榛色の贖罪
アーク・ノアの夜空を、不穏な黒煙が汚していく。
クリオの報告は、ミラの心臓を凍りつかせるに十分すぎる凶報だった。
「覇道派の残党は、復活を企んでいる……。そのために、最も魔力の高い赤子を――『次期魔王の器』として、その身に魔王の魂を降ろそうとしているんだ!」
「魔王の……器……?」
ミラの世界が、音を立てて崩れ落ちた。
シエルが。
私の愛しい、柔らかな頬をしたあの子が。
ただの道具として攫われ、その小さな身体を邪悪な魂に乗っ取られる?
(嫌……嫌!!)
想像するだけで、内臓が裏返るような吐き気に襲われた。
あの子が私を見て笑うことも、小さな手で指を握り返してくれることもなくなる。
魂を塗り潰され、破壊の怪物として生かされるなんて、死ぬよりも残酷な運命だ。
「シエル……ッ!」
ミラはドレスの裾を乱暴にまくり上げ、雪の積もるバルコニーから飛び降りようとした。
ここから離宮までは、馬車でも数時間はかかる。
今の私の魔力では、転移魔法も届かない。
分かっている。分かっているけれど、身体が勝手に動く。
じっとしていたら、気が狂ってしまいそうだった。
「待て」
その腕を、鋼鉄のような力が掴んだ。
アルヴィンだ。
彼は冷ややかな瞳で、半狂乱のミラを見下ろしている。
「放して! 行かなきゃ……あの子が!」
「行ってどうする。お前の足で間に合うわけがないだろう」
「でも……っ!」
「それに、相手は敵対勢力の魔王復活を目論む狂信者だ。今の『魔族の姫』のお前が飛び込んだところで、親子仲良く殺されて終わりだ」
正論だった。
残酷なほどに冷静な事実が、ミラの胸を鋭利な刃物のように抉る。
そうだ。私には力がない。
薬師としての知識はあっても、あの子を敵の手から奪い返す「暴力」がない。
「……あ、あぁ……」
ミラはその場に崩れ落ち、雪に手を突いた。
絶望が涙となって溢れ出し、視界を歪ませる。
自分の無力さが憎い。
母親なのに。あの子を守ると誓ったのに。
「助けて……誰か、あの子を……」
ふと、視界の端に、純白の軍靴が映った。
世界で一番速く、世界で一番強い男の足元。
彼なら。
この世界で唯一、あの「勇者」だけなら、今からでも間に合うかもしれない。
けれど、彼はシエルのことを「魔族の男との子」だと信じている。
憎むべき裏切りの証だと。
(それでも……)
ミラはプライドも、魔族としての立場も、自分への憐憫も、全て捨てた。
ただの母親として、震える手でアルヴィンの軍靴にすがりついた。
「……アル、ヴィン」
雪に額を擦り付けるようにして、彼女は懇願した。
「お願い……助けて。シエルを助けて……ッ!」
アルヴィンは無表情のまま、足元のミラを見下ろした。
その瞳には、侮蔑の色すら浮かんでいる。
「……断る」
氷点下の拒絶。
「なぜ僕が、魔族のガキを助けなきゃならない? そいつは将来、人間に牙を剥くかもしれない『魔王の種』だぞ。……むしろ、器にされて理性を失うなら、ここで勇者として討伐すべき対象だ」
「違う! あの子はまだ赤ん坊なのよ!? 何も悪いことなんてしていない!」
「存在が罪だ。……僕を裏切って作った、汚らわしい罪の結晶だ」
アルヴィンは吐き捨て、ミラの腕を冷たく振り払おうとした。
その言葉の一つ一つが、ミラの心臓を握り潰す。
けれど、ここで引くわけにはいかない。
「お願い……何でもするから……ッ!」
ミラは彼の足を離さなかった。
爪が軍靴に食い込み、指先から血が滲む。
かつての恋人に、これ以上ない屈辱的な姿を晒してでも、彼女は縋った。
「私の命でも、魔力でも、何でもあげる……っ! 一生あなたの奴隷になったっていい! だから……お願い、あの子だけは助けて……ッ!!」
「……何でも、と言ったな?」
アルヴィンの動きが止まった。
彼はゆっくりとしゃがみ込み、ミラの顎を強引に持ち上げた。
至近距離で交錯する視線。
彼の黄金の瞳の奥で、昏い欲望と、歪んだ執着の炎が揺らめいた。
「なら、お前の全てをよこせ」
「……え?」
「心も、体も、魂もだ。……二度と魔族の世界には戻さない。ガキは捨てて一生、僕の側で、僕のためだけに生きろ。……ガキのことなど、二度と思い出せないくらいにな」
それは救助の対価と言うにはあまりに重く、そして歪んだ独占欲の発露だった。
彼は子供を助けるために動くのではない。
ミラという存在を完全に自分の所有物にするために、その「ついで」として子供を救うと言うのだ。
「……っ」
「返事はどうした。……迷っている間に、ガキは魔王の器にされるぞ」
アルヴィンが残酷に時間を数える。
迷う余地などなかった。
私の自由と引き換えに、あの子の命と未来が守れるなら。
「……わかった。あなたのものになるわ」
ミラは涙を流しながら、力強く頷いた。
「だから……お願い!!」
「……契約成立だ」
アルヴィンが立ち上がった。
その瞬間、彼から爆発的な魔力が噴き出した。
大気が悲鳴を上げ、周囲の積もった雪が一瞬で蒸発する。
「待っていろ。……すぐに終わらせる」
ドンッ!!
落雷のような轟音と共に、アルヴィンの姿がかき消えた。
目にも止まらぬ神速。
音速を超えた衝撃波が、アーク・ノアの夜空を切り裂き、北の方角へと一直線に伸びていった。
†
北の空域。
雪山の上空を、数体のガーゴイルが飛翔していた。
その背には、黒いローブを纏った覇道派の残党たちが乗っている。
彼らの手には、粗末なカゴに入れられた赤ん坊――シエルが握られていた。
「ギャアアアアッ! ウェェェェン!」
氷点下の寒風に晒され、シエルが火のついたように泣き叫んでいる。
「チッ、うるさいガキだ」
「急げ。儀式の間まであと少しだ。……こいつの体に先代の魂を降ろせば、我々の再興は成る」
「ああ。王道派の軟弱者どもも、勇者どもも、新生魔王の贄にしてやる」
彼らが薄汚い欲望に歪んだ笑みを浮かべた、その時だった。
ザンッ――――。
音が聞こえるよりも早く、先頭のガーゴイルの首が落ちた。
鮮血が夜空に舞う。
「な……ッ!?」
残党たちが振り返る間もなかった。
夜空に一閃、金色の軌跡が走る。
それは流星のように美しく、そして死神のように無慈悲だった。
「……遅い」
空中に静止した人影が、冷たく呟いた。
背から純白の魔力翼を展開した、完全武装の勇者アルヴィン。
その手には、白銀の聖剣が握られている。
「ゆ、勇者!? なぜここに……!?」
「貴様らの戯言を聞く耳はない」
アルヴィンが剣を一閃させる。
絶対零度の斬撃が空間ごと敵を凍結させ、砕き散らした。
圧倒的な蹂躙。
それは戦いですらなく、ただの「掃除」だった。
最後の一人が、恐怖に顔を引きつらせながら、シエルの入ったカゴを放り投げた。
「く、くれてやるッ! 魔王の器など!」
「……チッ」
アルヴィンは舌打ちをし、落下していくカゴへと急降下した。
風を切り、重力を無視した加速でカゴに追いつく。
その腕が、ふわりとカゴを抱き止めた。
「……汚らわしい」
アルヴィンは雪原に着地し、腕の中のカゴを忌々しげに見下ろした。
これが、ミラを汚した魔族との間にできた子。
自分から全てを奪った、憎むべき男の種。
「お前のせいで、ミラは一生籠の鳥だ。……感謝するんだな」
殺意を込めて、そう呟く。
カゴの中で、赤ん坊が泣き止まない。
寒さで頬を赤くし、必死に手を伸ばして何かを求めている。
「……泣くな。魔族のくせに」
アルヴィンは乱暴に、赤ん坊の顔を覆っていた布をめくった。
一目で魔族の特徴を確認し、軽蔑してやるつもりだった。
父親譲りの黒い髪、禍々しい赤い目を。
けれど。
そこにいたのは、彼が想像していた「魔物」ではなかった。
「……は?」
アルヴィンの思考が停止した。
時が、止まった。
月の光に照らされたその赤ん坊は、柔らかく波打つ髪を持っていた。
その色は、明るい栗色。
そして、涙で濡れた大きな瞳が、不思議そうに瞬きをして、アルヴィンを見つめ返す。
その瞳の色は、澄んだ榛色。
「栗色の髪……榛色の瞳……?」
アルヴィンの手が震え出した。
聖剣を取り落とす。
記憶の扉が、強引にこじ開けられる。
それは、彼が「勇者」として覚醒し、聖なる魔力の影響で銀髪金眼に変質する前――
幼い頃、ミラと一緒に故郷の野山を駆け回っていた頃の、アルヴィン自身の色彩だった。
「なんで……」
混乱する頭で、必死に計算する。
ミラの妊娠の時期。
魔族の地へ渡った時期。
そして、この子の月齢。
『採集任務中に連れ去られた』
『魔族の男との間にできた』
『心も体も魔族になった』
ミラの言葉が、走馬灯のように蘇る。
そして、それらが全てガラガラと崩れ去り、たった一つの真実へと収束していく。
もし、連れ去られる前に宿していたとしたら?
もし、あの「別れの夜」に……?
「ああっ、うー……」
シエルが、アルヴィンの指を小さな手でぎゅっと握った。
その瞬間、血の繋がりを証明するように、アルヴィンの体内に温かい魔力が流れ込んできた。
拒絶反応ではない。
魂が共鳴するような、どうしようもなく懐かしく、愛おしい感覚。
「……僕の、子……?」
アルヴィンはその場に膝をついた。
世界が反転する。
自分が今まで「汚らわしい」と罵り、殺そうとさえしたこの子が。
ミラが自分の身を売ってまで守ろうとしたこの小さな命が。
他の誰でもない、自分の血を分けた息子だったのだ。
「あ……あ、あ……」
喉の奥から、言葉にならない嗚咽が漏れた。
戦慄と、後悔と、そして魂を揺さぶるような歓喜が、同時に押し寄せる。
「僕は……なんてことを……」
彼は震える手で、壊れ物を扱うようにシエルを抱きしめた。
その温もりが、冷え切った勇者の心を一瞬にして溶かしていく。
涙が、ポロポロとこぼれ落ちて、赤ん坊の頬を濡らした。
「……すまない。……すまない、シエル」
真実は、雪原の静寂の中で、あまりにも唐突に暴かれた。




