表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
勇者と幼なじみの物語―あざと勇者の愛が重すぎる―  作者: 華乃ぽぽ
6章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

33/39

硝子の条約


あの地獄のような再会から、一ヶ月が過ぎた。


季節は冬の入り口。

魔族の地と人間の地の境界線上に位置する中立都市「アーク・ノア」。

かつては幾度も戦火に焼かれたこの街も、今日は歴史的な転換点を迎える舞台として、雪化粧を施された静寂の中にあった。


「……ミラ。準備はいいか?」


控え室の扉が重々しく開き、魔王ルワージュが入ってきた。

彼は深紅のマントを羽織り、王としての威厳を漂わせているが、その足取りはわずかに重く、杖をついている。あの日、勇者の一撃を受けて重傷を負った身体は、まだ完治には程遠い。


「おじ様……。お身体は、もうよろしいのですか?」


ミラは鏡の前から立ち上がり、心配そうに駆け寄った。

ルワージュは苦笑し、ミラの頭を優しく撫でた。


「ああ。……あの勇者、とどめを刺さなかったからな。『雑魚にかまけている時間はない』と言わんばかりにな。おかげで命拾いしたよ」


自嘲気味な言葉だが、そこには姪への気遣いが滲んでいた。

彼はミラを見る目を痛ましげに細める。


「……本当に、出るのか? お前が矢面に立つ必要はないのだぞ」

「いいえ、おじ様。……これは私が撒いた種ですから」


ミラは鏡の中の自分を見つめ返した。

今の彼女は、かつての泥にまみれた薬師見習いではない。

艶やかな漆黒の髪を結い上げ、魔族の王族だけが纏うことを許される、夜空のような深い紺碧のドレスに身を包んでいる。

首元には大粒の魔石のネックレス。それは、離宮に残してきた我が子――「シエル」を守るための守護石と対になったものだ。


「覚悟はできています。……行きましょう、終わらせるために」



「人と魔族の和平条約」締結式。

その会場となる大聖堂には、張り詰めた空気が満ちていた。

高い天井、ステンドグラスから降り注ぐ冷たい冬の光。

中央の長いテーブルを挟んで、人間側の代表団と、魔族側の代表団が対峙している。


「――これより、調印式を執り行う」


司祭の厳粛な声が響く。

ミラはルワージュの右後ろ、補佐官としての席に立ち、ゆっくりと顔を上げた。


そこに、彼がいた。


人間側の代表席。その中央に座る、英雄アルヴィン。


彼は痩せてなどいなかった。やつれてもいなかった。

むしろ、神々しいほどに完成されていた。

一点の曇りもない純白の軍服に身を包み、鍛え上げられた長身を背筋正しく伸ばしている。

整いすぎた顔立ちは、まるで名匠が彫り上げた大理石の彫刻のようだ。

黄金の髪は窓からの光を受けて輝き、その瞳は宝石のように硬質で、美しい。


完璧な勇者。

けれど、ミラには分かってしまう。

その完璧さが、逆に「人間らしさ」を完全に排除した結果であることを。

彼は悲しみも、怒りも、喜びさえも切り捨てて、ただ世界を救うための美しい「装置」になり果ててしまったのだ。


(アル……)


心臓が早鐘を打つ。

駆け寄りたい。その仮面を剥がして、素顔に触れたい。

けれど、彼の瞳はミラを見ていなかった。

視界には入っているはずだ。かつての恋人が、魔族のドレスを着てそこにいるのだから。

けれど、彼はミラを「風景の一部」として扱い、徹底的に無視していた。

そこにあるのは憎しみですらない。

完全なる「無関心」だった。


「……条約の内容を確認する」


アルヴィンが事務的に口を開いた。

その声は、かつてミラに愛を囁いた声と同じものとは到底思えなかった。

金属が擦れるような、冷たく乾いた響き。


「相互不可侵。捕虜の解放。そして、国境線の確定。……異存はないな、魔王ルワージュ」

「ああ。我々王道派としても、望むところだ。……無益な血は、もう流したくない」


ルワージュが重々しく頷く。

書類が回される。

羽ペンが羊皮紙の上を走る音だけが、カリカリと静寂に響く。


ミラはその作業を、息を止めるような思いで見守っていた。

隣には、聖女シュナと神殿騎士団長クリオもいる。

二人は時折、ミラの方をチラチラと見ていた。

驚愕、困惑、そして深い哀れみ。

「行方不明だったミラが、なぜ魔族の姫としてここに?」という動揺が、その視線から痛いほど伝わってくる。

けれど、アルヴィンが何も語らない以上、彼らも口を挟むことはできない。


「……署名を」


アルヴィンが書類を書き終え、ペンを置いた。

ルワージュもサインを終える。


これで、戦争は終わった。

世界に平和が訪れたのだ。

けれど、その平和の契約書は、ミラとアルヴィンの「絶縁状」でもあった。


書類が交換される瞬間、二人の視線がわずかに交錯した。

ミラの揺れる赤い瞳と、アルヴィンの虚ろな金の瞳。


(……ああ、本当に)


ミラは唇を噛んだ。

彼はもう、私を愛していないし、憎んでもいない。

ただの「政治的な交渉相手の補佐」として処理している。

それが、彼なりの防衛本能であり、私への最大の復讐なのだ。



条約締結の後、別会場にて祝賀会が開かれた。

華やかな音楽、豪華な食事。

人間と魔族、双方の貴族たちがグラスを片手に談笑している。

歴史的な和解の夜。

けれど、ミラの心は北の雪山のように凍てついたままだった。


「……少し、風に当たってきます」


ミラはルワージュに断りを入れ、人混みを避けてバルコニーへと出た。

重いガラス戸を閉めると、会場の喧騒が遠のく。

夜風が冷たい。

ドレスの薄い生地を通して、肌を刺すような寒さが、火照った思考を冷やしてくれる。


ミラは手すりに寄りかかり、遠く北の空を見上げた。

あの方角に、シエルがいる。

今頃、ルルに抱かれて眠っているだろうか。


「……お前も、変わったな」


背後から、不意に声がかかった。

心臓が跳ね上がる。

幻聴かと思った。けれど、振り返ったガラス戸の向こうに、彼が立っていた。


アルヴィンだった。

手には琥珀色の液体が入ったグラスを持っているが、口をつけた形跡はない。

彼はゆっくりと、音もなくミラの隣に来て、同じように夜空を見上げた。


「……勇者、様」


ミラは動揺を隠し、必死に声を絞り出した。

魔族の姫としての仮面を被り直す。震えてはいけない。


「ご機嫌よう。……素晴らしい夜ですね」

「ああ、素晴らしいな。虫酸が走るほどに」


アルヴィンは吐き捨てるように言い、口元を皮肉に歪めた。


「黒いドレスか。……似合っているよ。以前の貧相な格好より、ずっと『それらしい』」

「……お褒めに預かり、光栄です」


刺々しい言葉。けれど、無視されるよりはずっと胸に響く。

ミラは彼の方を向けなかった。見れば、泣いてしまうから。


「……どうなんだ」


長い沈黙の後、彼が問うた。


「魔族の地での暮らしは。……快適か?」


「ええ」


ミラは即答した。

ここで迷えば、彼に隙を見せることになる。


「皆さま、とても優しくしてくださいます。……人間のように、力を持たない者を差別したり、利用したりしませんから」

「……そうか」


アルヴィンがグラスを強く握る音が、微かに聞こえた。


「なら、あのガキも……幸せなんだろうな」


心臓が凍る。

子供のこと。

彼は、まだそのことを覚えていた。

当然だ。彼にとってそれは、裏切りの結晶なのだから。


「……シエル、といいます」


ミラは震える声で、愛息の名を告げた。


「シエル、か」


アルヴィンはその名を口の中で転がし、鼻で笑った。


「皮肉な名だ。……魔族の血を引く者が、空の名を冠するとは」

「……どんな種族であれ、空を見上げる権利はあります」

「権利、ね」


アルヴィンはミラの横顔を覗き込んだ。

その黄金の瞳には、かつての熱量はなく、ただ冷たい光だけが宿っている。

けれど、その奥底には、押し殺した激情が渦巻いているのを、ミラは感じ取った。


「感謝しろよ、ミラ」


彼が低く、囁くように言った。


「お前たちが……お前と、その魔族の男と、忌々しいガキが。……怯えずに暮らせる世界を、僕が作ってやったんだ」

「……っ」


それは、あまりにも残酷な「愛の言葉」だった。

『お前が裏切っても、俺は約束を守った』という、痛烈な証明。

彼の完璧な英雄としての姿は、すべてミラへの当てつけであり、そして歪んだ献身の結果なのだ。


ミラはドレスの裾を握りしめ、深く頭を下げた。

涙がこぼれそうになるのを、必死に床を見つめて堪える。


「……感謝、いたします。勇者アルヴィン様。……貴方様の慈悲に、心から」

「ふん」


アルヴィンは興味を失ったように視線を外し、グラスの中身を一気に煽った。


「もういい。……二度と僕の前に現れるな。視界に入るだけで不愉快だ」


彼は背を向け、会場へ戻ろうとする。

その背中は、世界中の誰よりも広く、そして誰よりも孤独だった。


「待っ――」


ミラが思わず呼び止めようとした、その時だった。


ドォォォォンッ!!


会場の方角から、爆発音が轟いた。

ガラスが割れる音。怒号。そして、黒い煙が夜空に立ち昇る。


「なんだ!?」


アルヴィンが瞬時に反応し、剣の柄に手をかける。

その動きは、一瞬前の冷淡さが嘘のように鋭い。


「残党か……!」

「勇者様! 大変です!」


バルコニーの扉が勢いよく開き、クリオが飛び出してきた。

彼はアルヴィンではなく、真っ直ぐにミラを見て叫んだ。


「ミラ……いや、王道派の姫君! 至急確認を!」

「え……?」

「賊の狙いは、この会場じゃない! ここは陽動だ!」


クリオは叫んだ。


「捕らえた捕虜が白状した! 彼らの狙いは『魔王の血を引く器』……次の魔王候補だ! ……君の、離宮が襲われている!」


「――――ッ!?」


ミラの全身の血が逆流した。

目の前が真っ白になる。

離宮。

そこには、ルルに預けたままの、幼いシエルがいる。

魔王の血を引く器。

それは、隔世遺伝によって強い魔力を持つシエルのことに違いない。


「シエル……ッ!!」


ミラはドレスの裾を掴み、アルヴィンを押しのけるようにして会場の中へと駆け出した。


「おい!」


アルヴィンの声が背後で響く。

けれど、今のミラには構っている余裕はなかった。

もしあの子に何かあれば、私は生きていけない。


アルヴィンは一瞬、その場に立ち尽くしていたが、舌打ちを一つして、その後を追った。

愛のためではない。

「平和条約を汚す賊を排除する」という、勇者としての義務感だけを、その氷のような瞳に宿して。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ