予期せぬ脈動
翌朝。
王都の空は、分厚い鉛色の雲に覆われていた。
王宮の裏手に位置する薬草園の調剤室には、乾燥したハーブの独特な香りと、大鍋で煮詰められた薬液の濃厚な蒸気が充満している。
普段のミラなら、心が安らぐはずのその緑の香り。
けれど今日の彼女にとって、それは拷問にも等しい悪臭だった。
「……っ、う」
強烈な吐き気が、胃の底から突き上げてくる。
ミラは口元を強く押さえ、調合の手を止めて裏口へと駆け出した。
誰もいない石畳の路地。
冷たい壁に手をつき、うずくまる。
胃の中には何もない。朝から水しか喉を通らなかったから、出てくるのは酸っぱい胃液だけだ。
ゼェ、ゼェ、と荒い呼吸を繰り返すたびに、視界が白く明滅する。
(……間違いない)
震える指先で、口元を拭う。
ただの体調不良ではない。風邪でもない。
薬師としての知識と、自身の内側で芽生え始めた小さな、けれど確かな「魔力の灯火」が、逃れようのない事実を告げていた。
ここに、命がある。
私の中に、新しい心臓が動いている。
「どうして……今なの」
喜びよりも先に、絶望に近い恐怖が、冷たい波のように押し寄せた。
勇者アルヴィンと、半魔であるミラの子供。
もし、この子が魔族の血を濃く引いて生まれてきたら?
もし、あの夜の私のように、黒い髪と赤い瞳を持って生まれてきたら?
『魔族の子だ』
『勇者をたぶらかした魔女を浄化せよ』
脳裏に浮かぶのは、神殿の狂信者たちの冷酷な声と、燃え盛る火刑台の幻影。
お腹に手を当てる。
まだ平らなその場所を守るように、強く、強く服の上から握りしめた。
「ミラ? こんなところで何をしている」
不意に背後からかけられた声に、ミラは心臓が跳ね上がるほど驚いた。
ビクリと肩を震わせ、恐る恐る振り返る。
そこには、氷の彫刻のように冷ややかな美貌を持つ青年――シアンが立っていた。
王宮魔術師の純白のローブを纏い、いつものように感情の読めないアイスブルーの瞳で、うずくまるミラを見下ろしている。
「シ、シアン……。どうして、ここに?」
「王宮の視察だ。薬草園の管理体制もチェック項目に入っている」
シアンは淡々と答え、眉をひそめてミラへと歩み寄った。
「それより、顔色が悪いぞ。……冷や汗もひどい」
彼は無遠慮にミラの腕を掴んだ。
逃げようとするミラの抵抗を許さず、その手首に、冷たい指先を当てる。
脈を診る動作。
薬師や医師がするような、物理的な診察だ。
数秒の沈黙。
風が止まり、世界から音が消えたような静寂が流れる。
やがて、シアンの瞳がわずかに見開かれ、そして鋭く細められた。
「……脈が、二つあるな」
冷徹な宣告だった。
ミラは血の気が引くのを感じた。
誤魔化すことなどできない。この男の洞察力は、どんな魔道具よりも正確で、残酷だ。
「……シアン、お願い。誰にも……」
「誰の子だ? ……なんて、愚問だったな」
シアンは溜息をつき、軽く指を鳴らした。
それだけで、周囲の雑音がふっ、とかき消える。
音を遮断する結界。王都の喧騒から切り離された、二人だけの閉じた空間が生まれた。
「アルヴィンか。……あの石頭の勇者も、やることはやっていたわけだ」
「言いふらさないでよ……っ。お願い、誰にも言わないで」
「言いふらす? 俺がそんな暇人に見えるか」
シアンは冷ややかに鼻を鳴らしたが、その瞳の奥には、いつくなになく深刻な色が漂っていた。
彼は腕組みをし、石壁に背を預けてミラを見据える。
「だが、笑い事じゃないぞ。……以前、学園でお前に話したことを覚えているか? 俺たちの『血』の話だ」
「……覚えてるわ」
ミラは自身の腹を抱きしめるように腕を回した。
かつて彼から聞かされた衝撃的な事実。
ミラの母ミーシャと、シアンの母リーシャは双子の姉妹であり、それぞれの父親は魔族の王とその側近だったと。
「お前の父親――エリオス様の魔力は強大すぎた。……その隔世遺伝が、子供に出ないとは限らない」
シアンの言葉は、鋭利なナイフのようにミラの不安を正確に抉り出した。
「もし、子供が黒髪と赤目を持って生まれたらどうする? 勇者の子として祝福されるどころか、神殿の狂信者どもは『勇者の種を汚した魔族の忌み子』として、即座に処刑に動くぞ」
「……っ」
「当然、母親であるお前もだ。アルヴィンの輝かしい経歴にも、消えない泥がつく」
残酷な正論。
神殿には、魔族を絶対悪と信じ、少しでもその兆候がある者を排除しようとする過激な一派が存在する。
彼らに見つかれば、問答無用で「浄化」という名の殺戮が行われるだろう。
「……堕ろすつもりはないんだろう?」
「当たり前でしょ! ……アルとの、大切な赤ちゃんなの。絶対に、産むわ」
ミラが涙目で睨み返すと、シアンは「そう言うと思った」と、どこか安堵したように肩をすくめた。
そして、氷のような瞳を少しだけ和らげ、静かに告げた。
「なら、王都を出ろ。……お前とお腹の子が生き延びる道は、二つある」
シアンは白く長い指を、二本立てた。
「一つは、俺の家……『セルヴィス公爵家』で匿う道だ」
「セルヴィス公爵家……?」
「ああ。俺が当主だ。権力を使って神殿を黙らせ、秘密裏に出産させることも不可能ではない」
シアンは淡々と言うが、ミラは首を横に振った。
公爵家といえば、王宮にも神殿にも近い大貴族だ。そんな場所に隠れ住めば、いつか必ず誰かに見つかる。
それに、シアンにこれ以上迷惑はかけられない。
「……もう一つは?」
「もう一つは……魔族の地へ行くことだ」
「――は?」
思考が停止した。
魔族の地。人類の敵。アルたちが命懸けで戦っている場所。
そこへ行けと言うのか。
「驚くのも無理はない。……だが、俺の話を聞け。これは、俺たちの父親たちの話だ」
シアンは少しだけ表情を緩め、遠い記憶を手繰るように語り始めた。
「魔族にも派閥がある。古くから、人間との共存を模索する『王道派』と、力による支配を望む『覇道派』とで対立していた」
「王道派……」
「お前の父、エリオス様は、その『王道派』の王だった。……そして俺の父、ルワージュは、その片腕として共に理想を追い求めた同志だ」
シアンの声には、父への複雑な感情と、それ以上の敬意が滲んでいた。
「彼らは人間に姿を変え、この地を旅した。そこで俺たちの母である双子の姉妹と出会い、恋に落ちたんだ。……だが、その夢は長くは続かなかった」
ミラの脳裏に、母が大切にしていた片方だけのピアスが浮かぶ。
あれは、父との愛の証だったのだ。
「エリオス様は亡くなり、今は『覇道派』の魔王が実権を握り、人間との戦争を煽っている。アルヴィンたちが戦っているのはそいつらだ」
「じゃあ、やっぱり危険じゃない!」
「違う。俺が言っているのは、俺の親父――ルワージュの元へ行けということだ」
シアンは真剣な眼差しでミラを見据えた。
「親父は今も、北の地の一部を治めながら『王道派』を束ねている。……彼にとって、お前はただの人間じゃない」
シアンはミラの目の前にしゃがみ込み、視線を合わせた。
二歳年上の従兄としての、守護者としての瞳だった。
「お前は、彼が敬愛してやまなかった主君エリオス様の、唯一の忘れ形見だ。……言わば、彼らにとっての『姫君』なんだよ」
「私が……姫……」
「ルワージュの庇護下に入れば、お前は最上位の賓客として守られる。魔界ならば、子供がどんな姿で生まれようと――黒髪だろうが赤目だろうが――それは『王の血を引く証』として祝福される」
究極の選択だった。
危険を承知で人間の世界に留まり、いつか帰ってくるアルを待つか。
それとも、すべてを捨てて、亡き父を知る魔族たちの世界へ逃げ込み、子供を守るか。
「……すぐには決められないわ」
声が震える。
アルに会いたい。彼に、赤ちゃんができたと伝えたい。
けれど、その願いが子供を殺すことになるかもしれない。
「だろうな。だが、時間はないぞ。腹が目立ち始めれば、もう隠し通せん」
シアンは指を鳴らし、結界を解いた。
王都の喧騒が、波のように戻ってくる。
「……来週の採集任務。それが終わるまでには決断しろ。もし魔界へ行くなら、俺が手引きしてやる」
シアンはそれだけ言い残し、白衣を翻して去っていった。
残されたミラは、鉛色の空の下、ただ呆然と立ち尽くしていた。
お腹の中の小さな命。
その温もりが、今は世界で一番重く、そして壊れそうなほど愛おしかった。
(アル……どうすればいいの?)
曇り空を見上げても、答えはどこにもなかった。
ただ、冷たい風が吹き抜け、来るべき嵐の予感を運んでくるだけだった。




