雨の境界線
王都に降り注ぐ雨は、夜が更けるにつれて勢いを増していた。
石畳を叩く激しい雨音が、街の喧騒も、人々の寝息も、すべてを冷たく塗り潰していく。
その雨脚に紛れるように、一つの影が北門を目指して歩いていた。
深くフードを被った、小柄な人影。
その足取りは重く、けれど迷いはなかった。
「……っ」
ミラは泥濘んだ路地裏を踏みしめ、小さく息を吐いた。
白い呼気が、闇に溶けて消える。
不思議だった。
これほどの冷たい雨に打たれているのに、身体の芯が凍えることがない。
以前のミラなら、今頃は寒さで歯を鳴らしていただろう。
けれど今の身体は、この冷気を不快なものではなく、まるで肌に馴染むベールのように受け入れている。
(……ああ、本当に)
ミラはフードの下で、自嘲気味に口元を歪めた。
(私はもう、人じゃないんだ)
鋭敏になった聴覚が、遥か遠くの見張り兵の足音や、軒下で雨宿りをする野良猫の呼吸音まで拾ってしまう。
闇夜だというのに、視界は昼間のように鮮明だ。
雨粒の一滴一滴が、スローモーションのように見える。
その優れた五感が、冷酷な現実を突きつけていた。
自分はもう、「こちら側」の住人ではないのだと。
†
王都の北門は、巨大な鉄格子と堅牢な石壁によって閉ざされていた。
夜間は通行禁止。
警備兵たちが松明を掲げ、厳しい目で周囲を監視している。
本来なら、ここを通ることはできない。
けれど、今のミラには、シアンから託された「王宮魔術師団の通行手形」と、もう一つ――魔族としての「力」があった。
(……気配を、消す)
ミラは深く息を吸い込み、体内で渦巻く冷たい魔力を循環させた。
教わったわけではない。
けれど、本能がその方法を知っていた。
自分の存在を霧のように薄め、闇と同化させる術を。
ミラは音もなく石畳を蹴った。
人間離れした跳躍力で、高い城壁の影へと飛び移る。
警備兵の頭上を、黒い風となって駆け抜ける。
「ん? 今、なにか通ったか?」
「いや……ただの風だろう。この雨だ、気にするな」
兵士たちの会話が、足下で遠ざかる。
誰にも気づかれない。
かつては運動音痴で、アルに手を引かれて走っていた私が、今は影のように夜を駆けている。
城壁を越え、王都の外へと着地する。
泥の跳ねる音すら立てず、ミラは荒野へと降り立った。
そこで初めて、ミラは足を止めた。
ゆっくりと振り返る。
雨に煙る巨大な城壁の向こうに、王都の灯りがぼんやりと滲んで見えた。
あの中に、アルとの思い出が詰まっている。
彼が用意してくれた家。
通い慣れた学園。
そして、いつか彼と二人で歩くはずだった、光あふれる未来。
「……さよなら」
ミラは雨に濡れた唇で、音のない別れを告げた。
もう二度と、あの門をくぐることはない。
アルヴィンが守る「光の世界」と、ミラが生きる「闇の世界」。
その境界線は今、永遠に引かれたのだ。
ズキン、と胸が痛む。
魔族の体になっても、心の痛みだけは人間だった頃と同じように、鋭く、熱く、涙を誘う。
「……うっ、ぐ……」
ミラはその場にうずくまり、泥だらけの手で顔を覆った。
アルに会いたい。
温かい腕に抱きしめられたい。
「大丈夫だ」と、あの優しい声で囁いてほしい。
けれど、その願いこそが彼を殺す毒になる。
(泣くな。……泣いちゃだめ)
ミラは唇を噛み切り、血の味で理性を繋ぎ止めた。
お腹に手を当てる。
そこには、彼が残してくれた、たった一つの確かな「繋がり」がある。
「パパはね、すごい人なのよ」
まだ膨らみもしないお腹に向かって、震える声で語りかける。
「世界で一番強くて、優しくて……とっても格好いい勇者様なの」
雨音が激しくなり、ミラの声をかき消していく。
「ママは遠くへ行くけど……パパはずっと、光の中で輝いているわ。だから、あなたも誇りに思ってね」
それは、子供への言葉であり、自分自身への言い聞かせだった。
私が消えることで、彼は「英雄」であり続けられる。
私の犠牲は、彼への最大の愛の証明なのだ。
「……行こう」
ミラは立ち上がった。
フードを目深に被り直し、漆黒の髪を隠す。
濡れた泥を踏みしめ、北へ――魔物が跋扈する荒野へと背を向ける。
一歩、また一歩。
歩みを進めるたびに、王都の灯りが遠ざかり、闇が濃くなっていく。
背後には、ただ冷たい雨だけが降り注いでいた。
愛する人が住む街を守るように、そして、去りゆく罪人の足跡を消し去るように。
†
その数日後。
前線基地である「ドリス砦」に、一羽の早馬が駆け込んだ。
泥まみれの伝令兵が、勇者アルヴィンの執務室の扉を叩く。
部屋の中では、アルヴィンが地図を広げ、次の作戦を練っていた。
その横顔は精悍で、自信に満ちた「英雄」のものだった。
「報告します! 王都より、緊急の知らせが!」
兵士の切羽詰まった声に、アルヴィンが顔を上げる。
「王都から? ……魔王軍の残党でも出たか?」
「いえ、そうではなく……」
兵士は言い淀み、青ざめた顔で言葉を継いだ。
「王宮魔術師団より、悲報です。……西の山脈での採集任務中、正体不明の高位魔族が出現。護衛部隊が交戦しましたが……」
「……被害は?」
嫌な予感が、アルヴィンの背筋を駆け上がる。
西の山脈。採集任務。
それは、彼が一番大切に想っている少女が、参加していたはずの任務だ。
兵士は震える声で、決定的な言葉を口にした。
「薬師見習いの、ミラ・ディオラ様が……魔族に拉致されました」
「――――は?」
アルヴィンの手から、羽ペンが滑り落ちた。
カツン、と乾いた音が、凍りついた部屋に響き渡る。
「ら、ち……? ミラが……?」
「はい。……現場には大量の氷漬けにされた魔獣の死骸と、ミラ様のものと思われる千切れた衣服の一部が……。シアン様のご報告によれば、『連れ去られた』と……」
世界が、音を立てて崩れ落ちていく。
地図の上の作戦も、魔王討伐の大義も、すべてが白く霞んで消えていく。
「……嘘だ」
アルヴィンは机に手をつき、ふらりと立ち上がった。
その黄金の瞳から、理性の光が急速に失われていく。
「嘘だッ!!」
勇者の絶叫が、砦の石壁を震わせた。
それは、世界を救う英雄の声ではなく、大切な半身をもぎ取られた獣の慟哭だった。
外では、あの日ミラを見送ったのと同じような、冷たい雨が降り始めていた。
その雨は、二人の運命が決定的に引き裂かれたことを、静かに、残酷に告げていた。




