神殿で変わったのはあの子だけ
神殿は森の奥、苔むした石畳の小道の先にあった。陽の差さない場所にひっそりと建つその建物は、古びてはいたが不思議と空気が澄んでいる。
アルが扉を押すと、古い蝶番が軋んだ。
中は薄暗く、埃と冷気の匂いが混じっている。
高い天井には、裂けた布のような祈り旗がかすかに揺れていた。
「お待ちしておりました、勇者様」
不意に、静寂を破る声が響く。
ミラが目を向けると、奥から光を纏うような少女が歩いてきた。
白い法衣に金の刺繍。銀の髪がやわらかく揺れ、透き通るほど整った顔立ち。
少女の視線は、まっすぐアルに向けられていた。
「……え?」
ミラは思わず声を漏らす。
「その秘めたる光……わたくしにはわかります。さあ、覚醒の儀式を」
少女が優雅に微笑む。
アルは困惑しながらも、どこか引き寄せられるように頷いた。
「わかった」
――なにそれ。
ミラは唖然とする。
とてもじゃないが、今の状況が理解できない。
けれど、少女の真剣な表情と神殿全体に漂う張りつめた空気が、先ほどの言葉に現実味を与えている。
少女はアルの手を取り、祭壇の前まで導く。
その動作は静かで美しく、儀式という名に相応しい。
杖を持ち上げ、何かを唱える。空気が震え、風が巻き起こる。
杖先に光が集まり、白く輝く球体が現れる。
ミラは思わず息をのんだ。
光は暖かくもあり、どこか怖さを感じさせたからだ。
シュナが杖を振り下ろした瞬間、光が弾け、神殿全体を包み込んだ。
眩しさに思わず腕で目を覆う。
強い風が髪を乱し、体が小刻みに震える。
やがて光が弱まり、ミラは恐る恐る顔を上げた。
「アル!? 大丈夫!?」
「ミラ……僕、大丈夫」
その声を聞いて、ミラはほっと息を吐く――が。
視線の先にいたのは、見慣れた少年ではなかった。
光を反射する銀の髪。黄金の瞳。
体の輪郭が、ほのかに光を帯びて見える。
あまりの変化に、言葉を失った。
「ミラ、すごいんだ……体の奥から力が溢れてくる」
「……うそでしょ?」
冗談ではなく、そう聞くしかなかった。
確かに顔はアルだ。けれど、もう“アル”ではない気がした。
柔らかかった彼の表情が、今は不思議なほど落ち着いて見える。
「私はシュナと申します。勇者様をずっと、お待ちしておりました。」
少女――シュナと名乗った巫女が、うっとりとした表情でアルの両手を握る。
ミラの胸の奥が、ざらりとした。
理由もなく、彼女の手を引き離したくなる。
「一度、王都へお越しください。詳しいお話はそこで」
「そ、そうだね……」
シュナの微笑みを前に、アルがどこか浮ついた声を出す。
その様子が、どうにも面白くなかった。
そのとき、神殿の奥の扉が勢いよく開く。
白いローブに銀の紋章を縫い込んだ老女と、青銀の鎧を着た青年が現れた。
背筋が伸びたその姿は、見慣れた村人とはまるで違う。
「シュナ様、何事ですか!」
青年が駆け寄り、老女が険しい目でアルを見る。
「お婆様、クリオ、勇者様が現れたのです!」
「勇者……?」
「ほう、それはまた……」
老女は興味深げに目を細め、青年――クリオと呼ばれた男は跪いた。
「確かに覚醒の気配がある……まさか本物とは」
その言葉を聞きながら、ミラは現実感を失っていく。
何が起きているのか分からない。
でも――その空間だけが、神聖な何かに満たされている気がした。
「申し遅れました、勇者様。儂はジアナ。こちらがクリオ。神殿の者です」
「えっ、あ、はい。アルヴィンです」
アルが慌てて頭を下げる。
ミラは唖然としたまま立っていたが、ふと気が付く。
オレンジ色の夕暮れがあたりを照らしている。
そろそろ帰らないと、夕食の支度が間に合わない。
「アル、私はそろそろ帰るけど、どうする?」
その一言で、場の空気が少し緩んだ。
シュナがミラの方へ視線を向け、静かに微笑む。
「あら、あなた様は? お急ぎでしたらお一人でお帰りください」
――は?
その言葉に、ミラの眉がぴくりと動く。
柔らかな微笑みの奥に、わずかな敵意を感じた気がした。
「そう、そういうこと? なら遠慮なく帰らせてもらうわ。じゃあね、勇者様!」
ミラはくるりと背を向ける。
「あ、待って!」
アルは慌ててシュナの手を離し、階段を駆け降りてくる。
ミラは憤りながらも立ち止まり、彼を見やった。
その髪と瞳は、もう完全に“普通の少年”ではなかった。
「ごめん、今日は帰るよ。ミラと一緒に。明日また来るね」
シュナは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに微笑みに戻る。
「では、わたくしもお供いたします。勇者と共に在るのが巫女の務めです」
「勝手に決めるでない、シュナ」
ジアナがシュナを制止する。
ミラはもう、何も言わなかった。
アルの手を取って、そのまま出口へ向かう。
「行くわよ」
「あ、ミラ……手……」
「何?」
「繋いでくれるなんて、久しぶりだね」
その言葉に、ミラの手が一瞬止まる。
アルの指先が、かすかに震えている。
さっきまでの堂々とした姿とは違う――いつもの彼だ。
「……もう、照れてる場合じゃないでしょ」
そう言って手を振り払うが、胸の奥が少しだけ熱くなった。
神殿を出た瞬間、風の音が変わる。
空気がざらつき、地の底から微かな地鳴りが響いた。
夕暮れの光が揺らめき、赤い影が村の方角を染めていく。
ミラは立ち止まり、アルと目を合わせた。
彼の金の瞳が、かすかに光を帯びている。
――何かが起きようとしている。
それだけは、確かに感じた。




