夕陽の密室
一週間という時間は、砂時計の砂がサラサラと落ちていくように、あまりにも早く、音もなく過ぎ去っていった。
そしてついに、その日が来てしまった。
「アーレン」としての生活、最後の日。
明日の早朝には、学園全体に張られた結界が解け、彼は勇者アルヴィンとして、あの血塗られた戦場へ戻らなければならない。
(……遅いな)
女子寮の自室。
ミラはテーブルに並べたささやかな「最後の晩餐」を見つめ、何度目かわからない溜息をついた。
街のパン屋で買ってきたサンドイッチは少し乾き始めており、彼が好きな葡萄の果実酒を入れたグラスも、氷が溶けてカランと乾いた音を立てた。
壁掛け時計の針は、約束の時間をすでに三十分も過ぎている。
この一週間、アルは片時もミラから離れようとしなかった。少しでも長く一緒にいたいと、授業の合間ですら会いに来ていた彼が、最後の夜に連絡もなく遅れるなんて、らしくない。
(寝ちゃってるのかな。……それとも、何かあった?)
一度生まれた胸騒ぎは、インクの染みのように心の中で広がっていく。
窓の外を見る。空はすでに茜色に染まり、夜の帳が下りようとしていた。
じっとしていられず、ミラは立ち上がった。
「……迎えに行こう」
懐から、シアンに渡された「認識阻害の指輪」を取り出し、震える指にはめる。
これで誰にも見咎められることはない。
ミラはショールを羽織ると、足早に部屋を出た。
†
校舎の西側、深い森の入り口に佇む「特別寮」への道は、ひっそりと静まり返っていた。
枯れ葉を踏む自分の足音だけが、ザク、ザクと大きく響く。
冷たい冬の風が頬を打ち、不安を煽るように木々を揺らしていた。
煉瓦造りの洋館が見えてくる。
見上げた最上階の角部屋――アルの部屋の窓からは、明かりが漏れていなかった。
(暗い……。やっぱり、具合でも悪いのかな)
正面玄関を抜け、誰もいない階段を上がる。
古い絨毯が敷かれた廊下は、長く、どこか冷たい空気が漂っていた。
アルの部屋の前で足を止め、息を整える。
心臓が、痛いほど早鐘を打っていた。
コン、コン。
控えめにノックをする。
「アル? ……ミラよ。約束の時間、過ぎてるけど……入ってもいい?」
返事はない。
静寂。
けれど、耳を澄ますと、扉の向こうから微かな物音が聞こえた気がした。
衣類が擦れるような音と、苦痛を噛み殺すような、荒い呼吸の音。
「……アル、開けるわよ」
ドアノブに手をかけると、鍵は掛かっていなかった。
世界最強の勇者ゆえの油断か、それともミラが来るのをどこかで待っていたのか。
ミラは意を決してノックを回し、重厚な扉を押し開けた。
ギィィ、と蝶番が軋む音を立てて、扉が開く。
部屋の中は、燃えるような茜色に染まっていた。
魔導ランプは点いていない。
西向きの大きな窓から、沈みゆく夕陽が最後の輝きを放ち、室内のすべてを鮮烈な赤で塗りつぶしている。
その、血のような光の中で。
ベッドの端に腰掛け、背中を丸めている少年の姿があった。
「――ッ、く……ぅ」
彼は、上半身裸だった。
手には包帯を持ち、自分の身体に巻き付けようとして、痛みに呻いているようだった。
その無防備な背中が、夕陽に照らされている。
その光景を目にした瞬間。
ミラの思考は真っ白に弾け飛び、呼吸することさえ忘れた。
「……あ」
手から力が抜け、ドアノブがカチャリと戻る音がした。
その小さな音に、アルが弾かれたように振り返る。
「――誰だ!?」
鋭い殺気。
それは獲物を狙う獣のような、あるいは敵を排除する兵器のような、冷たく鋭利なものだった。
けれど、侵入者がミラだと認識した瞬間、彼の見開かれた瞳から殺気が消え、代わりに絶望的な焦燥が浮かび上がった。
「ミラ……!? どうして、ここに……」
彼は慌てて、近くにあったシャツを掴み、乱暴に羽織った。
ボタンも留めずに前を合わせ、何事もなかったかのように微笑もうとする。
けれど、その笑顔は引きつり、額には脂汗が玉のように滲んでいた。
「ご、ごめん。ちょっと寝過ごしちゃって……今、行こうと思ってたんだ」
「……嘘」
ミラは震える声で遮った。
靴を履いたまま、彼へと歩み寄る。
足が震えて、うまく歩けない。それでも、確かめなければならない。
「今、見たわよ。……その背中」
「……何でもないよ。ちょっと、古傷が痛んだだけで」
「何でもなくない! あんな傷……っ」
ミラは彼の手を振り払い、羽織りかけたシャツを掴んだ。
アルが抵抗する。
「やめてくれ」と拒絶する力は、本来の彼なら岩をも砕くはずだ。
けれど今の彼の手は、ミラを傷つけることを恐れるように弱々しく、そして小刻みに震えていた。
「だめだ、ミラ。……見ないでくれ」
アルが低い声で懇願する。
叫び声ではない。
けれど、それはどんな悲鳴よりも痛切な、諦めと恥辱が混じったような響きだった。
まるで、自分の最も汚らわしい部分を、最愛の人に晒すことを恐れる罪人のように。
「汚いんだ。……君には、綺麗な僕のままで会いたかった。……幼なじみの『アル』のままで、いたかったんだ」
「汚いなんて言わないで!」
ミラは涙をこらえ、強引にシャツを剥ぎ取った。
夕陽に晒されたその身体は、あまりにも無残で、そして残酷な「英雄の真実」を物語っていた。
「……ひどい」
肩から腰にかけて斜めに走る、巨大な爪痕のようなケロイド。
皮膚が一度溶け落ち、無理やり再生したような、赤黒くひきつれた火傷の痕。
無数の刺し傷と、肉が抉れたまま塞がった歪な凹凸。
かつての白く滑らかだった肌は見る影もなく、全身がツギハギのような傷跡で埋め尽くされていた。
それは、生身の人間が耐えられる限界を超えた損傷の記録だった。
「……シュナの魔法は、万能じゃないんだ」
隠し通せないと悟ったのか、アルが観念したように、ポツリと語り始めた。
その視線は、床の一点を見つめたまま動かない。
「傷口は塞がる。血も止まる。……でも、失われた肉体までは、完全には元に戻らないんだ」
彼は自分の胸にある、心臓を貫かれたような丸い、どす黒い傷跡に触れた。
「内臓が潰され、骨が砕かれ……それを無理やり魔力で繋ぎ止める。その繰り返しだ。致命傷になればなるほど、治癒した跡は歪になり、決して消えない傷跡として残る」
淡々とした口調が、逆に恐ろしかった。
彼はこの身体で、どれほどの死線をくぐり抜けてきたのだろうか。
ただ死なないために。ただ戦い続けるために。
何度も、何度も、壊れかけた陶器を継ぎ接ぎするように修復され、それでも剣を握り続けてきたのだ。
「……醜いだろう?」
アルが力なく笑い、身体を縮こまらせる。
「みんなは僕を英雄だと讃えるけど、鎧の下はこんなだ。……ボロ雑巾みたいに継ぎ接ぎだらけで、自分でも気味が悪いよ。こんな身体、君に見せられるわけが……」
「……バカ」
ミラの目から、堪えていた涙が溢れ出した。
視界が滲んで、彼の背中が揺れる。
彼は一人で、こんな痛みと戦っていたのか。
私が学園で「勇者様はすごい」なんて能天気な会話を聞いている間、彼は身体を削り、心を削り、それでも「英雄」として立ち続けていたのだ。
それなのに、私の前では「綺麗な幼なじみ」であろうとして、この痛みを一人で隠していたなんて。
ミラは背後から、彼の傷だらけの身体を優しく、けれど強く抱きしめた。
「ミラ……?」
「醜いわけないじゃない……っ! これが、あなたが皆を守ってきた証なんでしょう!?」
手のひらに伝わる、ゴツゴツとした傷跡の感触。
硬く盛り上がったケロイドも、熱を持った火傷痕も。
それは恐ろしいけれど、同時にたまらなく愛おしかった。
彼が生きて、ここに帰ってきてくれた証なのだから。
「痛かったでしょう……辛かったでしょう……っ。ごめんね、気づいてあげられなくて。一人にして、ごめんね……っ」
ミラの涙が、彼の背中の火傷痕を濡らす。
その熱に触れ、石のように強張っていたアルの身体が、ゆっくりと弛緩していった。
彼は振り返り、震える手でミラの濡れた頬に触れた。
「……本当に、いいの? こんな、傷物の僕でも」
「あなたが言ったんじゃない。……『私はアルのもの』って」
ミラは涙を袖で乱暴に拭い、精一杯の笑顔を見せた。
そして、彼の手を取り、自分の頬へと導いた。
「私にも教えて。……あなたの痛みも、苦しみも、全部」
その言葉は、アルの中に張り詰めていた最後の糸を、静かに断ち切った。
彼はミラを引き寄せると、飢えた獣のように、けれど壊れ物を扱うように慎重に、唇を重ねた。
「……愛してる。ミラ、愛してる……!」
夕陽が沈み、部屋が夜の闇に包まれていく。
その薄闇の中で、二人は互いの存在を確かめ合うように、深く、激しく求め合った。
傷だらけの英雄と、彼を包み込む少女。
痛みも傷も、すべてを愛で塗り替えていった。




