泡沫の日常
翌日から、ミラと「アーレン」の、奇妙で秘密めいた学園生活が幕を開けた。
特別留学生という肩書きと、シアンが用意した認識阻害の眼鏡。
それらのおかげで、彼が伝説の勇者であることに気づく者はいない。
彼は影の薄い、少し病弱な文学少年として振る舞い、ミラはその「お世話係」という体裁をとっていた。
傍から見れば、世話焼きな女子生徒と、それに頼る大人しい男子生徒。
けれど、その内実はまるで違っていた。
「ミラちゃん、またアーレン君と一緒?」
「うん。……ちょっと、放っておけなくて」
友人たちの問いかけに、ミラは曖昧な苦笑いで答える。
嘘ではない。今の彼は、一時も目を離せないほど不安定で、そして硝子細工のように脆かったからだ。
****
放課後の図書室は、世界から切り離されたように静まり返っていた。
西日が長く伸び、舞い上がる埃が金色の粒子となって空気中を漂っている。
古書のインクと、乾燥した紙の匂い。
窓際の席、その一番端の死角で、ミラとアルは肩を寄せ合って自習をしていた。
「……ミラ」
ページを捲る音が止まり、アルが甘えたような声を落とす。
「ん? どうしたの?」
「この数式、解けないんだ。……教えて」
彼が眼鏡をずらし、ミラのノートを覗き込んでくる。
教科書に書かれているのは、魔力の循環に関する基礎的な理論だ。
世界最強の勇者が、こんな初歩的なことで躓くはずがない。
けれど、彼はわざと「できないフリ」をして、身体を寄せてくるのだ。
「もう、アーレン君ったら。……ここはね、こうやって魔力の流れをイメージするの」
ミラが教えようと顔を寄せると、アルの吐息が頬にかかる。
彼は嬉しそうに黄金の瞳を細め、机の下でこっそりとミラの小指を握った。
彼の指先はいつも少し冷たい。
けれど、そこから伝わる執着のような熱に、ミラの心臓はトクトクと早鐘を打つ。
穏やかな時間。
このまま、世界が終わるまでこうしていられたら。
そんな淡い願いを抱いた、その時だった。
「あの、すみません」
不意に、向かいの席に座っていた男子生徒がミラに声をかけた。
真面目そうな、銀縁眼鏡をかけた生徒だ。
「ペンのインクが切れちゃって……もし予備があったら、貸してもらえませんか?」
「え? あ、はい。どうぞ」
ミラは何気なく答え、筆箱に手を伸ばそうとした。
人として当然の親切。ただそれだけのつもりだった。
グイッ。
「……っ!?」
机の下で、足首を強い力で掴まれた。
心臓が跳ね上がる。
見れば、隣で本を読んでいるフリをしたアルが、無表情のままミラの足を自分の両足で挟み込み、逃げられないように拘束している。
(ちょ、アル!? 痛い……!)
ミラが驚いて横を見ると、彼は教科書から視線を外さず、唇だけで『無視して』と告げた。
眼鏡の奥。
先ほどまで甘く揺れていた黄金の瞳が、今は爬虫類のように冷たく細められている。
そこには、獲物を囲い込むような、暗く重い独占欲だけが渦巻いていた。
「……あ」
ミラは息を呑んだ。
彼の足の力が、じわじわと強くなる。
「よそ見をするな」「他の男と話すな」「お前は僕のものだ」
そんな無言の圧力が、足首から這い上がり、ミラの背筋を凍らせていく。
それは嫉妬という可愛いものではなく、自分の所有物が勝手に動くことを許さない、絶対的な支配者の気配だった。
「……あ、ごめんなさい。やっぱり、予備がなかったみたいです」
ミラは引きつった笑みで、男子生徒に告げた。
断らなければならない。
もしここで彼にペンを渡せば、隣にいる「猛獣」が何をするかわからないという、本能的な恐怖があったからだ。
「そ、そうですか。失礼しました……」
男子生徒は、アーレンから放たれる異様なプレッシャーに怯えたのか、そそくさと席を立っていった。
彼が去った後も、アルは足を離さなかった。
むしろ、より深く、絡め取るように拘束を強める。
机の下の密やかな攻防。誰にも見えない場所での、歪んだ愛撫。
「……意地悪ね。ペンくらい、貸してあげてもいいのに」
ミラが小声で抗議すると、アルはようやく顔を上げた。
その表情は、どこか虚ろで、それでいて子供のように純粋な残酷さを帯びていた。
「だめだ。君が他の男に優しくするのがいけない」
「……アル?」
「僕がいない間、君は誰に優しくしてたの? 誰に笑いかけてたの? ……想像するだけで、頭がおかしくなりそうだったんだ」
彼は机の下で、ミラの足首を愛おしげに撫でた。
その指先は震えている。
怒っているのではない。怯えているのだ。
ミラという存在が、自分の手の届かない場所へ行ってしまうことを。
「僕を見て、ミラ。……お願いだから、僕だけを見て」
切実な懇願。
それは、ミラという存在に縋り付かなければ自我を保てない、悲痛な叫びのように聞こえた。
ミラは動けなかった。
ただ、彼の深い孤独に絡め取られ、図書室の重い空気に沈んでいくしかなかった。
****
翌日の昼休み。
人目を避けるため、二人は誰もいない屋上に来ていた。
風は冷たいが、澄み渡った青空が広がっている。
遠くには、雪を頂いた山々が白く輝いていた。
「あーん」
「……自分で食べてよ、もう」
「やだ。今日は手が痺れて動かないんだ」
そんな見え透いた嘘をついて、アルはミラの膝に頭を乗せて寝転がっていた。
サンドイッチを要求するその姿は、世界を救う英雄の威厳など欠片もない。
ミラは呆れつつも、パンを千切って彼の口へと運んだ。
「美味しい?」
「うん。……世界で一番」
アルは幸せそうに目を細め、咀嚼する。
ミラの太ももの感触を楽しむように、頬を擦り寄せてくる。
その髪は柔らかく、体温は温かい。
ここにあるのは、ただの平和な昼下がり――のはずだった。
ふと、上空を一羽の鳥が横切った。
何の変哲もない、ただの鳶だ。
ヒュンッ――。
風を切る音がした瞬間。
アルの動きが、ピタリと止まった。
視線が鋭く空を射抜く。
その瞳から、瞬時にして「感情」という色彩が消え失せた。
先ほどまでミラに向けられていた愛おしげな色はなく、ただ標的との距離を測るような、無機質で透明な瞳。
そこに「アルヴィン」という人格は存在しないように見えた。
あるのは、敵を排除するためだけに研ぎ澄まされた、抜き身の刃のような殺気だけ。
(……アル?)
ミラは息を呑んだ。
言葉を発することも、表情を変えることもなく。
ただ静かに、瞳孔だけが機械のように収縮して、空を飛ぶ鳥を追尾している。
私の膝の上にいるのに、彼の魂だけが、ここではないどこか遠くへ行ってしまっている。
あの血塗られた戦場へ。
命を奪い、奪われるだけの修羅の世界へ。
彼からは殺気すら感じない。
ただ「作業」として、空の生き物を処理しようとする冷たい気配だけが漂っている。
ミラは恐怖を感じた。
目の前にいる彼が、自分の知っているアルではなく、得体の知れない「何か」に変わってしまったような気がして。
「アル!」
ミラが強く肩を揺さぶると、彼はハッと瞬きをして、我に返った。
瞳に光が戻り、焦点がミラへと合う。
「……あ、ごめん。ぼーっとしてた」
彼は笑った。
けれど、その笑顔はどこか引きつり、仮面のように薄っぺらだった。
自分の内側に広がる空洞を、必死に隠そうとするかのように。
「空が、綺麗だね」
その言葉が、ひどく空々しく響く。
ミラは胸が締め付けられる思いで、彼の冷たくなった頬を撫でることしかできなかった。
彼の心に空いた穴は、ミラの愛を持ってしても埋められないほど、深く、暗いものなのかもしれない。
****
「次はアーレンとミラのペアだ」
その日の午後は、合同授業での模擬戦だった。
担当教官はシアンだ。彼は面白がるような視線を二人に向けると、闘技場の中央へと呼び出した。
「相手は俺が作ったゴーレムだ。……まあ、適当にやってくれ」
シアンが指を鳴らすと、土塊でできた巨大な人形が動き出した。
重い足音が地面を揺らす。
アルは正体を隠すため、魔法が苦手な「落ちこぼれ」を演じなければならない。
へっぴり腰で杖を構える姿に、周囲からはクスクスと笑い声が漏れる。
「ミラ、下がりな。僕が守るから(震え声)」
「ええ、頼りにしてるわ、アーレン君(棒読み)」
そんな茶番を繰り広げていた、その時だった。
ゴーレムの制御術式が乱れ、予定外の魔力が暴走した。
ゴーレムの腕から、巨大な火球がでたらめに発射されたのだ。
「っ、危ない!」
火球は軌道を逸れ、ミラの足元へと飛んできた。
避ける暇はない。
熱波が顔を焼き、視界が赤く染まる。
直撃する――そう覚悟して、目を閉じた瞬間。
ザンッ!!
空気を切り裂く、鋭い音がした。
目を開けたミラの前に、アルの背中があった。
彼は魔法を使ったわけではない。
ただ、持っていた訓練用の杖を振っただけだ。
それなのに、迫りくる火球は真っ二つに裂かれ、左右へと霧散していた。
「……え?」
時間は止まったようだった。
火の粉が雪のように舞い散る中、アルはミラの腰を抱きかかえていた。
その動きには、予備動作も、迷いも、思考すらも介在していない。
ただ脊髄に刻み込まれた、純粋な戦闘本能。
人間はおろか、高位の魔族すら凌駕する神速の反応速度。
それは、訓練で身につくレベルを超えていた。
生き物としての「作り」が違う。
まるで、戦うために作られた精巧な人形が、プログラム通りに動いたかのような、不気味なほどの完璧さ。
「……あ」
静寂の中で、アルが我に返ったように杖を落とした。
彼は慌ててへたり込み、震える演技を始めた。
「うわぁ、びっくりした……! ぐ、偶然、足が滑って……杖が当たっちゃったよ」
周囲の生徒たちは「すげえ!」「運がいいな」「奇跡だ」と笑って騒いでいる。
けれど、ミラは笑えなかった。
彼が咄嗟に見せた動きは、あまりにも人間離れしていて、美しく、そして恐ろしかったからだ。
「……反射神経というより、身体に刻まれた呪いだな」
教官席にいたシアンの呟きが、風に乗ってミラの耳に届いた。
彼は眼鏡の奥で、冷ややかな瞳をアルに向けていた。
「思考する前に、敵を殺すように身体が動く。……あれはもう、人間としての防衛本能じゃない」
シアンの言葉に、ミラは背筋が凍る思いがした。
アルが笑って誤魔化しているその姿が、どこか痛々しく、そして遠い存在に見えた。
「大丈夫? ミラ」
アルが駆け寄ってくる。
その笑顔は優しい。
けれど、ミラはその笑顔の裏に、底知れない闇が広がっているのを感じずにはいられなかった。
一週間という期限。
その砂時計の砂が落ちるたびに、彼の「完璧な強さ」と「摩耗した心」の乖離が、残酷なまでに浮き彫りになっていく。
ミラは震える手で、彼の袖を強く掴んだ。
この手が、彼をこちらの世界――人間としての世界に繋ぎ止める、最後の命綱であるかのように。




