凍てつく心
ドリス砦の執務室。
窓の外では、冷たい雨が降り続いていた。
部屋の中には、重苦しい沈黙が満ちている。
「……もう一度、言ってみろ」
アルヴィンの声は、震えていた。
怒りではない。恐怖に、震えていた。
目の前に跪く伝令兵は、蒼白な顔で再度、残酷な報告を口にした。
「は、はい……。王宮魔術師団より急報です。……西の山脈での採集任務中、正体不明の高位魔族が出現。護衛部隊の奮戦も虚しく……薬師見習いのミラ・ディオラ様が、連れ去られました」
「…………」
アルヴィンは、何も言わなかった。
ただ、手に持っていた羽ペンが、パキンと乾いた音を立てて折れた。
インクが指を汚し、黒い血のように滴り落ちる。
(ミラが……いない?)
思考が白く染まる。
魔族に連れ去られた。
その言葉の意味を理解しようとするたびに、内臓がねじ切れるような嘔吐感が襲う。
あの笑顔が。あの温もりが。
冷たく、残虐な魔族の手の中にある?
「……嘘だ」
アルヴィンはふらりと立ち上がった。
足元がおぼつかない。
世界が歪んで見える。
「嘘だ……ミラは、待ってるんだ。僕が帰るのを……」
「勇者様!」
伝令兵が悲鳴を上げる中、アルヴィンは扉を蹴破るようにして外へ出た。
雨が吹き込む。
冷たいしぶきが頬を打つが、何も感じない。
ただ、行かなければならない。
今すぐ、西へ。
世界の果てまで追いかけてでも、彼女を取り戻さなければならない。
†
厩舎へ向かうアルヴィンの足取りは、幽鬼のように不安定で、けれど恐ろしいほど速かった。
雨に濡れそぼりながら、彼は愛馬の元へ辿り着く。
「アルヴィン!」
背後から鋭い声が飛んだ。
振り返ると、そこには神殿騎士の正装に身を包んだクリオと、聖女シュナが立っていた。
二人の表情は硬い。
アルヴィンが何をしようとしているのか、察しているのだ。
「……どいてくれ」
アルヴィンは鞍を馬に投げ乗せ、振り返らずに言った。
その声には、感情が欠落していた。
「ミラが呼んでる。……行かないと」
「行ってどうするつもりだ」
クリオが静かに問う。
彼は腰の大剣に手をかけず、ただ眼鏡の奥の瞳で、友を射抜くように見つめていた。
「相手は高位魔族だ。居場所もわからん。……今の錯乱した君が飛び出して、闇雲に荒野を彷徨ったところで、彼女を見つけられる確率は万に一つもないぞ」
「それでも……ッ! ここでじっとしていろと言うのか!?」
アルヴィンが叫んだ。
初めて見せる、英雄の仮面が剥がれ落ちた、ただの少年の泣き顔だった。
「あいつは……ミラは、僕の全てなんだ! あいつがいない世界なんて、守る意味がない! 勇者なんてどうでもいい、今すぐ助けに行かせろ!」
アルヴィンが馬に跨ろうとした、その時だった。
「ダメですッ!」
シュナが雨泥の中に飛び出し、アルヴィンの足にしがみついた。
白い神官服が汚れるのも構わず、彼女はなりふり構わず彼を引き止めた。
「放せ、シュナ! 君には関係ないだろ!」
「関係あります! ……だって、私たちが一番知っているから!」
「何を知ってるって言うんだ!」
「あなたが……どれほど彼女を愛しているか、知っているからです!」
シュナの悲痛な叫びに、アルヴィンの動きが止まった。
彼女は雨に打たれながら、涙を流して彼を見上げていた。
「もし今、あなたが軍を離脱すれば……神殿はあなたを『堕ちた勇者』として認定します。世界中があなたの敵になる。……そうなれば、たとえミラさんを助け出せても、二人が帰る場所は永遠になくなってしまう!」
「……っ」
「彼女は、それを望みますか!? あなたの足枷になることを、あの子が喜ぶと思いますか!?」
正論だった。
あまりにも残酷で、逃げ場のない正論。
アルヴィンは歯を食いしばり、拳を握りしめた。
爪が皮膚に食い込み、血が滲む。
「……じゃあ、どうすればいい。……あいつが怖い思いをしているのに、僕だけぬくぬくと英雄ごっこを続けろと言うのか……ッ」
「違います」
クリオが近づき、アルヴィンの肩を強く掴んだ。
その手は温かく、力強かった。
「英雄になれ、アルヴィン。……誰にも文句を言わせない、最強の英雄に」
クリオは低い声で諭すように言った。
「魔王を討ち、この戦争を終わらせろ。……そうすれば、君は名実ともに世界を救った救世主だ。その時になれば、神殿も国も君の願いを無視できなくなる」
クリオは一瞬だけ視線をシュナに向け、またアルヴィンに戻した。
「いいか、よく聞け。……シュナ様は、勇者との結婚なんて望んでいない」
「え……?」
アルヴィンが驚いて顔を上げる。
シュナは濡れた髪をかき上げ、恥ずかしそうに、けれど決意を込めて微笑んだ。
「……はい。私、本当はずっと……クリオ様のことがお慕いしておりました」
「シュナ……?」
「だから、あなたとミラさんのことは、ずっと応援していたんです。……二人が結ばれれば、私も自由になれるから」
聖女の口から語られた、あまりにも人間くさい秘密。
それは、今の絶望的な状況において、唯一の「希望の共犯関係」を示す言葉だった。
「私たちはチームです、アルヴィン。……ミラさんを取り戻すための、共犯者です」
シュナはアルヴィンの手を両手で包み込んだ。
「今は耐えてください。……魔王軍を壊滅させ、安全な道を切り開いてから、堂々と彼女を迎えに行ってください。それが、彼女を一番安全に、確実に守る方法です」
「……あ」
アルヴィンの中から、衝動的な熱が引いていく。
代わりに、氷のように冷たく、鋭い決意が固まっていくのを感じた。
そうだ。
ミラは「連れ去られた」のだ。
ならば、僕がすべきことは、泣き叫んで探し回ることではない。
彼女を拐った魔族どもを根絶やしにし、この世界を彼女の足元にひざまずかせ、王のような力を持って彼女を奪還することだ。
「……わかった」
アルヴィンは静かに呟き、馬から降りた。
雨に濡れた金髪が、重く額にかかる。
「僕は、戦う。……魔王を殺し、戦争を終わらせる」
彼は顔を上げた。
そこに、かつての優しげな少年の瞳はなかった。
宿っているのは、目的のためなら手段を選ばない、冷徹な修羅の光。
「クリオ、シュナ。……協力してくれ。最短で終わらせる」
「ああ、任せろ。友よ」
「はい。……最後までお供します」
雨音だけが響く厩舎で、三人は誓いを交わした。
それは世界平和のためではない。
たった一人の少女を取り戻すための、悲壮な戦いの始まりだった。
†
――そして、季節は巡る。
春が過ぎ、夏が来て、枯れ葉舞う秋が往き、再び凍える冬が訪れた。
勇者アルヴィンの進撃は、狂気じみた速度だった。
彼は笑わなくなった。
慈悲も、迷いも捨てた。
ただひたすらに魔族を狩り、砦を落とし、魔王軍を北へ北へと追い詰めていく。
その姿は人々から「神速の英雄」と称えられ、同時に「氷の死神」と恐れられた。
すべては、愛する少女を取り戻すため。
その執念だけが、彼の剣を極限まで加速させていた。
そして、一年という月日が流れた。
北の空が、決戦の予感に赤く染まる頃。
運命の歯車は、再び大きく動き出そうとしていた。




