常夜の離宮
大陸の最北端。
人間が決して足を踏み入れない、万年雪と氷壁に閉ざされたその先に、地図にはない場所がある。
太陽が沈まず、かといって昇りもしない。
常に薄紫色の黄昏と、極彩色のオーロラが空を舞う幻想の地――「常夜の離宮・ノクターン」。
そこは、人間との共存を望む「王道派」の魔族たちが暮らす、最後の楽園だった。
「……ミラ様。お加減はいかがですか?」
控えめなノックと共に、侍女の少女が部屋に入ってきた。
ルルという名の彼女は、艶やかな黒髪とルビーのような赤い瞳を持っている。
けれど、それ以外は人間の少女と何ひとつ変わらない。
この国に住む魔族たちは皆、かつての人間たちと同じ姿をし、同じように笑い、暮らしているのだ。
「ありがとう、ルル。……今日はとても気分がいいわ」
窓際のロッキングチェアに座っていたミラは、編みかけのレースを膝に置き、微笑んだ。
その姿は、一年前とは大きく変わっている。
腰まで伸びた髪は、夜の闇を溶かしたような漆黒。
長い睫毛に縁取られた瞳は、鮮血のように赤い。
けれど、その表情には以前のような怯えはなく、母となる者特有の、慈愛に満ちた穏やかさがあった。
「それは何よりです。……ルワージュ様が、南から届いた果物を持ってきてくださいましたよ」
「おじ様が? ふふ、また甘やかされちゃうわね」
ミラは苦笑した。
この地を治める魔王ルワージュ――シアンの父であり、ミラの伯父にあたる人物は、亡き主君の娘であるミラを、それはもう過保護なまでに大切にしてくれている。
おかげで、ミラはこの一年、誰に脅かされることもなく、静かに命を育むことができた。
「……ねえ、ルル」
ミラは果物の籠を受け取りながら、少しだけ声を落とした。
「南の……戦況はどうなっているの?」
ルルの表情が曇る。
彼女は言い淀んだが、ミラの真剣な眼差しに負けて、ポツリと答えた。
「……覇道派の軍勢は、ほぼ壊滅状態だそうです。勇者様の進撃は止まらず……昨日、ついに『黒の城砦』が落ちたと」
「そう……」
ミラは胸元をギュッと掴んだ。
黒の城砦。それは覇道派の最後の拠点が近いことを意味する。
アルヴィンは勝ったのだ。
けれど、その勝ち方はあまりに凄惨だと聞く。
「氷の死神」。
降伏さえ許さず、敵であれば容赦なく氷漬けにする、冷徹な殺戮者。
それが、今のアルヴィンの異名だった。
(ごめんなさい、アル……)
ミラは窓の外、揺らめくオーロラを見上げた。
彼をそんな修羅に変えてしまったのは、他ならぬ自分だ。
「連れ去られた」という嘘が、彼の心を凍らせ、狂気的なまでの力を与えてしまった。
「でも、これで戦争は終わるわ。……彼も、きっと止まってくれる」
そう信じたかった。
戦争が終われば、彼は英雄として凱旋し、幸せになれるはずだ。
私はこのまま、歴史の闇に消えればいい。
「う、ん……」
その時、部屋の奥にあるベビーベッドから、小さな衣擦れの音が聞こえた。
ミラはハッとして駆け寄る。
レースの天蓋をそっと開けると、そこには真っ白な産着に包まれた、小さな小さな命が眠っていた。
生後三ヶ月になる男の子。
まだ言葉も話せない、ふにふにとした柔らかい存在。
「……おはよう。いい子にしてた?」
ミラが人差し指を差し出すと、赤ん坊は無意識にその指をギュッと握り返した。
温かい。
そして、力強い。
ミラはその愛おしさに、目頭が熱くなるのを感じた。
この子には、罪はない。
魔族の血を引いていても、勇者の血を引いていても、ただ愛されるために生まれてきた命だ。
赤ん坊がうっすらと目を開ける。
その瞳を見て、ミラはまた胸を締め付けられた。
(……似てる)
赤ん坊の髪は、魔族特有の黒でも、ミラの金でもない、柔らかな栗色。
そして瞳は、森の木漏れ日のような、澄んだ榛色。
それは、まだ魔術で銀髪に変える前の、幼い頃のアルヴィンそのままの色だった。
「……あなたは、パパに似たのね」
ミラは赤ん坊を抱き上げ、頬ずりをした。
この色彩は、彼が「人間」である証だ。
成長すれば、きっとアルのような優しい顔立ちになるだろう。
けれど、それは同時に残酷な事実をも突きつけている。
もしアルヴィンがこの子を見れば、一目で自分の子だと悟るだろう。
そうすれば、全ての嘘がバレてしまう。
(会わせられない……)
ミラは赤ん坊を強く抱きしめた。
アルヴィンには、一生会わせない。
この子は私が守る。
いつか平和になった世界で、こっそりと人間の国を見せてあげよう。
「あなたのパパは、あの国を救った英雄なのよ」と、遠くから指差して教えるだけでいい。
「……ミラ様」
ルルが心配そうに声をかける。
「大丈夫よ。……私は、幸せだもの」
ミラは涙を拭い、笑顔を作った。
嘘ではない。
アルとはもう二度と会えないけれど、彼が残してくれたこの宝物がある限り、私は生きていける。
その時だった。
遠く――離宮の外壁を守る結界の方角から、地響きのような重低音が響いたのは。
ズズズズズ……ン!!
「きゃっ!?」
部屋が大きく揺れ、花瓶が倒れる。
赤ん坊が驚いて「オギャア!」と泣き出した。
「な、何!? 地震?」
「いえ、違います! これは……!」
ルルが青ざめて窓の外を指差した。
常夜の空に輝いていたオーロラが、ガラスのように砕け散っていく。
そして、その裂け目から、見たこともないほどの強大な「金色の光」が降り注いでいた。
「結界が……破られた?」
嘘でしょう。
ここは魔界の最果て。何重もの隠蔽魔術に守られた聖域だ。
それを、たった一撃で?
警報の鐘が鳴り響く中、ミラは赤ん坊を抱きしめ、凍りついたように立ち尽くした。
本能が、全身の毛穴が粟立つほどの恐怖と共に告げている。
――来たのだ、と。
世界を救い、魔王を殺し、それでもなお満たされぬ飢餓を抱えた「死神」が。
愛するものを奪い返すために、地獄の底まで追ってきたのだと。




