禁忌の解放
王都から馬車で西へ二日。
険しい山岳地帯に位置する「ルナリア山脈」は、季節外れの冷たい霧に包まれていた。
切り立った崖と、針葉樹の深い森。
人が踏み入ることを拒むような荒々しい自然の中に、一行の足音が静かに響く。
「うう、寒っ……。王都とは気温が全然違うねぇ」
隣を歩く先輩薬師のマリーが、白い息を吐きながら身震いした。
彼女の言う通り、標高の高いこの場所は、春だというのに冬のような寒気が支配している。
「大丈夫ですか、マリーさん? これ、よかったら使ってください」
ミラは荷物から携帯用のカイロ(魔石で熱を帯びる小さな石)を取り出し、手渡した。
「あら、ありがとミラちゃん! 気が利くわねぇ。……あんた、顔色は大丈夫? ここ数日、少し優れないみたいだけど」
「え、ええ。ただの寝不足ですから、平気です」
ミラはマフラーに顔を埋め、曖昧に微笑んだ。
平気なわけがない。
下腹部には、常に微かな違和感と重みがある。つわりはまだ軽いが、身体の内側で何かが確実に変化している感覚が、一歩ごとに不安を煽る。
(……赤ちゃん。寒くないかな)
誰にも気づかれないように、厚手のコートの上からそっとお腹を撫でる。
この小さな命を守るために、私はどうするべきなのか。
シアンから突きつけられた二つの選択肢――「公爵家の籠の鳥」か、「魔界への亡命」か。
その答えはまだ、深い霧の中にある。
「おい、遅れているぞ。日が暮れる前にキャンプ地に着きたい」
先頭を歩くシアンの声が、冷ややかに響いた。
彼は王宮魔術師の白いローブの上に、厚手の灰色のマントを羽織っている。
その背中は頼もしいが、時折ミラに向けられる視線には、従兄としての焦燥と警告が含まれていた。
『いいか、絶対に無理はするな。……魔力を使えば、お前の中の均衡が崩れる』
出発前、耳元で囁かれた言葉が呪いのように蘇る。
ミラは強く唇を噛み締め、重い足を前へと踏み出した。
†
目的の「月光草」が群生するエリアは、山の中腹にある開けた台地だった。
到着した頃には、太陽は西の峰に沈みかけ、空はどす黒い紫色に染まり始めていた。
「よし、今日はここで野営だ。結界を張る準備を急げ」
シアンの指示で、同行していた数名の王宮魔術師たちが動き出す。
薬師たちはテントを設営し、夕食の準備に取り掛かった。
焚き火の暖かな光が、闇に沈みゆく森の中に小さな安らぎの空間を作り出す。
スープの香りが漂い始め、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
「ふぅ……やっと一息つけるね」
マリーが切り株に腰を下ろし、温かいスープを啜る。
ミラもその隣に座り、火を見つめた。
パチパチと薪が爆ぜる音が、遠い日のラダー村の夜を思い出させる。
(アルも今頃、どこかで野営してるのかな)
星も見えない曇り空を見上げる。
会いたい。
もし今、隣に彼がいてくれたら、この凍えるような不安も溶けてなくなるのに。
「……ミラ」
不意に、シアンが近づいてきた。
彼は他の者には聞こえないように、声を潜めて告げた。
「少し、席を外す」
「え? どこへ?」
「結界の魔力反応に乱れがある。この付近の地脈が不安定なようだ。……部下を連れて、周辺の調査と補強に行ってくる」
シアンは森の奥、闇が濃くなっている方角を顎で示した。
「すぐに戻るが……俺がいない間、結界からは一歩も出るなよ。何があってもだ」
「わかっています。……気をつけて」
シアンは短く頷くと、二人の部下を連れて闇の中へと消えていった。
残されたのは、ミラを含む非戦闘員の薬師五名と、結界維持のために残った若い魔術師一名だけ。
静寂が戻る。
焚き火の音だけが響く中、ミラは言いようのない胸騒ぎを覚えた。
風の音が変わった気がする。
木々がざわめき、まるで何かを恐れているかのように震えている。
(……嫌な予感がする)
ミラは立ち上がり、周囲を見渡した。
結界の薄い光の膜が、キャンプ地をドーム状に覆っている。
安全なはずだ。王宮魔術師が張った結界は、そう簡単に破られるものではない。
だが。
バヂィッ――!!
突然、耳障りな破裂音が響いた。
同時に、結界のドームに亀裂が走り、光の粒子となって霧散していく。
「なっ……結界が!?」
残っていた若い魔術師が悲鳴を上げる。
彼が杖を構えるより早く、森の闇が膨れ上がった。
グルルルル……。
低く、腹の底に響くような獣の唸り声。
一つではない。十、二十……無数の殺気が、全方位からキャンプ地を取り囲んでいる。
「きゃあぁぁっ!!」
「ま、魔獣だ!!」
薬師たちがパニックになり、逃げ惑う。
闇の中から躍り出てきたのは、狼に似た魔獣の群れだった。
だが、そのサイズは牛ほどもあり、瞳は狂ったように赤く輝いている。
「黒牙狼」。
集団で獲物を狩る、残忍な捕食者たちだ。
「くそっ、シアン様たちが離れた隙を狙って……!」
若い魔術師が炎の魔法を放つが、素早い動きで躱される。
一匹が彼に飛びかかり、その鋭い牙が魔術師の腕を食いちぎった。
「ぎゃあぁぁぁっ!!」
「逃げて! みんな、森へ逃げて!」
ミラは叫び、マリーの手を引いて走り出した。
戦える者はいない。逃げるしかない。
けれど、魔獣たちの足は速い。
あっという間に退路を塞がれ、薬師たちは焚き火を中心にして追い詰められていく。
「い、いや……来ないでぇ!」
マリーが転倒した。
その目の前に、巨大な黒牙狼が涎を垂らして迫る。
鋭い爪が振り上げられ、マリーの喉笛を切り裂こうとする。
(――死ぬ)
その光景が、スローモーションのように見えた。
マリーの絶望に染まった顔。
振り下ろされる爪。
そして、かつてラダー村で見た、炎と悲鳴の記憶がフラッシュバックする。
『何もできずに、失うのか?』
心の中の声が問う。
大切な人を守れず、ただ震えていたあの日と同じ過ちを繰り返すのか?
(……嫌だ)
ミラの手が、無意識に前に伸びた。
『魔術は使うな』
『使えば、お前は人ではなくなる』
シアンの警告が、アルとの約束が、頭の中で警鐘を鳴らす。
けれど、目の前で友人が死ぬのをただ見ていることなんて、できるわけがなかった。
「……やめてぇぇぇッ!!」
ミラは絶叫した。
その瞬間。
ドクンッ!!
心臓だけでなく、下腹部の奥底――小さな命が宿るその場所から、灼熱の奔流が噴き出した。
それは、今までのミラの魔力とは比べ物にならない、桁外れのエネルギーだった。
お腹の子が持つ「魔王の血」と「勇者の血」。
その二つの力がミラの感情に呼応し、制御のリミッターを粉々に破壊したのだ。
カッッッ――!!
ミラの掌から、黒に近い濃紺の冷気が爆発的に放出された。
大気が凍りつく。
マリーに襲いかかっていた魔獣は、悲鳴を上げる暇もなく一瞬で巨大な氷柱の中に閉じ込められた。
「え……?」
マリーが腰を抜かし、凍りついた魔獣を見上げる。
だが、終わりではない。
力の奔流は止まらない。
ミラの身体から溢れ出した黒い冷気は、吹雪となってキャンプ地全体を飲み込んだ。
「グルッ!?」
「ギャウッ!」
周囲を取り囲んでいた数十匹の魔獣たちが、次々と氷の彫像へと変わっていく。
絶対零度の地獄。
焚き火の炎さえもが凍りつき、静寂な死の世界が広がる。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
ミラは肩で息をしながら、立ち尽くしていた。
視界が赤い。
夕焼けのせいではない。自分の目が、世界を赤く染めているのだ。
身体が熱い。
血液が沸騰し、背骨が軋むような感覚。
そして、頭皮からジリジリと何かが侵食してくる奇妙な感覚があった。
「ミ……ミラ、ちゃん……?」
マリーが震える声で呼びかけた。
彼女は助かった安堵ではなく、目の前にいる「異形のもの」への恐怖で引きつっていた。
「その髪……目……」
ミラはふらつきながら、近くの水たまりを覗き込んだ。
焚き火の残り火に照らされた水面に、自分の顔が映る。
「……あ」
そこには、金髪碧眼の少女はいなかった。
根元から夜の闇を吸い込んだような、艶やかな漆黒の髪。
そして、鮮血のように赤く輝く、妖美な瞳。
それは、伝承に語られる「魔族」そのものの姿だった。
(戻ら、ない……)
魔力を止めようとしても、変化は引かない。
シアンの言った通りだ。
一度壊れた器は、二度と元には戻らない。
「あ、ああ……」
ミラは自分の顔を両手で覆った。
終わった。
人間のミラは死んだ。
もう、アルの隣で笑うことはできない。
あの温かい学園にも、彼が用意してくれた家にも、帰る場所はもうない。
「……っ、う」
強烈なめまいが襲う。
魔力暴走の反動と、急激な肉体変化の負荷。
視界が暗転していく。
「ミラちゃん!」
誰かの叫び声が聞こえた気がしたが、それは深い闇の底へと遠のいていった。
凍りついた静寂の中、黒髪の少女は糸が切れた人形のように、冷たい地面へと崩れ落ちた。




