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勇者と幼なじみの物語―あざと勇者の愛が重すぎる―  作者: 華乃ぽぽ
5章

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凍てつく心


ドリス砦の執務室。

窓の外では、冷たい雨が降り続いていた。

部屋の中には、重苦しい沈黙が満ちている。


「……もう一度、言ってみろ」


アルヴィンの声は、震えていた。

怒りではない。恐怖に、震えていた。

目の前に跪く伝令兵は、蒼白な顔で再度、残酷な報告を口にした。


「は、はい……。王宮魔術師団より急報です。……西の山脈での採集任務中、正体不明の高位魔族が出現。護衛部隊の奮戦も虚しく……薬師見習いのミラ・ディオラ様が、連れ去られました」


「…………」


アルヴィンは、何も言わなかった。

ただ、手に持っていた羽ペンが、パキンと乾いた音を立てて折れた。

インクが指を汚し、黒い血のように滴り落ちる。


(ミラが……いない?)


思考が白く染まる。

魔族に連れ去られた。

その言葉の意味を理解しようとするたびに、内臓がねじ切れるような嘔吐感が襲う。


あの笑顔が。あの温もりが。

冷たく、残虐な魔族の手の中にある?


「……嘘だ」


アルヴィンはふらりと立ち上がった。

足元がおぼつかない。

世界が歪んで見える。


「嘘だ……ミラは、待ってるんだ。僕が帰るのを……」


「勇者様!」


伝令兵が悲鳴を上げる中、アルヴィンは扉を蹴破るようにして外へ出た。

雨が吹き込む。

冷たいしぶきが頬を打つが、何も感じない。

ただ、行かなければならない。

今すぐ、西へ。

世界の果てまで追いかけてでも、彼女を取り戻さなければならない。



厩舎きゅうしゃへ向かうアルヴィンの足取りは、幽鬼のように不安定で、けれど恐ろしいほど速かった。

雨に濡れそぼりながら、彼は愛馬の元へ辿り着く。


「アルヴィン!」


背後から鋭い声が飛んだ。

振り返ると、そこには神殿騎士の正装に身を包んだクリオと、聖女シュナが立っていた。

二人の表情は硬い。

アルヴィンが何をしようとしているのか、察しているのだ。


「……どいてくれ」


アルヴィンは鞍を馬に投げ乗せ、振り返らずに言った。

その声には、感情が欠落していた。


「ミラが呼んでる。……行かないと」


「行ってどうするつもりだ」


クリオが静かに問う。

彼は腰の大剣に手をかけず、ただ眼鏡の奥の瞳で、友を射抜くように見つめていた。


「相手は高位魔族だ。居場所もわからん。……今の錯乱した君が飛び出して、闇雲に荒野を彷徨ったところで、彼女を見つけられる確率は万に一つもないぞ」

「それでも……ッ! ここでじっとしていろと言うのか!?」


アルヴィンが叫んだ。

初めて見せる、英雄の仮面が剥がれ落ちた、ただの少年の泣き顔だった。


「あいつは……ミラは、僕の全てなんだ! あいつがいない世界なんて、守る意味がない! 勇者なんてどうでもいい、今すぐ助けに行かせろ!」


アルヴィンが馬に跨ろうとした、その時だった。


「ダメですッ!」


シュナが雨泥の中に飛び出し、アルヴィンの足にしがみついた。

白い神官服が汚れるのも構わず、彼女はなりふり構わず彼を引き止めた。


「放せ、シュナ! 君には関係ないだろ!」

「関係あります! ……だって、私たちが一番知っているから!」

「何を知ってるって言うんだ!」

「あなたが……どれほど彼女を愛しているか、知っているからです!」


シュナの悲痛な叫びに、アルヴィンの動きが止まった。

彼女は雨に打たれながら、涙を流して彼を見上げていた。


「もし今、あなたが軍を離脱すれば……神殿はあなたを『堕ちた勇者』として認定します。世界中があなたの敵になる。……そうなれば、たとえミラさんを助け出せても、二人が帰る場所は永遠になくなってしまう!」


「……っ」


「彼女は、それを望みますか!? あなたの足枷になることを、あの子が喜ぶと思いますか!?」


正論だった。

あまりにも残酷で、逃げ場のない正論。

アルヴィンは歯を食いしばり、拳を握りしめた。

爪が皮膚に食い込み、血が滲む。


「……じゃあ、どうすればいい。……あいつが怖い思いをしているのに、僕だけぬくぬくと英雄ごっこを続けろと言うのか……ッ」


「違います」


クリオが近づき、アルヴィンの肩を強く掴んだ。

その手は温かく、力強かった。


「英雄になれ、アルヴィン。……誰にも文句を言わせない、最強の英雄に」


クリオは低い声で諭すように言った。


「魔王を討ち、この戦争を終わらせろ。……そうすれば、君は名実ともに世界を救った救世主だ。その時になれば、神殿も国も君の願いを無視できなくなる」


クリオは一瞬だけ視線をシュナに向け、またアルヴィンに戻した。


「いいか、よく聞け。……シュナ様は、勇者との結婚なんて望んでいない」

「え……?」


アルヴィンが驚いて顔を上げる。

シュナは濡れた髪をかき上げ、恥ずかしそうに、けれど決意を込めて微笑んだ。


「……はい。私、本当はずっと……クリオ様のことがお慕いしておりました」

「シュナ……?」

「だから、あなたとミラさんのことは、ずっと応援していたんです。……二人が結ばれれば、私も自由になれるから」


聖女の口から語られた、あまりにも人間くさい秘密。

それは、今の絶望的な状況において、唯一の「希望の共犯関係」を示す言葉だった。


「私たちはチームです、アルヴィン。……ミラさんを取り戻すための、共犯者です」


シュナはアルヴィンの手を両手で包み込んだ。


「今は耐えてください。……魔王軍を壊滅させ、安全な道を切り開いてから、堂々と彼女を迎えに行ってください。それが、彼女を一番安全に、確実に守る方法です」

「……あ」


アルヴィンの中から、衝動的な熱が引いていく。

代わりに、氷のように冷たく、鋭い決意が固まっていくのを感じた。


そうだ。

ミラは「連れ去られた」のだ。

ならば、僕がすべきことは、泣き叫んで探し回ることではない。

彼女を拐った魔族どもを根絶やしにし、この世界を彼女の足元にひざまずかせ、王のような力を持って彼女を奪還することだ。


「……わかった」


アルヴィンは静かに呟き、馬から降りた。

雨に濡れた金髪が、重く額にかかる。


「僕は、戦う。……魔王を殺し、戦争を終わらせる」


彼は顔を上げた。

そこに、かつての優しげな少年の瞳はなかった。

宿っているのは、目的のためなら手段を選ばない、冷徹な修羅の光。


「クリオ、シュナ。……協力してくれ。最短で終わらせる」

「ああ、任せろ。友よ」

「はい。……最後までお供します」


雨音だけが響く厩舎で、三人は誓いを交わした。

それは世界平和のためではない。

たった一人の少女を取り戻すための、悲壮な戦いの始まりだった。



――そして、季節は巡る。


春が過ぎ、夏が来て、枯れ葉舞う秋が往き、再び凍える冬が訪れた。


勇者アルヴィンの進撃は、狂気じみた速度だった。

彼は笑わなくなった。

慈悲も、迷いも捨てた。

ただひたすらに魔族を狩り、砦を落とし、魔王軍を北へ北へと追い詰めていく。


その姿は人々から「神速の英雄」と称えられ、同時に「氷の死神」と恐れられた。

すべては、愛する少女を取り戻すため。

その執念だけが、彼の剣を極限まで加速させていた。


そして、一年という月日が流れた。

北の空が、決戦の予感に赤く染まる頃。

運命の歯車は、再び大きく動き出そうとしていた。


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