氷点下の地獄と愛の嘘
「常夜の離宮・ノクターン」を包んでいた最強の結界は、まるで薄氷のように砕け散った。
カァァァァンッ……!!
耳をつんざくような甲高い破砕音が、静寂な夜の空気を切り裂く。
頭上で揺らめいていた極彩色のオーロラが、硝子細工のように崩れ落ち、無数の光の破片となって降り注ぐ。
その裂け目から、暴力的なまでに眩しい「金色」の奔流が、滝のように宮殿へと雪崩れ込んだ。
「キャアアアアッ!」
「うわぁぁぁぁっ!」
平和を謳歌していた王道派の魔族たちが、悲鳴を上げて逃げ惑う。
彼らの多くは戦う術を持たない。
庭師の老人、洗濯をしていた娘、ただ静かに暮らしていただけの彼らに、侵入者は慈悲を与えなかった。
「――邪魔だ」
氷のように冷徹な声が、廊下に響く。
カツ、カツ、という軍靴の音が近づくたびに、気温が急激に下がっていく。
吐く息が白く凍り、壁の松明が一瞬で消え失せる。
侵入者が指先をわずかに動かす。それだけで、逃げ惑う魔族の背中から足先までが、瞬きする間に氷の彫像へと変えられていく。
砕ける音。凍る音。そして、死の静寂。
廊下は瞬く間に、絶対零度の地獄と化した。
「ミ、ミラ様! 逃げてください!」
混乱の中、侍女のルルが青ざめた顔で部屋に飛び込んできた。
「ルワージュ様が、地下の隠し通路を開けてくださいました! あそこからなら、北の雪山へ……」
「で、でも……おじ様は!?」
「ルワージュ様は……あの『死神』を食い止めると……ッ!」
その言葉が終わるより早く、轟音が響いた。
離宮の正門付近で、巨大な魔力の衝突が起こる。
魔王ルワージュの深淵な闇の魔力と、それを遥かに凌駕する、焼き尽くすような聖なる閃光。
「ぐ、おォォォッ……!?」
伯父の苦悶の声が、遠く響いて、フツリと消えた。
「おじ様ッ!」
「いけません! 行ってはダメです!」
泣き叫ぼうとするミラを、ルルが必死に抱き止める。
ミラは腕の中の赤ん坊を、骨が軋むほど強く抱きしめた。
おくるみの中で、小さな命が「オギャア!」と恐怖の産声を上げる。
(アル……どうして……)
ミラは震えが止まらなかった。
今の魔力の奔流。あれは間違いなくアルヴィンのものだ。
けれど、かつての温かく力強い、希望に満ちた輝きではない。
あれは、全てを破壊し、蹂躙し、愛する者を見つけ出すまで止まらない「災害」の光だ。
「……探せ」
遠くから、男の声が増幅されて響き渡った。
建物全体を震わせる、底冷えのする声。
「この城のどこかに、人間の女がいるはずだ。……金髪碧眼の、小柄な女だ」
その描写に、ミラは息を呑んだ。
彼は探している。
「ミラ・ディオラ」を。かつての私の姿を。
一年間、片時も忘れることなく、執念だけでここまで辿り着いたのだ。
「見つけ出して連れて来い。……逆らう者は、一人残らず殺せ」
「ひっ……!」
ルルが恐怖に顔を引きつらせる。
殺される。ここにいる全員が、私一人のために殺される。
そんなこと、許せるわけがない。
「……ルル、あなたは逃げて。私は別の出口へ向かうわ」
「えっ、でもミラ様!」
「固まっていると見つかるわ! 散らばって逃げましょう!」
ミラはルルを突き放すと、赤ん坊を抱いたまま、崩れかけた回廊の奥へと走り出した。
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
胸に抱いた小さなおくるみだけが、今の彼女の世界のすべてだった。
重い。三ヶ月分の命の重みが、腕に食い込む。
爆音と悲鳴が遠ざかっていく。
けれど、背筋を凍らせるような「死の気配」は、影のようにどこまでも追ってくる。
(お願い、泣かないで……)
ミラは祈るように赤ん坊の背中を撫でながら、裏口へと続く扉を目指した。
あと少し。あそこを抜ければ、吹雪の舞う雪山へ出られる。
地の利がある私が、雪に紛れて逃げれば――。
ドォン!!
目の前の扉が、轟音と共に弾け飛んだ。
砕け散った木片と氷の礫が、ミラの頬を掠める。
「きゃっ!?」
ミラはたたらを踏み、尻餅をつきそうになりながらも、必死に赤ん坊を庇って屈み込んだ。
もうもうと立ち込める粉塵。
その向こうから、冷たい、あまりにも冷たい足音が近づいてくる。
カツ、カツ、カツ……。
煙が晴れる。
そこに立っていたのは、返り血で黒く汚れた聖剣を下げた、金色の瞳の青年だった。
「……見つけた」
アルヴィンが、感情の抜け落ちた声で呟いた。
彼はゆっくりと、追い詰められた獲物を見るような目でミラを見下ろす。
「逃げるなよ、ミラ。……やっと、会えたのに」
「ッ……」
ミラは後ずさった。
背中は冷たい石壁。逃げ場はない。
至近距離で見る彼は、記憶の中の彼よりもずっと背が高く、そして痩せていた。
頬はこけ、目の下には深い隈が刻まれている。
かつての清廉潔白な「勇者」の面影はない。
そこにいるのは、愛する者を奪われ、復讐と捜索のためだけに生きる、飢えた獣だった。
「アル……」
震える唇から、愛称が漏れる。
すると、アルヴィンの瞳が揺れた。彼は剣を下ろし、ふらりとミラに歩み寄る。
そして、泥と血に汚れた手で、ミラの頬に触れようとして――止まった。
彼の視線が、フードの下から覗くミラの「髪」と「瞳」に釘付けになる。
「……なんだ、その姿は」
アルヴィンは呆然と呟いた。
指先が、ミラの漆黒の髪を掬い上げる。
かつて彼が愛した黄金の髪ではない。
そして、彼を見上げるその瞳も、忌むべき魔族の「赤」に染まっている。
「まさか、本当に……魔族に、されたのか……?」
「…………」
ミラは何も言えず、ただ視線を逸らした。
その沈黙を肯定と受け取ったのか、アルヴィンは苦悶の表情で顔を歪めた。
「すまない……。僕が、遅かったから……」
意外な言葉だった。
彼はミラを責めるのではなく、自分を責めたのだ。
アルヴィンは震える手で、ミラの肩を抱き寄せようとした。
「でも、もう大丈夫だ。……魔王は殺した。城も落とした。元に戻す方法だって、世界中を探せばきっとある。……帰ろう、ミラ。僕たちの家に」
その声は、泣き出しそうなほど優しく、切実だった。
魔族に変わり果てたミラを、彼は拒絶しなかった。
たとえ魔族になろうとも、ミラはミラだと言って、受け入れようとしている。
その深すぎる愛に、ミラの胸が張り裂けそうになった。
頷きたい。
「怖かった」と抱きついて、彼の胸で泣きじゃくりたい。
けれど。
「……ふぇ、う……」
ミラの腕の中で、小さな命が声を上げた。
アルヴィンの動きがピタリと止まる。
彼はゆっくりと視線を落とし、ミラが大切に抱えている「おくるみ」を見た。
「……なんだ、それ」
低く、硬質な声。
「……荷物じゃないな。生き物の気配がする」
アルヴィンが手を伸ばし、強引におくるみの端をめくった。
そこに見えたのは、柔らかな頬をした赤ん坊の寝顔だった。
時が凍りつく。
アルヴィンは目を見開き、呼吸を忘れたように硬直した。
「赤ん坊……?」
彼は視線を赤ん坊からミラへと移し、そしてまた赤ん坊へと戻した。
混乱。困惑。そして、最悪の想像。
「誰の、子だ?」
震える声での問いかけ。
ここで真実を言えば――「あなたの子よ」と言えば、彼は信じるだろうか?
いや、信じたとしても、自分の子が「魔族の姿をした母」から生まれたという事実は、彼の英雄としての経歴に致命的な傷をつける。
神殿は「半魔の子」を絶対に許さない。
もしバレれば、アルヴィンは親子の情と、世界の敵となる運命との間で引き裂かれ、破滅する。
(嫌……そんなの、絶対に嫌!)
ミラは唇を噛み締め、覚悟を決めた。
彼を守るために。
そして、この子を守るために。
私は、彼を絶望の底に突き落とす「最悪の女」にならなければならない。
「……私の、子供よ」
ミラは顔を上げ、冷ややかな魔族の瞳でアルヴィンを見据えた。
「この一年……ここで暮らしている間に、できたの」
「できた……? 誰と……」
「魔族の、人と」
「――――ッ」
アルヴィンの喉から、空気が漏れるような音がした。
彼の表情から、血の気が一瞬にして引いていく。
手にしていた聖剣が、カランと音を立てて床に落ちた。
「魔族の……男と……?」
「ええ。優しくしてもらったわ。……あなたと違って、彼は私を守ってくれた」
嘘だ。
全部、真っ赤な嘘だ。
けれど、一度吐いた毒はもう止められない。
「だから、帰れない。……私はもう、心も体も魔族なの。あなたの知っているミラは、もう死んだのよ」
「……う、そだ」
アルヴィンが後ずさる。
その瞳の中で、理性の光がガラガラと崩れ落ちていく。
「嘘だ……嘘だ、嘘だッ!!」
彼は頭を抱え、獣のように絶叫した。
その声には、一年分の苦しみと、裏切られた絶望が詰まっていた。
「僕は……! 君を助けるために……! 一年間、寝る間も惜しんで戦ってきたんだぞ!? 泥水をすすり、魔族を殺し……手が血で汚れるのも厭わず……ッ!!」
アルヴィンは血走った目でミラを睨みつけた。
そこにあるのは愛ではない。
ドス黒い憎悪の炎だった。
「それなのに……なんだこれは。……僕が地獄を這いずっている間に、君は魔族の男と笑い合っていたのか!? 魔王の眷属に股を開いて、子供まで作ったというのかッ!!」
「……っ」
汚い言葉が、ナイフのようにミラの心を抉る。
けれど、否定はできない。否定してはいけない。
「穢らわしい……ッ!」
アルヴィンは吐き捨てるように言い、落ちていた聖剣を拾い上げた。
その切っ先が、ゆっくりと持ち上がる。
狙いはミラではない。
彼女の腕の中にいる、赤ん坊だ。
「そんなモノ……生かしておけるか」
殺意。
明確な殺意が、膨れ上がる。
「僕のミラを汚した魔族の種だ。……ここで殺して、消してやる」
「ひっ……!?」
アルヴィンの瞳が金色に発光する。
本気だ。彼は本気で、自分の子供とも知らずに、この子を斬ろうとしている。
「やめてッ!!」
ミラは叫び、赤ん坊を背中側へ隠して、アルヴィンの前に立ちはだかった。
「どけ、ミラ! そいつはお前の汚点だ! 僕が綺麗にしてやる!」
「違う! この子は私の宝物よ! 指一本触れさせない!」
「宝物だと……? 魔族の子が……僕よりも大切だと言うのか!?」
「ええ、大切よ! ……帰りなさい、勇者アルヴィン! 二度と私たちの前に現れないで!」
その姿は、かつて彼が愛した守られるだけの少女ではなく、子を守るために牙を剥く母の姿だった。
その瞬間、アルヴィンの表情から、全ての感情が消え失せた。
残ったのは、能面のような無表情と、底知れない虚無だけ。
「……そうか」
彼は低く呟き、剣を下ろした。
「選ぶんだな。……僕ではなく、その魔族の子を」
「……選ぶわ」
ミラは泣き出しそうになるのを堪え、睨み返した。
「私は、この子の母親だもの」
長い、長い沈黙。
廃墟と化した回廊に、冷たい風が吹き抜ける。
やがて、アルヴィンは「ハッ」と短く乾いた笑い声を漏らした。
「……わかった」
彼は踵を返し、背を向けた。
「殺しはしない。……そんな汚れた女も、そのガキも、僕の手で殺す価値すらない」
氷点下の拒絶。
それは、死刑宣告よりも重く、冷たく響いた。
「消えろ。……僕の視界に入らない場所へ」
アルヴィンは一度も振り返ることなく、崩壊した回廊の向こうへと歩き去っていった。
その背中は、来た時よりも一回り小さく、そして決定的な孤独を纏っていた。
「……う、うぅ……っ」
彼が見えなくなった瞬間、ミラの足から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
遠ざかる足音が聞こえなくなるまで、彼女は声を押し殺して泣き続けた。
守れた。
赤ん坊の命も、アルヴィンの英雄としての未来も。
けれどその代償に、二人の絆は、これ以上ないほど残酷な形で断ち切られてしまった。
腕の中で、赤ん坊が小さな声で泣き出した。
ミラは震える手でその頭を撫でる。
「ごめんね……。ごめんね、アル……」
廃墟となった離宮に、行き場のない謝罪の言葉だけが、虚しく木霊していた。




