硝子の条約
あの地獄のような再会から、一ヶ月が過ぎた。
季節は冬の入り口。
魔族の地と人間の地の境界線上に位置する中立都市「アーク・ノア」。
かつては幾度も戦火に焼かれたこの街も、今日は歴史的な転換点を迎える舞台として、雪化粧を施された静寂の中にあった。
「……ミラ。準備はいいか?」
控え室の扉が重々しく開き、魔王ルワージュが入ってきた。
彼は深紅のマントを羽織り、王としての威厳を漂わせているが、その足取りはわずかに重く、杖をついている。あの日、勇者の一撃を受けて重傷を負った身体は、まだ完治には程遠い。
「おじ様……。お身体は、もうよろしいのですか?」
ミラは鏡の前から立ち上がり、心配そうに駆け寄った。
ルワージュは苦笑し、ミラの頭を優しく撫でた。
「ああ。……あの勇者、とどめを刺さなかったからな。『雑魚にかまけている時間はない』と言わんばかりにな。おかげで命拾いしたよ」
自嘲気味な言葉だが、そこには姪への気遣いが滲んでいた。
彼はミラを見る目を痛ましげに細める。
「……本当に、出るのか? お前が矢面に立つ必要はないのだぞ」
「いいえ、おじ様。……これは私が撒いた種ですから」
ミラは鏡の中の自分を見つめ返した。
今の彼女は、かつての泥にまみれた薬師見習いではない。
艶やかな漆黒の髪を結い上げ、魔族の王族だけが纏うことを許される、夜空のような深い紺碧のドレスに身を包んでいる。
首元には大粒の魔石のネックレス。それは、離宮に残してきた我が子――「シエル」を守るための守護石と対になったものだ。
「覚悟はできています。……行きましょう、終わらせるために」
†
「人と魔族の和平条約」締結式。
その会場となる大聖堂には、張り詰めた空気が満ちていた。
高い天井、ステンドグラスから降り注ぐ冷たい冬の光。
中央の長いテーブルを挟んで、人間側の代表団と、魔族側の代表団が対峙している。
「――これより、調印式を執り行う」
司祭の厳粛な声が響く。
ミラはルワージュの右後ろ、補佐官としての席に立ち、ゆっくりと顔を上げた。
そこに、彼がいた。
人間側の代表席。その中央に座る、英雄アルヴィン。
彼は痩せてなどいなかった。やつれてもいなかった。
むしろ、神々しいほどに完成されていた。
一点の曇りもない純白の軍服に身を包み、鍛え上げられた長身を背筋正しく伸ばしている。
整いすぎた顔立ちは、まるで名匠が彫り上げた大理石の彫刻のようだ。
黄金の髪は窓からの光を受けて輝き、その瞳は宝石のように硬質で、美しい。
完璧な勇者。
けれど、ミラには分かってしまう。
その完璧さが、逆に「人間らしさ」を完全に排除した結果であることを。
彼は悲しみも、怒りも、喜びさえも切り捨てて、ただ世界を救うための美しい「装置」になり果ててしまったのだ。
(アル……)
心臓が早鐘を打つ。
駆け寄りたい。その仮面を剥がして、素顔に触れたい。
けれど、彼の瞳はミラを見ていなかった。
視界には入っているはずだ。かつての恋人が、魔族のドレスを着てそこにいるのだから。
けれど、彼はミラを「風景の一部」として扱い、徹底的に無視していた。
そこにあるのは憎しみですらない。
完全なる「無関心」だった。
「……条約の内容を確認する」
アルヴィンが事務的に口を開いた。
その声は、かつてミラに愛を囁いた声と同じものとは到底思えなかった。
金属が擦れるような、冷たく乾いた響き。
「相互不可侵。捕虜の解放。そして、国境線の確定。……異存はないな、魔王ルワージュ」
「ああ。我々王道派としても、望むところだ。……無益な血は、もう流したくない」
ルワージュが重々しく頷く。
書類が回される。
羽ペンが羊皮紙の上を走る音だけが、カリカリと静寂に響く。
ミラはその作業を、息を止めるような思いで見守っていた。
隣には、聖女シュナと神殿騎士団長クリオもいる。
二人は時折、ミラの方をチラチラと見ていた。
驚愕、困惑、そして深い哀れみ。
「行方不明だったミラが、なぜ魔族の姫としてここに?」という動揺が、その視線から痛いほど伝わってくる。
けれど、アルヴィンが何も語らない以上、彼らも口を挟むことはできない。
「……署名を」
アルヴィンが書類を書き終え、ペンを置いた。
ルワージュもサインを終える。
これで、戦争は終わった。
世界に平和が訪れたのだ。
けれど、その平和の契約書は、ミラとアルヴィンの「絶縁状」でもあった。
書類が交換される瞬間、二人の視線がわずかに交錯した。
ミラの揺れる赤い瞳と、アルヴィンの虚ろな金の瞳。
(……ああ、本当に)
ミラは唇を噛んだ。
彼はもう、私を愛していないし、憎んでもいない。
ただの「政治的な交渉相手の補佐」として処理している。
それが、彼なりの防衛本能であり、私への最大の復讐なのだ。
†
条約締結の後、別会場にて祝賀会が開かれた。
華やかな音楽、豪華な食事。
人間と魔族、双方の貴族たちがグラスを片手に談笑している。
歴史的な和解の夜。
けれど、ミラの心は北の雪山のように凍てついたままだった。
「……少し、風に当たってきます」
ミラはルワージュに断りを入れ、人混みを避けてバルコニーへと出た。
重いガラス戸を閉めると、会場の喧騒が遠のく。
夜風が冷たい。
ドレスの薄い生地を通して、肌を刺すような寒さが、火照った思考を冷やしてくれる。
ミラは手すりに寄りかかり、遠く北の空を見上げた。
あの方角に、シエルがいる。
今頃、ルルに抱かれて眠っているだろうか。
「……お前も、変わったな」
背後から、不意に声がかかった。
心臓が跳ね上がる。
幻聴かと思った。けれど、振り返ったガラス戸の向こうに、彼が立っていた。
アルヴィンだった。
手には琥珀色の液体が入ったグラスを持っているが、口をつけた形跡はない。
彼はゆっくりと、音もなくミラの隣に来て、同じように夜空を見上げた。
「……勇者、様」
ミラは動揺を隠し、必死に声を絞り出した。
魔族の姫としての仮面を被り直す。震えてはいけない。
「ご機嫌よう。……素晴らしい夜ですね」
「ああ、素晴らしいな。虫酸が走るほどに」
アルヴィンは吐き捨てるように言い、口元を皮肉に歪めた。
「黒いドレスか。……似合っているよ。以前の貧相な格好より、ずっと『それらしい』」
「……お褒めに預かり、光栄です」
刺々しい言葉。けれど、無視されるよりはずっと胸に響く。
ミラは彼の方を向けなかった。見れば、泣いてしまうから。
「……どうなんだ」
長い沈黙の後、彼が問うた。
「魔族の地での暮らしは。……快適か?」
「ええ」
ミラは即答した。
ここで迷えば、彼に隙を見せることになる。
「皆さま、とても優しくしてくださいます。……人間のように、力を持たない者を差別したり、利用したりしませんから」
「……そうか」
アルヴィンがグラスを強く握る音が、微かに聞こえた。
「なら、あのガキも……幸せなんだろうな」
心臓が凍る。
子供のこと。
彼は、まだそのことを覚えていた。
当然だ。彼にとってそれは、裏切りの結晶なのだから。
「……シエル、といいます」
ミラは震える声で、愛息の名を告げた。
「シエル、か」
アルヴィンはその名を口の中で転がし、鼻で笑った。
「皮肉な名だ。……魔族の血を引く者が、空の名を冠するとは」
「……どんな種族であれ、空を見上げる権利はあります」
「権利、ね」
アルヴィンはミラの横顔を覗き込んだ。
その黄金の瞳には、かつての熱量はなく、ただ冷たい光だけが宿っている。
けれど、その奥底には、押し殺した激情が渦巻いているのを、ミラは感じ取った。
「感謝しろよ、ミラ」
彼が低く、囁くように言った。
「お前たちが……お前と、その魔族の男と、忌々しいガキが。……怯えずに暮らせる世界を、僕が作ってやったんだ」
「……っ」
それは、あまりにも残酷な「愛の言葉」だった。
『お前が裏切っても、俺は約束を守った』という、痛烈な証明。
彼の完璧な英雄としての姿は、すべてミラへの当てつけであり、そして歪んだ献身の結果なのだ。
ミラはドレスの裾を握りしめ、深く頭を下げた。
涙がこぼれそうになるのを、必死に床を見つめて堪える。
「……感謝、いたします。勇者アルヴィン様。……貴方様の慈悲に、心から」
「ふん」
アルヴィンは興味を失ったように視線を外し、グラスの中身を一気に煽った。
「もういい。……二度と僕の前に現れるな。視界に入るだけで不愉快だ」
彼は背を向け、会場へ戻ろうとする。
その背中は、世界中の誰よりも広く、そして誰よりも孤独だった。
「待っ――」
ミラが思わず呼び止めようとした、その時だった。
ドォォォォンッ!!
会場の方角から、爆発音が轟いた。
ガラスが割れる音。怒号。そして、黒い煙が夜空に立ち昇る。
「なんだ!?」
アルヴィンが瞬時に反応し、剣の柄に手をかける。
その動きは、一瞬前の冷淡さが嘘のように鋭い。
「残党か……!」
「勇者様! 大変です!」
バルコニーの扉が勢いよく開き、クリオが飛び出してきた。
彼はアルヴィンではなく、真っ直ぐにミラを見て叫んだ。
「ミラ……いや、王道派の姫君! 至急確認を!」
「え……?」
「賊の狙いは、この会場じゃない! ここは陽動だ!」
クリオは叫んだ。
「捕らえた捕虜が白状した! 彼らの狙いは『魔王の血を引く器』……次の魔王候補だ! ……君の、離宮が襲われている!」
「――――ッ!?」
ミラの全身の血が逆流した。
目の前が真っ白になる。
離宮。
そこには、ルルに預けたままの、幼いシエルがいる。
魔王の血を引く器。
それは、隔世遺伝によって強い魔力を持つシエルのことに違いない。
「シエル……ッ!!」
ミラはドレスの裾を掴み、アルヴィンを押しのけるようにして会場の中へと駆け出した。
「おい!」
アルヴィンの声が背後で響く。
けれど、今のミラには構っている余裕はなかった。
もしあの子に何かあれば、私は生きていけない。
アルヴィンは一瞬、その場に立ち尽くしていたが、舌打ちを一つして、その後を追った。
愛のためではない。
「平和条約を汚す賊を排除する」という、勇者としての義務感だけを、その氷のような瞳に宿して。




