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勇者と幼なじみの物語―あざと勇者の愛が重すぎる―  作者: 華乃ぽぽ
4章

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23/39

夕陽の密室


一週間という時間は、砂時計の砂がサラサラと落ちていくように、あまりにも早く、音もなく過ぎ去っていった。

そしてついに、その日が来てしまった。

「アーレン」としての生活、最後の日。

明日の早朝には、学園全体に張られた結界が解け、彼は勇者アルヴィンとして、あの血塗られた戦場へ戻らなければならない。


(……遅いな)


女子寮の自室。

ミラはテーブルに並べたささやかな「最後の晩餐」を見つめ、何度目かわからない溜息をついた。

街のパン屋で買ってきたサンドイッチは少し乾き始めており、彼が好きな葡萄の果実酒を入れたグラスも、氷が溶けてカランと乾いた音を立てた。


壁掛け時計の針は、約束の時間をすでに三十分も過ぎている。

この一週間、アルは片時もミラから離れようとしなかった。少しでも長く一緒にいたいと、授業の合間ですら会いに来ていた彼が、最後の夜に連絡もなく遅れるなんて、らしくない。


(寝ちゃってるのかな。……それとも、何かあった?)


一度生まれた胸騒ぎは、インクの染みのように心の中で広がっていく。

窓の外を見る。空はすでに茜色に染まり、夜の帳が下りようとしていた。

じっとしていられず、ミラは立ち上がった。


「……迎えに行こう」


懐から、シアンに渡された「認識阻害の指輪」を取り出し、震える指にはめる。

これで誰にも見咎められることはない。

ミラはショールを羽織ると、足早に部屋を出た。



校舎の西側、深い森の入り口に佇む「特別寮」への道は、ひっそりと静まり返っていた。

枯れ葉を踏む自分の足音だけが、ザク、ザクと大きく響く。

冷たい冬の風が頬を打ち、不安を煽るように木々を揺らしていた。


煉瓦造りの洋館が見えてくる。

見上げた最上階の角部屋――アルの部屋の窓からは、明かりが漏れていなかった。


(暗い……。やっぱり、具合でも悪いのかな)


正面玄関を抜け、誰もいない階段を上がる。

古い絨毯が敷かれた廊下は、長く、どこか冷たい空気が漂っていた。

アルの部屋の前で足を止め、息を整える。

心臓が、痛いほど早鐘を打っていた。


コン、コン。


控えめにノックをする。


「アル? ……ミラよ。約束の時間、過ぎてるけど……入ってもいい?」


返事はない。

静寂。

けれど、耳を澄ますと、扉の向こうから微かな物音が聞こえた気がした。

衣類が擦れるような音と、苦痛を噛み殺すような、荒い呼吸の音。


「……アル、開けるわよ」


ドアノブに手をかけると、鍵は掛かっていなかった。

世界最強の勇者ゆえの油断か、それともミラが来るのをどこかで待っていたのか。

ミラは意を決してノックを回し、重厚な扉を押し開けた。


ギィィ、と蝶番が軋む音を立てて、扉が開く。


部屋の中は、燃えるような茜色に染まっていた。

魔導ランプは点いていない。

西向きの大きな窓から、沈みゆく夕陽が最後の輝きを放ち、室内のすべてを鮮烈な赤で塗りつぶしている。


その、血のような光の中で。

ベッドの端に腰掛け、背中を丸めている少年の姿があった。


「――ッ、く……ぅ」


彼は、上半身裸だった。

手には包帯を持ち、自分の身体に巻き付けようとして、痛みに呻いているようだった。

その無防備な背中が、夕陽に照らされている。


その光景を目にした瞬間。

ミラの思考は真っ白に弾け飛び、呼吸することさえ忘れた。


「……あ」


手から力が抜け、ドアノブがカチャリと戻る音がした。

その小さな音に、アルが弾かれたように振り返る。


「――誰だ!?」


鋭い殺気。

それは獲物を狙う獣のような、あるいは敵を排除する兵器のような、冷たく鋭利なものだった。

けれど、侵入者がミラだと認識した瞬間、彼の見開かれた瞳から殺気が消え、代わりに絶望的な焦燥が浮かび上がった。


「ミラ……!? どうして、ここに……」


彼は慌てて、近くにあったシャツを掴み、乱暴に羽織った。

ボタンも留めずに前を合わせ、何事もなかったかのように微笑もうとする。

けれど、その笑顔は引きつり、額には脂汗が玉のように滲んでいた。


「ご、ごめん。ちょっと寝過ごしちゃって……今、行こうと思ってたんだ」

「……嘘」


ミラは震える声で遮った。

靴を履いたまま、彼へと歩み寄る。

足が震えて、うまく歩けない。それでも、確かめなければならない。


「今、見たわよ。……その背中」

「……何でもないよ。ちょっと、古傷が痛んだだけで」

「何でもなくない! あんな傷……っ」


ミラは彼の手を振り払い、羽織りかけたシャツを掴んだ。

アルが抵抗する。

「やめてくれ」と拒絶する力は、本来の彼なら岩をも砕くはずだ。

けれど今の彼の手は、ミラを傷つけることを恐れるように弱々しく、そして小刻みに震えていた。


「だめだ、ミラ。……見ないでくれ」


アルが低い声で懇願する。

叫び声ではない。

けれど、それはどんな悲鳴よりも痛切な、諦めと恥辱が混じったような響きだった。

まるで、自分の最も汚らわしい部分を、最愛の人に晒すことを恐れる罪人のように。


「汚いんだ。……君には、綺麗な僕のままで会いたかった。……幼なじみの『アル』のままで、いたかったんだ」

「汚いなんて言わないで!」


ミラは涙をこらえ、強引にシャツを剥ぎ取った。

夕陽に晒されたその身体は、あまりにも無残で、そして残酷な「英雄の真実」を物語っていた。


「……ひどい」


肩から腰にかけて斜めに走る、巨大な爪痕のようなケロイド。

皮膚が一度溶け落ち、無理やり再生したような、赤黒くひきつれた火傷の痕。

無数の刺し傷と、肉が抉れたまま塞がった歪な凹凸。

かつての白く滑らかだった肌は見る影もなく、全身がツギハギのような傷跡で埋め尽くされていた。


それは、生身の人間が耐えられる限界を超えた損傷の記録だった。


「……シュナの魔法は、万能じゃないんだ」


隠し通せないと悟ったのか、アルが観念したように、ポツリと語り始めた。

その視線は、床の一点を見つめたまま動かない。


「傷口は塞がる。血も止まる。……でも、失われた肉体までは、完全には元に戻らないんだ」


彼は自分の胸にある、心臓を貫かれたような丸い、どす黒い傷跡に触れた。


「内臓が潰され、骨が砕かれ……それを無理やり魔力で繋ぎ止める。その繰り返しだ。致命傷になればなるほど、治癒した跡は歪になり、決して消えない傷跡として残る」


淡々とした口調が、逆に恐ろしかった。

彼はこの身体で、どれほどの死線をくぐり抜けてきたのだろうか。

ただ死なないために。ただ戦い続けるために。

何度も、何度も、壊れかけた陶器を継ぎ接ぎするように修復され、それでも剣を握り続けてきたのだ。


「……醜いだろう?」


アルが力なく笑い、身体を縮こまらせる。


「みんなは僕を英雄だと讃えるけど、鎧の下はこんなだ。……ボロ雑巾みたいに継ぎ接ぎだらけで、自分でも気味が悪いよ。こんな身体、君に見せられるわけが……」


「……バカ」


ミラの目から、堪えていた涙が溢れ出した。

視界が滲んで、彼の背中が揺れる。


彼は一人で、こんな痛みと戦っていたのか。

私が学園で「勇者様はすごい」なんて能天気な会話を聞いている間、彼は身体を削り、心を削り、それでも「英雄」として立ち続けていたのだ。

それなのに、私の前では「綺麗な幼なじみ」であろうとして、この痛みを一人で隠していたなんて。


ミラは背後から、彼の傷だらけの身体を優しく、けれど強く抱きしめた。


「ミラ……?」

「醜いわけないじゃない……っ! これが、あなたが皆を守ってきた証なんでしょう!?」


手のひらに伝わる、ゴツゴツとした傷跡の感触。

硬く盛り上がったケロイドも、熱を持った火傷痕も。

それは恐ろしいけれど、同時にたまらなく愛おしかった。

彼が生きて、ここに帰ってきてくれた証なのだから。


「痛かったでしょう……辛かったでしょう……っ。ごめんね、気づいてあげられなくて。一人にして、ごめんね……っ」


ミラの涙が、彼の背中の火傷痕を濡らす。

その熱に触れ、石のように強張っていたアルの身体が、ゆっくりと弛緩していった。

彼は振り返り、震える手でミラの濡れた頬に触れた。


「……本当に、いいの? こんな、傷物の僕でも」

「あなたが言ったんじゃない。……『私はアルのもの』って」


ミラは涙を袖で乱暴に拭い、精一杯の笑顔を見せた。

そして、彼の手を取り、自分の頬へと導いた。


「私にも教えて。……あなたの痛みも、苦しみも、全部」


その言葉は、アルの中に張り詰めていた最後の糸を、静かに断ち切った。

彼はミラを引き寄せると、飢えた獣のように、けれど壊れ物を扱うように慎重に、唇を重ねた。


「……愛してる。ミラ、愛してる……!」


夕陽が沈み、部屋が夜の闇に包まれていく。

その薄闇の中で、二人は互いの存在を確かめ合うように、深く、激しく求め合った。

傷だらけの英雄と、彼を包み込む少女。

痛みも傷も、すべてを愛で塗り替えていった。


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