の髪。榛色の瞳。
そして、ミラによく似た形の良い唇。
「あう!」
シエルは人見知りもせず、アルヴィンの頬に小さな手を伸ばした。
その無邪気な瞳に、アルヴィンの表情が音を立てて崩れる。
「……可愛い」
ボソリと漏れた本音。
彼はシエルの柔らかな頬に、頬ずりをした。
その姿には、戦場の修羅の面影など欠片もない。ただの、子煩悩な父親の顔だった。
「……不思議ね」
ミラはその光景を見て、目頭が熱くなった。
人間と魔族。勇者と魔王の眷属。
本来なら殺し合うはずの二人が、こうして一つの命を慈しんでいる。
「この子が……私たちの架け橋になってくれたのかもしれないわね」
「架け橋なんて立派なものじゃなくていい」
アルヴィンはシエルを高い高いしながら、優しい目でミラを見た。
「ただの、僕たちの宝物だ。……それだけで十分だろう?」
「……ええ。そうね」
ミラは微笑み、二人に寄り添った。
アルヴィンの大きな手、ミラの華奢な手、そしてシエルの小さな手。
三つの温もりが重なり合う。
けれど、甘い時間は長くは続かない。
現実的な問題が、ミラの頭をもたげた。
「……ねえ、アル。これからのことなんだけど」
「ん?」
「私は、魔族の地へ帰らなきゃいけないわ。おじ様(魔王ルワージュ)の補佐もあるし、王道派の復興もしなきゃいけないし……」
ミラは言葉を選びながら言った。
本当は離れたくない。けれど、立場がそれを許さない。
勇者が魔族の地に住むわけにはいかないし、私が人間の国に戻れば、シエルが迫害されるかもしれない。
「だから……しばらくは、遠距離恋愛に……」
「却下」
アルヴィンは食い気味に言った。
シエルをあやしながら、涼しい顔でとんでもないことを口にする。
「僕も行く」
「……は?」
「だから、僕も魔族の地に行くと言っているんだ」
「な、何を言ってるの!? あなたは勇者よ!? 人間の国の英雄が、魔界に移住なんてできるわけないでしょう!?」
「できるよ」
アルヴィンはニッコリと、最高にたちが悪い笑顔を浮かべた。
「名目は何とでもなる。『次期魔王候補の監視』とか、『王道派との連携強化のための駐在武官』とかね。……クリオあたりに書類を作らせれば、どうとでも通る」
「そ、そんな無茶苦茶な……!」
「無茶じゃない。これは決定事項だ」
彼はシエルを片手で抱いたまま、空いた手でミラの腰を引き寄せた。
「言っただろう? 片時も離さないって」
その瞳の奥に、暗く重い執着の炎が揺らめく。
「君が魔王の城に住むなら、僕はその隣の部屋に住む。君が野垂れ死ぬなら、僕も一緒に土に還る。……勇者の引退後のセカンドライフには、ちょうどいい刺激だろ?」
「アル……」
呆れるほどに重く、そして頼もしい愛。
彼は本気だ。
世界中が反対しても、彼は剣一本でその反対をねじ伏せて、私の隣に座り続けるだろう。
「……分かったわ。もう、あなたの好きにして」
ミラは降参して、彼の肩に頭を預けた。
この強引で甘えん坊な英雄様に、勝てる気がしない。
「うー!」
二人の間に挟まれたシエルが、嬉しそうに声を上げた。
まるで、「パパ、よくやった!」と褒めているかのように。
「ほら、シエルも賛成してる」
「……あなたち、本当に似た者親子ね」
窓の外から差し込む光が、奇妙で、けれど幸福な「家族」の新しい門出を祝福していた。




