解けゆく雪
雪の降るバルコニー。
世界から切り離されたような静寂の中で、ミラはアルヴィンの腕の中に囚われていた。
鼓膜を打つのは、彼の早鐘のような心臓の音と、私たち二人の荒い呼吸音だけ。
熱い。
凍てつく外気の中にいるはずなのに、彼の身体から伝わる熱が、私の芯まで溶かしていくようだ。
けれど、その心地よい熱に浸れば浸るほど、ミラの胸の奥底から、冷たい刃物のような「現実」が突きつけられた。
(私……なんてことをしてしまったの)
『あなたの子よ』
『愛してる』
その言葉は、確かに私の本心だった。
けれど、それは決して口にしてはいけない、墓場まで持っていくべき秘密だったはずだ。
(私が沈黙していれば、彼は「被害者」でいられた。魔族に連れ去られた哀れな恋人を想い続ける、高潔な英雄でいられたのに……)
けれど、真実を認めてしまえばどうなる?
彼は「魔族の女と通じ、子供を成した堕落した勇者」になってしまう。
神殿は彼を糾弾するだろう。
民衆は彼に失望するだろう。
私が、この一年間必死で守ろうとしてきた彼の「光」を、私自身の弱さが、たった一瞬で泥にまみれさせてしまったのだ。
「……っ!」
ミラはハッとして、アルヴィンの胸板に手を突き、身体を離そうとした。
「……だめ。離して、アル」
「嫌だ」
アルヴィンは即答し、さらに強く抱きしめた。
その腕の力は、逃げることなど許さないという、甘く重い鎖のようだった。
「どうして離れようとする? ……やっと、捕まえたのに」
「だって……! 取り返しがつかないわ!」
ミラは蒼白な顔で、彼の胸元を見つめ、震える唇を開いた。
「勢いで言ってしまったけれど……これじゃ、あなたの立場がなくなる。神殿が黙っていないわ。『勇者が魔族と内通していた』なんてことになれば、あなたは討伐対象にだってなりかねないのよ!?」
「ミラ」
「お願い、忘れて。今の言葉は全部嘘よ。……私は魔族になって心が歪んでしまったの。だから、あなたを道連れにしようとして……」
「黙れ」
ミラの唇が、塞がれた。
言葉による否定ではなく、物理的な熱によって。
「……ん、ぅ……ッ」
アルヴィンの唇が、ミラの唇を貪るように押し付けられていた。
それは優しい口づけではなかった。
一年分の渇きと、焦燥と、そして「これ以上自分を卑下するな」という怒りすら孕んだ、激しく深い接吻。
ミラの思考が白く飛び、抗議の言葉が甘い吐息へと変わる。
彼が私の後頭部を押さえる手のひらの大きさや、腰に回された腕の強さが、彼がただの「勇者」という記号ではなく、血の通った一人の「男」であることを雄弁に物語っていて、腰が砕けそうになる。
「……は、ぁ……っ」
ようやく唇が離れた時、ミラは酸欠で足がもつれ、彼の腕にすがりついた。
目の前のアルヴィンは、熱っぽく潤んだ瞳でミラを見下ろしている。
その表情は、聖女の前で見せる「完璧な勇者」のものではなく、ただ恋焦がれた女を手に入れた男の顔だった。
「……うるさい口だ」
アルヴィンは親指で、濡れたミラの唇を強くなぞった。
「僕の立場? 神殿の評価? ……そんなものは、勝手に言わせておけばいい」
「でも、あなたは英雄なのよ……? 世界中の希望なの」
「君がいない世界で英雄と呼ばれることに、何の意味がある?」
「……っ」
あまりにも傲慢で、そして狂おしいほどの愛の言葉。
私の心配など、彼にとっては塵ほどの価値もないと言わんばかりだ。
「それに、もう遅い。……僕は知ってしまった。この子が僕の子だと。君がまだ、僕を愛してくれていると」
アルヴィンは視線を下ろし、ミラの腕の中で眠るシエルの頬を、愛おしげに指の背で撫でた。
「……この温もりを知ってしまって、以前のような『綺麗な勇者』に戻れると思うか?」
「……戻れない、わよね」
ミラは観念したように呟いた。
そうだ。彼は一度知ってしまえば、絶対に手放さない人だ。
その執着の深さと、愛の重さを誰よりも知っていながら、私は甘えてしまったのだ。
「なら、諦めろ」
アルヴィンは再びミラに顔を近づけた。
今度はゆっくりと、互いの吐息が混ざり合う距離で。
「君はもう、僕から逃げられない。……一生かけて、僕を裏切ろうとした罪を償ってもらう」
「……どんな、償いを?」
ミラが震える声で問うと、彼は妖艶に目を細め、耳元で囁いた。
「地獄の果てまで、僕の道連れになってもらう。……僕が死ぬその瞬間まで、片時も離さない」
道連れ。
それは、甘い愛の告白であり、逃げ場のない「呪い」のようだった。
光の道を捨て、茨の道を共に歩むという誓い。
けれど不思議と、恐怖はなかった。
むしろ、胸の奥にストンと重い石が落ちたような、奇妙な安心感があった。
私は、彼を綺麗なまま守りたかったけれど、それ以上に……泥にまみれてでも、彼と一緒にいたかったのだ。
「……バカな人」
ミラは涙ぐみながら、彼の胸に額を押し付けた。
「私みたいなのを捕まえて……後悔しても知らないんだから」
「ああ。世界一幸せな後悔をしてやるよ」
二人の唇が、吸い寄せられるように再び重なった。
今度は、雪解け水のように優しく、そしてどこまでも深く。
冷え切った指先を絡め合い、互いの体温を確かめ合う。
「ん……アル……」
「ミラ……愛してる……」
合間合間に漏れる愛の言葉が、夜の冷気の中に溶けていく。
罪悪感も、立場の違いも、種族の壁も。
熱い口づけの前では、すべてが些細なことに思えてくる。
シエルは、二人の間で安心しきったように眠っている。
パパとママの匂いに包まれ、幸せな夢を見ているのだろう。
雪は降り続いている。
けれど、二人の周りだけは、春の日差しの中にいるかのような温もりに満ちていた。
戻れないと分かっていても、堕ちていく先がいばらの道でも構わない。
今はただ、この愛しい人の腕の中で、熱に浮かされていたかった。
ミラはアルヴィンの首に腕を回し、その背中を強く抱きしめ返した。
それが、彼女が出した「答え」だった。
(ごめんなさい、世界中の人たち。……私、勇者様を奪ってしまいました)
心の中で深く謝罪し、ミラは瞳を閉じた。
その瞼の裏には、もう不安の闇はなく、愛する人と歩む眩しいほどの光だけが広がっていた。




