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勇者と幼なじみの物語―あざと勇者の愛が重すぎる―  作者: 華乃ぽぽ
5章

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禁忌の解放



王都から馬車で西へ二日。

険しい山岳地帯に位置する「ルナリア山脈」は、季節外れの冷たい霧に包まれていた。

切り立った崖と、針葉樹の深い森。

人が踏み入ることを拒むような荒々しい自然の中に、一行の足音が静かに響く。


「うう、寒っ……。王都とは気温が全然違うねぇ」


隣を歩く先輩薬師のマリーが、白い息を吐きながら身震いした。

彼女の言う通り、標高の高いこの場所は、春だというのに冬のような寒気が支配している。


「大丈夫ですか、マリーさん? これ、よかったら使ってください」


ミラは荷物から携帯用のカイロ(魔石で熱を帯びる小さな石)を取り出し、手渡した。


「あら、ありがとミラちゃん! 気が利くわねぇ。……あんた、顔色は大丈夫? ここ数日、少し優れないみたいだけど」

「え、ええ。ただの寝不足ですから、平気です」


ミラはマフラーに顔を埋め、曖昧に微笑んだ。

平気なわけがない。

下腹部には、常に微かな違和感と重みがある。つわりはまだ軽いが、身体の内側で何かが確実に変化している感覚が、一歩ごとに不安を煽る。


(……赤ちゃん。寒くないかな)


誰にも気づかれないように、厚手のコートの上からそっとお腹を撫でる。

この小さな命を守るために、私はどうするべきなのか。

シアンから突きつけられた二つの選択肢――「公爵家の籠の鳥」か、「魔界への亡命」か。

その答えはまだ、深い霧の中にある。


「おい、遅れているぞ。日が暮れる前にキャンプ地に着きたい」


先頭を歩くシアンの声が、冷ややかに響いた。

彼は王宮魔術師の白いローブの上に、厚手の灰色のマントを羽織っている。

その背中は頼もしいが、時折ミラに向けられる視線には、従兄としての焦燥と警告が含まれていた。


『いいか、絶対に無理はするな。……魔力を使えば、お前の中の均衡が崩れる』


出発前、耳元で囁かれた言葉が呪いのように蘇る。

ミラは強く唇を噛み締め、重い足を前へと踏み出した。



目的の「月光草」が群生するエリアは、山の中腹にある開けた台地だった。

到着した頃には、太陽は西の峰に沈みかけ、空はどす黒い紫色に染まり始めていた。


「よし、今日はここで野営だ。結界を張る準備を急げ」


シアンの指示で、同行していた数名の王宮魔術師たちが動き出す。

薬師たちはテントを設営し、夕食の準備に取り掛かった。


焚き火の暖かな光が、闇に沈みゆく森の中に小さな安らぎの空間を作り出す。

スープの香りが漂い始め、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。


「ふぅ……やっと一息つけるね」


マリーが切り株に腰を下ろし、温かいスープを啜る。

ミラもその隣に座り、火を見つめた。

パチパチと薪が爆ぜる音が、遠い日のラダー村の夜を思い出させる。


(アルも今頃、どこかで野営してるのかな)


星も見えない曇り空を見上げる。

会いたい。

もし今、隣に彼がいてくれたら、この凍えるような不安も溶けてなくなるのに。


「……ミラ」


不意に、シアンが近づいてきた。

彼は他の者には聞こえないように、声を潜めて告げた。


「少し、席を外す」

「え? どこへ?」

「結界の魔力反応に乱れがある。この付近の地脈が不安定なようだ。……部下を連れて、周辺の調査と補強に行ってくる」


シアンは森の奥、闇が濃くなっている方角を顎で示した。


「すぐに戻るが……俺がいない間、結界からは一歩も出るなよ。何があってもだ」

「わかっています。……気をつけて」


シアンは短く頷くと、二人の部下を連れて闇の中へと消えていった。

残されたのは、ミラを含む非戦闘員の薬師五名と、結界維持のために残った若い魔術師一名だけ。


静寂が戻る。

焚き火の音だけが響く中、ミラは言いようのない胸騒ぎを覚えた。

風の音が変わった気がする。

木々がざわめき、まるで何かを恐れているかのように震えている。


(……嫌な予感がする)


ミラは立ち上がり、周囲を見渡した。

結界の薄い光の膜が、キャンプ地をドーム状に覆っている。

安全なはずだ。王宮魔術師が張った結界は、そう簡単に破られるものではない。


だが。


バヂィッ――!!


突然、耳障りな破裂音が響いた。

同時に、結界のドームに亀裂が走り、光の粒子となって霧散していく。


「なっ……結界が!?」


残っていた若い魔術師が悲鳴を上げる。

彼が杖を構えるより早く、森の闇が膨れ上がった。


グルルルル……。


低く、腹の底に響くような獣の唸り声。

一つではない。十、二十……無数の殺気が、全方位からキャンプ地を取り囲んでいる。


「きゃあぁぁっ!!」

「ま、魔獣だ!!」


薬師たちがパニックになり、逃げ惑う。

闇の中から躍り出てきたのは、狼に似た魔獣の群れだった。

だが、そのサイズは牛ほどもあり、瞳は狂ったように赤く輝いている。

黒牙狼ブラックファング」。

集団で獲物を狩る、残忍な捕食者たちだ。


「くそっ、シアン様たちが離れた隙を狙って……!」


若い魔術師が炎の魔法を放つが、素早い動きで躱される。

一匹が彼に飛びかかり、その鋭い牙が魔術師の腕を食いちぎった。


「ぎゃあぁぁぁっ!!」

「逃げて! みんな、森へ逃げて!」


ミラは叫び、マリーの手を引いて走り出した。

戦える者はいない。逃げるしかない。

けれど、魔獣たちの足は速い。

あっという間に退路を塞がれ、薬師たちは焚き火を中心にして追い詰められていく。


「い、いや……来ないでぇ!」


マリーが転倒した。

その目の前に、巨大な黒牙狼が涎を垂らして迫る。

鋭い爪が振り上げられ、マリーの喉笛を切り裂こうとする。


(――死ぬ)


その光景が、スローモーションのように見えた。

マリーの絶望に染まった顔。

振り下ろされる爪。

そして、かつてラダー村で見た、炎と悲鳴の記憶がフラッシュバックする。


『何もできずに、失うのか?』


心の中の声が問う。

大切な人を守れず、ただ震えていたあの日と同じ過ちを繰り返すのか?


(……嫌だ)


ミラの手が、無意識に前に伸びた。


『魔術は使うな』

『使えば、お前は人ではなくなる』


シアンの警告が、アルとの約束が、頭の中で警鐘を鳴らす。

けれど、目の前で友人が死ぬのをただ見ていることなんて、できるわけがなかった。


「……やめてぇぇぇッ!!」


ミラは絶叫した。

その瞬間。


ドクンッ!!


心臓だけでなく、下腹部の奥底――小さな命が宿るその場所から、灼熱の奔流が噴き出した。

それは、今までのミラの魔力とは比べ物にならない、桁外れのエネルギーだった。

お腹の子が持つ「魔王の血」と「勇者の血」。

その二つの力がミラの感情に呼応し、制御のリミッターを粉々に破壊したのだ。


カッッッ――!!


ミラの掌から、黒に近い濃紺の冷気が爆発的に放出された。

大気が凍りつく。

マリーに襲いかかっていた魔獣は、悲鳴を上げる暇もなく一瞬で巨大な氷柱の中に閉じ込められた。


「え……?」


マリーが腰を抜かし、凍りついた魔獣を見上げる。

だが、終わりではない。

力の奔流は止まらない。

ミラの身体から溢れ出した黒い冷気は、吹雪となってキャンプ地全体を飲み込んだ。


「グルッ!?」

「ギャウッ!」


周囲を取り囲んでいた数十匹の魔獣たちが、次々と氷の彫像へと変わっていく。

絶対零度の地獄。

焚き火の炎さえもが凍りつき、静寂な死の世界が広がる。


「……はぁ、はぁ、はぁ……」


ミラは肩で息をしながら、立ち尽くしていた。

視界が赤い。

夕焼けのせいではない。自分の目が、世界を赤く染めているのだ。


身体が熱い。

血液が沸騰し、背骨が軋むような感覚。

そして、頭皮からジリジリと何かが侵食してくる奇妙な感覚があった。


「ミ……ミラ、ちゃん……?」


マリーが震える声で呼びかけた。

彼女は助かった安堵ではなく、目の前にいる「異形のもの」への恐怖で引きつっていた。


「その髪……目……」


ミラはふらつきながら、近くの水たまりを覗き込んだ。

焚き火の残り火に照らされた水面に、自分の顔が映る。


「……あ」


そこには、金髪碧眼の少女はいなかった。


根元から夜の闇を吸い込んだような、艶やかな漆黒の髪。

そして、鮮血のように赤く輝く、妖美な瞳。

それは、伝承に語られる「魔族」そのものの姿だった。


(戻ら、ない……)


魔力を止めようとしても、変化は引かない。

シアンの言った通りだ。

一度壊れた器は、二度と元には戻らない。


「あ、ああ……」


ミラは自分の顔を両手で覆った。

終わった。

人間のミラは死んだ。

もう、アルの隣で笑うことはできない。

あの温かい学園にも、彼が用意してくれた家にも、帰る場所はもうない。


「……っ、う」


強烈なめまいが襲う。

魔力暴走の反動と、急激な肉体変化の負荷。

視界が暗転していく。


「ミラちゃん!」


誰かの叫び声が聞こえた気がしたが、それは深い闇の底へと遠のいていった。

凍りついた静寂の中、黒髪の少女は糸が切れた人形のように、冷たい地面へと崩れ落ちた。


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