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勇者と幼なじみの物語―あざと勇者の愛が重すぎる―  作者: 華乃ぽぽ
5章

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氷点下の地獄と愛の嘘


常夜とこよの離宮・ノクターン」を包んでいた最強の結界は、まるで薄氷のように砕け散った。


カァァァァンッ……!!


耳をつんざくような甲高い破砕音が、静寂な夜の空気を切り裂く。

頭上で揺らめいていた極彩色のオーロラが、硝子細工のように崩れ落ち、無数の光の破片となって降り注ぐ。

その裂け目から、暴力的なまでに眩しい「金色」の奔流が、滝のように宮殿へと雪崩れ込んだ。


「キャアアアアッ!」

「うわぁぁぁぁっ!」


平和を謳歌していた王道派の魔族たちが、悲鳴を上げて逃げ惑う。

彼らの多くは戦う術を持たない。

庭師の老人、洗濯をしていた娘、ただ静かに暮らしていただけの彼らに、侵入者は慈悲を与えなかった。


「――邪魔だ」


氷のように冷徹な声が、廊下に響く。

カツ、カツ、という軍靴の音が近づくたびに、気温が急激に下がっていく。

吐く息が白く凍り、壁の松明が一瞬で消え失せる。


侵入者が指先をわずかに動かす。それだけで、逃げ惑う魔族の背中から足先までが、瞬きする間に氷の彫像へと変えられていく。

砕ける音。凍る音。そして、死の静寂。

廊下は瞬く間に、絶対零度の地獄と化した。


「ミ、ミラ様! 逃げてください!」


混乱の中、侍女のルルが青ざめた顔で部屋に飛び込んできた。


「ルワージュ様が、地下の隠し通路を開けてくださいました! あそこからなら、北の雪山へ……」

「で、でも……おじ様は!?」

「ルワージュ様は……あの『死神』を食い止めると……ッ!」


その言葉が終わるより早く、轟音が響いた。

離宮の正門付近で、巨大な魔力の衝突が起こる。

魔王ルワージュの深淵な闇の魔力と、それを遥かに凌駕する、焼き尽くすような聖なる閃光。


「ぐ、おォォォッ……!?」


伯父の苦悶の声が、遠く響いて、フツリと消えた。


「おじ様ッ!」

「いけません! 行ってはダメです!」


泣き叫ぼうとするミラを、ルルが必死に抱き止める。

ミラは腕の中の赤ん坊を、骨が軋むほど強く抱きしめた。

おくるみの中で、小さな命が「オギャア!」と恐怖の産声を上げる。


(アル……どうして……)


ミラは震えが止まらなかった。

今の魔力の奔流。あれは間違いなくアルヴィンのものだ。

けれど、かつての温かく力強い、希望に満ちた輝きではない。

あれは、全てを破壊し、蹂躙し、愛する者を見つけ出すまで止まらない「災害」の光だ。


「……探せ」


遠くから、男の声が増幅されて響き渡った。

建物全体を震わせる、底冷えのする声。


「この城のどこかに、人間の女がいるはずだ。……金髪碧眼の、小柄な女だ」


その描写に、ミラは息を呑んだ。

彼は探している。

「ミラ・ディオラ」を。かつての私の姿を。

一年間、片時も忘れることなく、執念だけでここまで辿り着いたのだ。


「見つけ出して連れて来い。……逆らう者は、一人残らず殺せ」


「ひっ……!」


ルルが恐怖に顔を引きつらせる。

殺される。ここにいる全員が、私一人のために殺される。

そんなこと、許せるわけがない。


「……ルル、あなたは逃げて。私は別の出口へ向かうわ」

「えっ、でもミラ様!」

「固まっていると見つかるわ! 散らばって逃げましょう!」


ミラはルルを突き放すと、赤ん坊を抱いたまま、崩れかけた回廊の奥へと走り出した。


「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」


胸に抱いた小さなおくるみだけが、今の彼女の世界のすべてだった。

重い。三ヶ月分の命の重みが、腕に食い込む。

爆音と悲鳴が遠ざかっていく。

けれど、背筋を凍らせるような「死の気配」は、影のようにどこまでも追ってくる。


(お願い、泣かないで……)


ミラは祈るように赤ん坊の背中を撫でながら、裏口へと続く扉を目指した。

あと少し。あそこを抜ければ、吹雪の舞う雪山へ出られる。

地の利がある私が、雪に紛れて逃げれば――。


ドォン!!


目の前の扉が、轟音と共に弾け飛んだ。

砕け散った木片と氷のつぶてが、ミラの頬を掠める。


「きゃっ!?」


ミラはたたらを踏み、尻餅をつきそうになりながらも、必死に赤ん坊を庇って屈み込んだ。

もうもうと立ち込める粉塵。

その向こうから、冷たい、あまりにも冷たい足音が近づいてくる。


カツ、カツ、カツ……。


煙が晴れる。

そこに立っていたのは、返り血で黒く汚れた聖剣を下げた、金色の瞳の青年だった。


「……見つけた」


アルヴィンが、感情の抜け落ちた声で呟いた。

彼はゆっくりと、追い詰められた獲物を見るような目でミラを見下ろす。


「逃げるなよ、ミラ。……やっと、会えたのに」


「ッ……」


ミラは後ずさった。

背中は冷たい石壁。逃げ場はない。

至近距離で見る彼は、記憶の中の彼よりもずっと背が高く、そして痩せていた。

頬はこけ、目の下には深い隈が刻まれている。

かつての清廉潔白な「勇者」の面影はない。

そこにいるのは、愛する者を奪われ、復讐と捜索のためだけに生きる、飢えた獣だった。


「アル……」


震える唇から、愛称が漏れる。

すると、アルヴィンの瞳が揺れた。彼は剣を下ろし、ふらりとミラに歩み寄る。

そして、泥と血に汚れた手で、ミラの頬に触れようとして――止まった。


彼の視線が、フードの下から覗くミラの「髪」と「瞳」に釘付けになる。


「……なんだ、その姿は」


アルヴィンは呆然と呟いた。

指先が、ミラの漆黒の髪を掬い上げる。

かつて彼が愛した黄金の髪ではない。

そして、彼を見上げるその瞳も、忌むべき魔族の「赤」に染まっている。


「まさか、本当に……魔族に、されたのか……?」

「…………」


ミラは何も言えず、ただ視線を逸らした。

その沈黙を肯定と受け取ったのか、アルヴィンは苦悶の表情で顔を歪めた。


「すまない……。僕が、遅かったから……」


意外な言葉だった。

彼はミラを責めるのではなく、自分を責めたのだ。

アルヴィンは震える手で、ミラの肩を抱き寄せようとした。


「でも、もう大丈夫だ。……魔王は殺した。城も落とした。元に戻す方法だって、世界中を探せばきっとある。……帰ろう、ミラ。僕たちの家に」


その声は、泣き出しそうなほど優しく、切実だった。

魔族に変わり果てたミラを、彼は拒絶しなかった。

たとえ魔族になろうとも、ミラはミラだと言って、受け入れようとしている。


その深すぎる愛に、ミラの胸が張り裂けそうになった。

頷きたい。

「怖かった」と抱きついて、彼の胸で泣きじゃくりたい。


けれど。


「……ふぇ、う……」


ミラの腕の中で、小さな命が声を上げた。

アルヴィンの動きがピタリと止まる。

彼はゆっくりと視線を落とし、ミラが大切に抱えている「おくるみ」を見た。


「……なんだ、それ」


低く、硬質な声。


「……荷物じゃないな。生き物の気配がする」


アルヴィンが手を伸ばし、強引におくるみの端をめくった。

そこに見えたのは、柔らかな頬をした赤ん坊の寝顔だった。


時が凍りつく。

アルヴィンは目を見開き、呼吸を忘れたように硬直した。


「赤ん坊……?」


彼は視線を赤ん坊からミラへと移し、そしてまた赤ん坊へと戻した。

混乱。困惑。そして、最悪の想像。


「誰の、子だ?」


震える声での問いかけ。

ここで真実を言えば――「あなたの子よ」と言えば、彼は信じるだろうか?

いや、信じたとしても、自分の子が「魔族の姿をした母」から生まれたという事実は、彼の英雄としての経歴に致命的な傷をつける。

神殿は「半魔の子」を絶対に許さない。

もしバレれば、アルヴィンは親子の情と、世界の敵となる運命との間で引き裂かれ、破滅する。


(嫌……そんなの、絶対に嫌!)


ミラは唇を噛み締め、覚悟を決めた。

彼を守るために。

そして、この子を守るために。

私は、彼を絶望の底に突き落とす「最悪の女」にならなければならない。


「……私の、子供よ」


ミラは顔を上げ、冷ややかな魔族の瞳でアルヴィンを見据えた。


「この一年……ここで暮らしている間に、できたの」

「できた……? 誰と……」

「魔族の、人と」


「――――ッ」


アルヴィンの喉から、空気が漏れるような音がした。

彼の表情から、血の気が一瞬にして引いていく。

手にしていた聖剣が、カランと音を立てて床に落ちた。


「魔族の……男と……?」

「ええ。優しくしてもらったわ。……あなたと違って、彼は私を守ってくれた」


嘘だ。

全部、真っ赤な嘘だ。

けれど、一度吐いた毒はもう止められない。


「だから、帰れない。……私はもう、心も体も魔族なの。あなたの知っているミラは、もう死んだのよ」

「……う、そだ」


アルヴィンが後ずさる。

その瞳の中で、理性の光がガラガラと崩れ落ちていく。


「嘘だ……嘘だ、嘘だッ!!」


彼は頭を抱え、獣のように絶叫した。

その声には、一年分の苦しみと、裏切られた絶望が詰まっていた。


「僕は……! 君を助けるために……! 一年間、寝る間も惜しんで戦ってきたんだぞ!? 泥水をすすり、魔族を殺し……手が血で汚れるのも厭わず……ッ!!」


アルヴィンは血走った目でミラを睨みつけた。

そこにあるのは愛ではない。

ドス黒い憎悪の炎だった。


「それなのに……なんだこれは。……僕が地獄を這いずっている間に、君は魔族の男と笑い合っていたのか!? 魔王の眷属に股を開いて、子供まで作ったというのかッ!!」


「……っ」


汚い言葉が、ナイフのようにミラの心を抉る。

けれど、否定はできない。否定してはいけない。


「穢らわしい……ッ!」


アルヴィンは吐き捨てるように言い、落ちていた聖剣を拾い上げた。

その切っ先が、ゆっくりと持ち上がる。

狙いはミラではない。

彼女の腕の中にいる、赤ん坊だ。


「そんなモノ……生かしておけるか」


殺意。

明確な殺意が、膨れ上がる。


「僕のミラを汚した魔族の種だ。……ここで殺して、消してやる」

「ひっ……!?」


アルヴィンの瞳が金色に発光する。

本気だ。彼は本気で、自分の子供とも知らずに、この子を斬ろうとしている。


「やめてッ!!」


ミラは叫び、赤ん坊を背中側へ隠して、アルヴィンの前に立ちはだかった。


「どけ、ミラ! そいつはお前の汚点だ! 僕が綺麗にしてやる!」

「違う! この子は私の宝物よ! 指一本触れさせない!」

「宝物だと……? 魔族の子が……僕よりも大切だと言うのか!?」

「ええ、大切よ! ……帰りなさい、勇者アルヴィン! 二度と私たちの前に現れないで!」


その姿は、かつて彼が愛した守られるだけの少女ではなく、子を守るために牙を剥く母の姿だった。

その瞬間、アルヴィンの表情から、全ての感情が消え失せた。

残ったのは、能面のような無表情と、底知れない虚無だけ。


「……そうか」


彼は低く呟き、剣を下ろした。


「選ぶんだな。……僕ではなく、その魔族の子を」

「……選ぶわ」


ミラは泣き出しそうになるのを堪え、睨み返した。


「私は、この子の母親だもの」


長い、長い沈黙。

廃墟と化した回廊に、冷たい風が吹き抜ける。

やがて、アルヴィンは「ハッ」と短く乾いた笑い声を漏らした。


「……わかった」


彼は踵を返し、背を向けた。


「殺しはしない。……そんな汚れた女も、そのガキも、僕の手で殺す価値すらない」


氷点下の拒絶。

それは、死刑宣告よりも重く、冷たく響いた。


「消えろ。……僕の視界に入らない場所へ」


アルヴィンは一度も振り返ることなく、崩壊した回廊の向こうへと歩き去っていった。

その背中は、来た時よりも一回り小さく、そして決定的な孤独を纏っていた。


「……う、うぅ……っ」


彼が見えなくなった瞬間、ミラの足から力が抜け、その場に崩れ落ちた。

遠ざかる足音が聞こえなくなるまで、彼女は声を押し殺して泣き続けた。


守れた。

赤ん坊の命も、アルヴィンの英雄としての未来も。

けれどその代償に、二人の絆は、これ以上ないほど残酷な形で断ち切られてしまった。


腕の中で、赤ん坊が小さな声で泣き出した。

ミラは震える手でその頭を撫でる。


「ごめんね……。ごめんね、アル……」


廃墟となった離宮に、行き場のない謝罪の言葉だけが、虚しく木霊していた。


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