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勇者と幼なじみの物語―あざと勇者の愛が重すぎる―  作者: 華乃ぽぽ
6章

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榛色の贖罪


アーク・ノアの夜空を、不穏な黒煙が汚していく。

クリオの報告は、ミラの心臓を凍りつかせるに十分すぎる凶報だった。


「覇道派の残党は、復活を企んでいる……。そのために、最も魔力の高い赤子を――『次期魔王の器』として、その身に魔王の魂を降ろそうとしているんだ!」


「魔王の……器……?」


ミラの世界が、音を立てて崩れ落ちた。

シエルが。

私の愛しい、柔らかな頬をしたあの子が。

ただの道具として攫われ、その小さな身体を邪悪な魂に乗っ取られる?


(嫌……嫌!!)


想像するだけで、内臓が裏返るような吐き気に襲われた。

あの子が私を見て笑うことも、小さな手で指を握り返してくれることもなくなる。

魂を塗り潰され、破壊の怪物として生かされるなんて、死ぬよりも残酷な運命だ。


「シエル……ッ!」


ミラはドレスの裾を乱暴にまくり上げ、雪の積もるバルコニーから飛び降りようとした。

ここから離宮までは、馬車でも数時間はかかる。

今の私の魔力では、転移魔法も届かない。

分かっている。分かっているけれど、身体が勝手に動く。

じっとしていたら、気が狂ってしまいそうだった。


「待て」


その腕を、鋼鉄のような力が掴んだ。

アルヴィンだ。

彼は冷ややかな瞳で、半狂乱のミラを見下ろしている。


「放して! 行かなきゃ……あの子が!」

「行ってどうする。お前の足で間に合うわけがないだろう」

「でも……っ!」

「それに、相手は敵対勢力の魔王復活を目論む狂信者だ。今の『魔族の姫』のお前が飛び込んだところで、親子仲良く殺されて終わりだ」


正論だった。

残酷なほどに冷静な事実が、ミラの胸を鋭利な刃物のように抉る。

そうだ。私には力がない。

薬師としての知識はあっても、あの子を敵の手から奪い返す「暴力」がない。


「……あ、あぁ……」


ミラはその場に崩れ落ち、雪に手を突いた。

絶望が涙となって溢れ出し、視界を歪ませる。

自分の無力さが憎い。

母親なのに。あの子を守ると誓ったのに。


「助けて……誰か、あの子を……」


ふと、視界の端に、純白の軍靴が映った。

世界で一番速く、世界で一番強い男の足元。

彼なら。

この世界で唯一、あの「勇者」だけなら、今からでも間に合うかもしれない。


けれど、彼はシエルのことを「魔族の男との子」だと信じている。

憎むべき裏切りの証だと。


(それでも……)


ミラはプライドも、魔族としての立場も、自分への憐憫も、全て捨てた。

ただの母親として、震える手でアルヴィンの軍靴にすがりついた。


「……アル、ヴィン」


雪に額を擦り付けるようにして、彼女は懇願した。


「お願い……助けて。シエルを助けて……ッ!」


アルヴィンは無表情のまま、足元のミラを見下ろした。

その瞳には、侮蔑の色すら浮かんでいる。


「……断る」


氷点下の拒絶。


「なぜ僕が、魔族のガキを助けなきゃならない? そいつは将来、人間に牙を剥くかもしれない『魔王の種』だぞ。……むしろ、器にされて理性を失うなら、ここで勇者として討伐すべき対象だ」

「違う! あの子はまだ赤ん坊なのよ!? 何も悪いことなんてしていない!」

「存在が罪だ。……僕を裏切って作った、汚らわしい罪の結晶だ」


アルヴィンは吐き捨て、ミラの腕を冷たく振り払おうとした。

その言葉の一つ一つが、ミラの心臓を握り潰す。

けれど、ここで引くわけにはいかない。


「お願い……何でもするから……ッ!」


ミラは彼の足を離さなかった。

爪が軍靴に食い込み、指先から血が滲む。

かつての恋人に、これ以上ない屈辱的な姿を晒してでも、彼女は縋った。


「私の命でも、魔力でも、何でもあげる……っ! 一生あなたの奴隷になったっていい! だから……お願い、あの子だけは助けて……ッ!!」


「……何でも、と言ったな?」


アルヴィンの動きが止まった。

彼はゆっくりとしゃがみ込み、ミラの顎を強引に持ち上げた。

至近距離で交錯する視線。

彼の黄金の瞳の奥で、昏い欲望と、歪んだ執着の炎が揺らめいた。


「なら、お前の全てをよこせ」

「……え?」

「心も、体も、魂もだ。……二度と魔族の世界には戻さない。ガキは捨てて一生、僕の側で、僕のためだけに生きろ。……ガキのことなど、二度と思い出せないくらいにな」


それは救助の対価と言うにはあまりに重く、そして歪んだ独占欲の発露だった。

彼は子供を助けるために動くのではない。

ミラという存在を完全に自分の所有物にするために、その「ついで」として子供を救うと言うのだ。


「……っ」

「返事はどうした。……迷っている間に、ガキは魔王の器にされるぞ」


アルヴィンが残酷に時間を数える。

迷う余地などなかった。

私の自由と引き換えに、あの子の命と未来が守れるなら。


「……わかった。あなたのものになるわ」


ミラは涙を流しながら、力強く頷いた。


「だから……お願い!!」

「……契約成立だ」


アルヴィンが立ち上がった。

その瞬間、彼から爆発的な魔力が噴き出した。

大気が悲鳴を上げ、周囲の積もった雪が一瞬で蒸発する。


「待っていろ。……すぐに終わらせる」


ドンッ!!


落雷のような轟音と共に、アルヴィンの姿がかき消えた。

目にも止まらぬ神速。

音速を超えた衝撃波が、アーク・ノアの夜空を切り裂き、北の方角へと一直線に伸びていった。



北の空域。

雪山の上空を、数体のガーゴイルが飛翔していた。

その背には、黒いローブを纏った覇道派の残党たちが乗っている。

彼らの手には、粗末なカゴに入れられた赤ん坊――シエルが握られていた。


「ギャアアアアッ! ウェェェェン!」


氷点下の寒風に晒され、シエルが火のついたように泣き叫んでいる。


「チッ、うるさいガキだ」

「急げ。儀式の間まであと少しだ。……こいつの体に先代の魂を降ろせば、我々の再興は成る」

「ああ。王道派の軟弱者どもも、勇者どもも、新生魔王のにえにしてやる」


彼らが薄汚い欲望に歪んだ笑みを浮かべた、その時だった。


ザンッ――――。


音が聞こえるよりも早く、先頭のガーゴイルの首が落ちた。

鮮血が夜空に舞う。


「な……ッ!?」


残党たちが振り返る間もなかった。

夜空に一閃、金色の軌跡が走る。

それは流星のように美しく、そして死神のように無慈悲だった。


「……遅い」


空中に静止した人影が、冷たく呟いた。

背から純白の魔力翼を展開した、完全武装の勇者アルヴィン。

その手には、白銀の聖剣が握られている。


「ゆ、勇者!? なぜここに……!?」

「貴様らの戯言を聞く耳はない」


アルヴィンが剣を一閃させる。

絶対零度の斬撃が空間ごと敵を凍結させ、砕き散らした。

圧倒的な蹂躙。

それは戦いですらなく、ただの「掃除」だった。


最後の一人が、恐怖に顔を引きつらせながら、シエルの入ったカゴを放り投げた。


「く、くれてやるッ! 魔王の器など!」

「……チッ」


アルヴィンは舌打ちをし、落下していくカゴへと急降下した。

風を切り、重力を無視した加速でカゴに追いつく。

その腕が、ふわりとカゴを抱き止めた。


「……汚らわしい」


アルヴィンは雪原に着地し、腕の中のカゴを忌々しげに見下ろした。

これが、ミラを汚した魔族との間にできた子。

自分から全てを奪った、憎むべき男の種。


「お前のせいで、ミラは一生籠の鳥だ。……感謝するんだな」


殺意を込めて、そう呟く。

カゴの中で、赤ん坊が泣き止まない。

寒さで頬を赤くし、必死に手を伸ばして何かを求めている。


「……泣くな。魔族のくせに」


アルヴィンは乱暴に、赤ん坊の顔を覆っていた布をめくった。

一目で魔族の特徴を確認し、軽蔑してやるつもりだった。

父親譲りの黒い髪、禍々しい赤い目を。


けれど。


そこにいたのは、彼が想像していた「魔物」ではなかった。


「……は?」


アルヴィンの思考が停止した。

時が、止まった。


月の光に照らされたその赤ん坊は、柔らかく波打つ髪を持っていた。

その色は、明るい栗色チェスナット

そして、涙で濡れた大きな瞳が、不思議そうに瞬きをして、アルヴィンを見つめ返す。

その瞳の色は、澄んだ榛色ヘーゼル


「栗色の髪……榛色の瞳……?」


アルヴィンの手が震え出した。

聖剣を取り落とす。

記憶の扉が、強引にこじ開けられる。


それは、彼が「勇者」として覚醒し、聖なる魔力の影響で銀髪金眼に変質する前――

幼い頃、ミラと一緒に故郷の野山を駆け回っていた頃の、アルヴィン自身の色彩だった。


「なんで……」


混乱する頭で、必死に計算する。

ミラの妊娠の時期。

魔族の地へ渡った時期。

そして、この子の月齢。


『採集任務中に連れ去られた』

『魔族の男との間にできた』

『心も体も魔族になった』


ミラの言葉が、走馬灯のように蘇る。

そして、それらが全てガラガラと崩れ去り、たった一つの真実へと収束していく。


もし、連れ去られる前に宿していたとしたら?

もし、あの「別れの夜」に……?


「ああっ、うー……」


シエルが、アルヴィンの指を小さな手でぎゅっと握った。

その瞬間、血の繋がりを証明するように、アルヴィンの体内に温かい魔力が流れ込んできた。

拒絶反応ではない。

魂が共鳴するような、どうしようもなく懐かしく、愛おしい感覚。


「……僕の、子……?」


アルヴィンはその場に膝をついた。

世界が反転する。

自分が今まで「汚らわしい」と罵り、殺そうとさえしたこの子が。

ミラが自分の身を売ってまで守ろうとしたこの小さな命が。

他の誰でもない、自分の血を分けた息子だったのだ。


「あ……あ、あ……」


喉の奥から、言葉にならない嗚咽が漏れた。

戦慄と、後悔と、そして魂を揺さぶるような歓喜が、同時に押し寄せる。


「僕は……なんてことを……」


彼は震える手で、壊れ物を扱うようにシエルを抱きしめた。

その温もりが、冷え切った勇者の心を一瞬にして溶かしていく。

涙が、ポロポロとこぼれ落ちて、赤ん坊の頬を濡らした。


「……すまない。……すまない、シエル」


真実は、雪原の静寂の中で、あまりにも唐突に暴かれた。


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