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勇者と幼なじみの物語―あざと勇者の愛が重すぎる―  作者: 華乃ぽぽ
5章

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戻れない朝


意識の底から浮上する時、最初に感じたのは「寒さ」ではなく、泥の中に沈んでいるような重たい倦怠感だった。

まるで、身体の中身が別の何かに作り変えられてしまったかのように、指先一つ動かすのにも億劫さを感じる。


(……私、どうしたんだっけ)


ぼんやりとした思考の中で、記憶の糸を手繰り寄せる。

山岳地帯の冷たい風。

闇の中から現れた、赤い目をした無数の魔獣たち。

そして――マリーさんが襲われそうになった瞬間、私の中から溢れ出した、黒くて冷たい奔流。


「っ!」


ミラは弾かれたように目を開けた。

ガバッ、と上半身を起こそうとするが、身体が思うように動かず、ベッドの上で無様にバランスを崩す。


「……おっと。まだ動くなよ。身体が悲鳴を上げてる」


部屋の隅から、呆れたような、それでいて落ち着いた声が響いた。

ミラが視線を向けると、窓際の椅子に深く腰掛けたシアンが、読みかけの本を閉じてこちらを見ていた。

いつもの王宮魔術師のローブではなく、飾り気のない黒いシャツ姿だ。

その表情はいつも通り涼しげで、事態の深刻さを感じさせない。


「シアン……教官。ここは……?」

「俺が王都の外れに持っている隠れ家だ。……安心しろ、ここには俺とお前以外、誰もいない」


シアンは立ち上がり、サイドテーブルの水差しからグラスに水を注ぐと、ミラに放り投げた――のではなく、手渡した。

普段なら投げて寄越しそうな彼が、今は少しだけ慎重に、壊れ物を扱うようにグラスを握らせてくる。


「……みんなは? マリーさんたちは、無事なの?」

「ああ。全員無事だ。かすり傷一つない」


シアンは淡々と答えた。


「お前が放った氷塊は、魔獣だけを正確に凍らせていた。……皮肉なほど見事な魔術制御だったよ。褒めてやる」


「よかった……」


ミラは心底安堵し、長く息を吐いた。

誰も死ななかった。守れたのだ。

その事実に胸を撫で下ろし、グラスを置こうとして――ふと、自分の手に違和感を覚えた。


視界の端に映る、自分の髪。

肩からサラリと流れ落ちるその髪の色が、おかしい。


(……え?)


かつては、太陽の光を溶かしたような、明るい黄金色だったはずだ。

アルが「一番好きな色だ」と褒めてくれた、自慢の髪。

それが今、ランプの微かな光を吸い込むような、濡れた烏の羽色――漆黒に変わっている。


「……あ」


ミラは呆然と、自分の髪を掴んだ。

黒い。どこまで手繰り寄せても、根元まで全てが黒い。

心臓が早鐘を打つ。

嫌な予感に背中を押されるように、ミラはベッドから這い出した。

足がもつれるのも構わず、壁に掛けられた姿見の前へとよろめきながら進む。


「……見ないほうがいいぞ」


シアンが短く忠告したが、ミラはそれを無視して鏡の前に立った。


「……嘘」


鏡の中にいたのは、ミラであって、ミラではなかった。

夜闇のような黒髪。

そして、白磁のように蒼白な肌の中で、鮮血のように赤く、妖しく輝く瞳。


そこにいるのは、人間ではない。

伝承やお伽噺の中で、勇者に討ち払われるべき敵――「魔族」そのものの姿だった。


「いや……いやぁ……ッ!」


ミラは鏡を叩き、後ずさった。

夢だ。これは悪夢だ。

目を覚ませば、いつもの金髪碧眼の私に戻っているはずだ。

何度も瞬きをし、目をこする。

けれど、何度見ても、鏡の中の赤い瞳は、絶望的な事実を映し出し続けている。


「う、うあああぁぁ……ッ!」


ミラはその場に崩れ落ち、顔を覆って泣き叫んだ。

終わった。

何もかもが終わってしまった。

この姿では、もうアルの隣にはいられない。

彼が命を懸けて守ろうとしている世界で、私は「排除されるべき異物」になってしまったのだ。


シアンは、泣き叫ぶミラに駆け寄ることも、抱きしめることもしなかった。

ただ、壁に寄りかかり、腕を組んでその姿を見下ろしている。

その灰色の瞳の奥に、押し殺したような痛々しい色が揺れていることに、ミラは気づかない。


「……泣いても、その色は戻らんぞ」


しばらくして、シアンが静かに告げた。

冷たい言葉だが、そこには現実を直視させるための響きがあった。


「シアン……私、私……っ! アルに、会いたい……っ! でも、こんな姿じゃ……!」

「会えるわけがないだろう」


シアンは冷徹に、事実を突きつけた。


「その姿で勇者の前に出ればどうなる? 彼は迷うだろう。苦しむだろう。……そして最後には、勇者としての責務と、お前への愛の間で引き裂かれる」


ミラは息を呑んだ。

想像してしまった。

私を見て、絶望するアルの顔を。

私を守るために、世界中を敵に回して戦い、ボロボロになっていく彼の姿を。

そんなこと、させられるわけがない。


「……じゃあ、私はどうすればいいの? 死ねばいいの?」

「死なせるために助けたと思ってるのか」


シアンはため息をつき、しゃがみこんでミラと視線を合わせた。


「……選択肢は一つだ。魔界へ行け」

「え……」


「北の果て、俺の親父――魔王ルワージュの元へ。あそこなら、その黒髪も赤い瞳も『高貴な証』として歓迎される。誰に追われることもなく、腹の子を産み、育てることができる」


「でも……っ! アルは? 黙って消えたら、彼はきっと探しに来るわ。私が死んだと思ったら、彼は壊れてしまうかもしれない」

「そこでだ、ミラ。……俺とお前で、一つの『嘘』をつく」


シアンは眼鏡の位置を直し、策士の顔で言った。


「『採集任務中、高位の魔族が現れた。ミラ・ディオラは魔族に呪いをかけられ、そのまま連れ去られた』とな」

「……連れ去られた?」

「そうだ。お前は自分の意志で去ったんじゃない。『誘拐された』ことにするんだ」


ミラは目を見開いた。

誘拐。被害者。


「そうすれば、アルヴィンはお前を恨まない。……むしろ、『魔族に囚われた悲劇のヒロイン』として、お前を救い出すために全力を尽くすだろう」


完璧で、そして残酷な筋書きだった。

アルに嘘をつく。

彼に、「ミラは生きている」という希望を与えながら、永遠に手の届かない場所に身を隠す。


「……そうすれば、アルは私を探してくれるのね?」

「ああ。間違いなくな」

「でも……見つかっちゃいけない」


ミラは自身の黒髪を握りしめ、震える声で呟いた。


「もし、アルが今の私を見つけたら……彼は『魔族になった私』ごと受け入れようとするわ。勇者を辞めてでも、私を守ろうとする」

「……あいつなら、やりかねんな」

「そんなことさせられない。……彼には、光の中にいてほしいの」


ミラは顔を上げた。

赤い瞳から涙が溢れるが、その光には強い決意が宿っていた。


「だから……私、決めたわ」


ミラはお腹に手を当て、シアンを見据えた。


「私は、アルのために消える。……魔族に拐われたフリをして、二度と彼の前には現れない」

「……本気か?」


シアンの眉がピクリと動く。


「ほとぼりが冷めたら会うとか、そういう甘い話じゃないぞ。……一生だ。あいつは一生お前を探し続ける。お前は一生、あいつの姿を見ることもできない」

「ええ。……それが、私にできる唯一の『愛し方』だから」


もし再会してしまえば、アルを破滅させる。

彼を英雄のままでいさせるためには、私は「囚われの幼なじみ」という幻影のまま、彼の記憶の中で生き続けるしかない。


「……そうか」


シアンは短く呟き、立ち上がった。

一瞬だけ、その表情が苦しげに歪んだように見えたが、すぐにいつもの飄々とした顔に戻る。


「わかった。なら、俺も共犯者になってやるよ」


シアンは部屋の隅にあった旅行鞄を放った。


「中には旅に必要なものと、魔界への地図、そしてルワージュへの紹介状が入っている。……今すぐ発て。夜明け前なら、誰にも見られずに王都を出られる」


ミラは着替えると、フードを目深に被り、屋敷の裏口へと向かった。

外は冷たい雨が降っていた。

この雨が、私の足跡も、人間だった頃の私の匂いも、すべて洗い流してくれるだろう。


「……シアン。今まで、ありがとう」


ミラが振り返ると、シアンは壁に寄りかかり、腕を組んでこちらを見ていた。


「礼には及ばん。……俺も、可愛い従妹とお別れするのは寂しいからな」


軽口のように言うが、その灰色の瞳は静かに凪いでいた。

彼は一歩踏み出し、何かしようとして――止めた。

伸ばしかけた手は、ポケットの中にしまわれる。


「行け。……元気でな、ミラ」


その言葉は、彼なりの精一杯の別れの言葉であり、秘めた想いの決着だった。

ミラは一度だけ深く頭を下げ、雨の中へと踏み出した。

冷たい雨が頬を打つ。

もう二度と、あの日々には戻れない。

私は今日から、勇者の敵――魔族の世界の住人になる。


(愛してる、アル。……だから、さようなら)


闇夜に紛れ、黒髪の少女は姿を消した。

彼女がいた場所には、誰にも届かない愛の残り香だけが、雨に濡れて漂っていた。


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