戻れない朝
意識の底から浮上する時、最初に感じたのは「寒さ」ではなく、泥の中に沈んでいるような重たい倦怠感だった。
まるで、身体の中身が別の何かに作り変えられてしまったかのように、指先一つ動かすのにも億劫さを感じる。
(……私、どうしたんだっけ)
ぼんやりとした思考の中で、記憶の糸を手繰り寄せる。
山岳地帯の冷たい風。
闇の中から現れた、赤い目をした無数の魔獣たち。
そして――マリーさんが襲われそうになった瞬間、私の中から溢れ出した、黒くて冷たい奔流。
「っ!」
ミラは弾かれたように目を開けた。
ガバッ、と上半身を起こそうとするが、身体が思うように動かず、ベッドの上で無様にバランスを崩す。
「……おっと。まだ動くなよ。身体が悲鳴を上げてる」
部屋の隅から、呆れたような、それでいて落ち着いた声が響いた。
ミラが視線を向けると、窓際の椅子に深く腰掛けたシアンが、読みかけの本を閉じてこちらを見ていた。
いつもの王宮魔術師のローブではなく、飾り気のない黒いシャツ姿だ。
その表情はいつも通り涼しげで、事態の深刻さを感じさせない。
「シアン……教官。ここは……?」
「俺が王都の外れに持っている隠れ家だ。……安心しろ、ここには俺とお前以外、誰もいない」
シアンは立ち上がり、サイドテーブルの水差しからグラスに水を注ぐと、ミラに放り投げた――のではなく、手渡した。
普段なら投げて寄越しそうな彼が、今は少しだけ慎重に、壊れ物を扱うようにグラスを握らせてくる。
「……みんなは? マリーさんたちは、無事なの?」
「ああ。全員無事だ。かすり傷一つない」
シアンは淡々と答えた。
「お前が放った氷塊は、魔獣だけを正確に凍らせていた。……皮肉なほど見事な魔術制御だったよ。褒めてやる」
「よかった……」
ミラは心底安堵し、長く息を吐いた。
誰も死ななかった。守れたのだ。
その事実に胸を撫で下ろし、グラスを置こうとして――ふと、自分の手に違和感を覚えた。
視界の端に映る、自分の髪。
肩からサラリと流れ落ちるその髪の色が、おかしい。
(……え?)
かつては、太陽の光を溶かしたような、明るい黄金色だったはずだ。
アルが「一番好きな色だ」と褒めてくれた、自慢の髪。
それが今、ランプの微かな光を吸い込むような、濡れた烏の羽色――漆黒に変わっている。
「……あ」
ミラは呆然と、自分の髪を掴んだ。
黒い。どこまで手繰り寄せても、根元まで全てが黒い。
心臓が早鐘を打つ。
嫌な予感に背中を押されるように、ミラはベッドから這い出した。
足がもつれるのも構わず、壁に掛けられた姿見の前へとよろめきながら進む。
「……見ないほうがいいぞ」
シアンが短く忠告したが、ミラはそれを無視して鏡の前に立った。
「……嘘」
鏡の中にいたのは、ミラであって、ミラではなかった。
夜闇のような黒髪。
そして、白磁のように蒼白な肌の中で、鮮血のように赤く、妖しく輝く瞳。
そこにいるのは、人間ではない。
伝承やお伽噺の中で、勇者に討ち払われるべき敵――「魔族」そのものの姿だった。
「いや……いやぁ……ッ!」
ミラは鏡を叩き、後ずさった。
夢だ。これは悪夢だ。
目を覚ませば、いつもの金髪碧眼の私に戻っているはずだ。
何度も瞬きをし、目をこする。
けれど、何度見ても、鏡の中の赤い瞳は、絶望的な事実を映し出し続けている。
「う、うあああぁぁ……ッ!」
ミラはその場に崩れ落ち、顔を覆って泣き叫んだ。
終わった。
何もかもが終わってしまった。
この姿では、もうアルの隣にはいられない。
彼が命を懸けて守ろうとしている世界で、私は「排除されるべき異物」になってしまったのだ。
シアンは、泣き叫ぶミラに駆け寄ることも、抱きしめることもしなかった。
ただ、壁に寄りかかり、腕を組んでその姿を見下ろしている。
その灰色の瞳の奥に、押し殺したような痛々しい色が揺れていることに、ミラは気づかない。
「……泣いても、その色は戻らんぞ」
しばらくして、シアンが静かに告げた。
冷たい言葉だが、そこには現実を直視させるための響きがあった。
「シアン……私、私……っ! アルに、会いたい……っ! でも、こんな姿じゃ……!」
「会えるわけがないだろう」
シアンは冷徹に、事実を突きつけた。
「その姿で勇者の前に出ればどうなる? 彼は迷うだろう。苦しむだろう。……そして最後には、勇者としての責務と、お前への愛の間で引き裂かれる」
ミラは息を呑んだ。
想像してしまった。
私を見て、絶望するアルの顔を。
私を守るために、世界中を敵に回して戦い、ボロボロになっていく彼の姿を。
そんなこと、させられるわけがない。
「……じゃあ、私はどうすればいいの? 死ねばいいの?」
「死なせるために助けたと思ってるのか」
シアンはため息をつき、しゃがみこんでミラと視線を合わせた。
「……選択肢は一つだ。魔界へ行け」
「え……」
「北の果て、俺の親父――魔王ルワージュの元へ。あそこなら、その黒髪も赤い瞳も『高貴な証』として歓迎される。誰に追われることもなく、腹の子を産み、育てることができる」
「でも……っ! アルは? 黙って消えたら、彼はきっと探しに来るわ。私が死んだと思ったら、彼は壊れてしまうかもしれない」
「そこでだ、ミラ。……俺とお前で、一つの『嘘』をつく」
シアンは眼鏡の位置を直し、策士の顔で言った。
「『採集任務中、高位の魔族が現れた。ミラ・ディオラは魔族に呪いをかけられ、そのまま連れ去られた』とな」
「……連れ去られた?」
「そうだ。お前は自分の意志で去ったんじゃない。『誘拐された』ことにするんだ」
ミラは目を見開いた。
誘拐。被害者。
「そうすれば、アルヴィンはお前を恨まない。……むしろ、『魔族に囚われた悲劇のヒロイン』として、お前を救い出すために全力を尽くすだろう」
完璧で、そして残酷な筋書きだった。
アルに嘘をつく。
彼に、「ミラは生きている」という希望を与えながら、永遠に手の届かない場所に身を隠す。
「……そうすれば、アルは私を探してくれるのね?」
「ああ。間違いなくな」
「でも……見つかっちゃいけない」
ミラは自身の黒髪を握りしめ、震える声で呟いた。
「もし、アルが今の私を見つけたら……彼は『魔族になった私』ごと受け入れようとするわ。勇者を辞めてでも、私を守ろうとする」
「……あいつなら、やりかねんな」
「そんなことさせられない。……彼には、光の中にいてほしいの」
ミラは顔を上げた。
赤い瞳から涙が溢れるが、その光には強い決意が宿っていた。
「だから……私、決めたわ」
ミラはお腹に手を当て、シアンを見据えた。
「私は、アルのために消える。……魔族に拐われたフリをして、二度と彼の前には現れない」
「……本気か?」
シアンの眉がピクリと動く。
「ほとぼりが冷めたら会うとか、そういう甘い話じゃないぞ。……一生だ。あいつは一生お前を探し続ける。お前は一生、あいつの姿を見ることもできない」
「ええ。……それが、私にできる唯一の『愛し方』だから」
もし再会してしまえば、アルを破滅させる。
彼を英雄のままでいさせるためには、私は「囚われの幼なじみ」という幻影のまま、彼の記憶の中で生き続けるしかない。
「……そうか」
シアンは短く呟き、立ち上がった。
一瞬だけ、その表情が苦しげに歪んだように見えたが、すぐにいつもの飄々とした顔に戻る。
「わかった。なら、俺も共犯者になってやるよ」
シアンは部屋の隅にあった旅行鞄を放った。
「中には旅に必要なものと、魔界への地図、そしてルワージュへの紹介状が入っている。……今すぐ発て。夜明け前なら、誰にも見られずに王都を出られる」
ミラは着替えると、フードを目深に被り、屋敷の裏口へと向かった。
外は冷たい雨が降っていた。
この雨が、私の足跡も、人間だった頃の私の匂いも、すべて洗い流してくれるだろう。
「……シアン。今まで、ありがとう」
ミラが振り返ると、シアンは壁に寄りかかり、腕を組んでこちらを見ていた。
「礼には及ばん。……俺も、可愛い従妹とお別れするのは寂しいからな」
軽口のように言うが、その灰色の瞳は静かに凪いでいた。
彼は一歩踏み出し、何かしようとして――止めた。
伸ばしかけた手は、ポケットの中にしまわれる。
「行け。……元気でな、ミラ」
その言葉は、彼なりの精一杯の別れの言葉であり、秘めた想いの決着だった。
ミラは一度だけ深く頭を下げ、雨の中へと踏み出した。
冷たい雨が頬を打つ。
もう二度と、あの日々には戻れない。
私は今日から、勇者の敵――魔族の世界の住人になる。
(愛してる、アル。……だから、さようなら)
闇夜に紛れ、黒髪の少女は姿を消した。
彼女がいた場所には、誰にも届かない愛の残り香だけが、雨に濡れて漂っていた。




