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勇者と幼なじみの物語―あざと勇者の愛が重すぎる―  作者: 華乃ぽぽ
4章

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泡沫の日常


翌日から、ミラと「アーレン」の、奇妙で秘密めいた学園生活が幕を開けた。

特別留学生という肩書きと、シアンが用意した認識阻害の眼鏡。

それらのおかげで、彼が伝説の勇者であることに気づく者はいない。


彼は影の薄い、少し病弱な文学少年として振る舞い、ミラはその「お世話係」という体裁をとっていた。

傍から見れば、世話焼きな女子生徒と、それに頼る大人しい男子生徒。

けれど、その内実はまるで違っていた。


「ミラちゃん、またアーレン君と一緒?」

「うん。……ちょっと、放っておけなくて」


友人たちの問いかけに、ミラは曖昧な苦笑いで答える。

嘘ではない。今の彼は、一時も目を離せないほど不安定で、そして硝子細工のように脆かったからだ。



****


放課後の図書室は、世界から切り離されたように静まり返っていた。

西日が長く伸び、舞い上がる埃が金色の粒子となって空気中を漂っている。

古書のインクと、乾燥した紙の匂い。

窓際の席、その一番端の死角で、ミラとアルは肩を寄せ合って自習をしていた。


「……ミラ」


ページを捲る音が止まり、アルが甘えたような声を落とす。


「ん? どうしたの?」

「この数式、解けないんだ。……教えて」


彼が眼鏡をずらし、ミラのノートを覗き込んでくる。

教科書に書かれているのは、魔力の循環に関する基礎的な理論だ。

世界最強の勇者が、こんな初歩的なことで躓くはずがない。

けれど、彼はわざと「できないフリ」をして、身体を寄せてくるのだ。


「もう、アーレン君ったら。……ここはね、こうやって魔力の流れをイメージするの」


ミラが教えようと顔を寄せると、アルの吐息が頬にかかる。

彼は嬉しそうに黄金の瞳を細め、机の下でこっそりとミラの小指を握った。

彼の指先はいつも少し冷たい。

けれど、そこから伝わる執着のような熱に、ミラの心臓はトクトクと早鐘を打つ。


穏やかな時間。

このまま、世界が終わるまでこうしていられたら。

そんな淡い願いを抱いた、その時だった。


「あの、すみません」


不意に、向かいの席に座っていた男子生徒がミラに声をかけた。

真面目そうな、銀縁眼鏡をかけた生徒だ。


「ペンのインクが切れちゃって……もし予備があったら、貸してもらえませんか?」


「え? あ、はい。どうぞ」


ミラは何気なく答え、筆箱に手を伸ばそうとした。

人として当然の親切。ただそれだけのつもりだった。


グイッ。


「……っ!?」


机の下で、足首を強い力で掴まれた。

心臓が跳ね上がる。

見れば、隣で本を読んでいるフリをしたアルが、無表情のままミラの足を自分の両足で挟み込み、逃げられないように拘束している。


(ちょ、アル!? 痛い……!)


ミラが驚いて横を見ると、彼は教科書から視線を外さず、唇だけで『無視して』と告げた。

眼鏡の奥。

先ほどまで甘く揺れていた黄金の瞳が、今は爬虫類のように冷たく細められている。

そこには、獲物を囲い込むような、暗く重い独占欲だけが渦巻いていた。


「……あ」


ミラは息を呑んだ。

彼の足の力が、じわじわと強くなる。

「よそ見をするな」「他の男と話すな」「お前は僕のものだ」

そんな無言の圧力が、足首から這い上がり、ミラの背筋を凍らせていく。

それは嫉妬という可愛いものではなく、自分の所有物が勝手に動くことを許さない、絶対的な支配者の気配だった。


「……あ、ごめんなさい。やっぱり、予備がなかったみたいです」


ミラは引きつった笑みで、男子生徒に告げた。

断らなければならない。

もしここで彼にペンを渡せば、隣にいる「猛獣」が何をするかわからないという、本能的な恐怖があったからだ。


「そ、そうですか。失礼しました……」


男子生徒は、アーレンから放たれる異様なプレッシャーに怯えたのか、そそくさと席を立っていった。


彼が去った後も、アルは足を離さなかった。

むしろ、より深く、絡め取るように拘束を強める。

机の下の密やかな攻防。誰にも見えない場所での、歪んだ愛撫。


「……意地悪ね。ペンくらい、貸してあげてもいいのに」


ミラが小声で抗議すると、アルはようやく顔を上げた。

その表情は、どこか虚ろで、それでいて子供のように純粋な残酷さを帯びていた。


「だめだ。君が他の男に優しくするのがいけない」


「……アル?」


「僕がいない間、君は誰に優しくしてたの? 誰に笑いかけてたの? ……想像するだけで、頭がおかしくなりそうだったんだ」


彼は机の下で、ミラの足首を愛おしげに撫でた。

その指先は震えている。

怒っているのではない。怯えているのだ。

ミラという存在が、自分の手の届かない場所へ行ってしまうことを。


「僕を見て、ミラ。……お願いだから、僕だけを見て」


切実な懇願。

それは、ミラという存在に縋り付かなければ自我を保てない、悲痛な叫びのように聞こえた。

ミラは動けなかった。

ただ、彼の深い孤独に絡め取られ、図書室の重い空気に沈んでいくしかなかった。




****


翌日の昼休み。

人目を避けるため、二人は誰もいない屋上に来ていた。

風は冷たいが、澄み渡った青空が広がっている。

遠くには、雪を頂いた山々が白く輝いていた。


「あーん」

「……自分で食べてよ、もう」

「やだ。今日は手が痺れて動かないんだ」


そんな見え透いた嘘をついて、アルはミラの膝に頭を乗せて寝転がっていた。

サンドイッチを要求するその姿は、世界を救う英雄の威厳など欠片もない。

ミラは呆れつつも、パンを千切って彼の口へと運んだ。


「美味しい?」

「うん。……世界で一番」


アルは幸せそうに目を細め、咀嚼する。

ミラの太ももの感触を楽しむように、頬を擦り寄せてくる。

その髪は柔らかく、体温は温かい。

ここにあるのは、ただの平和な昼下がり――のはずだった。


ふと、上空を一羽の鳥が横切った。

何の変哲もない、ただのとびだ。


ヒュンッ――。


風を切る音がした瞬間。

アルの動きが、ピタリと止まった。


視線が鋭く空を射抜く。

その瞳から、瞬時にして「感情」という色彩が消え失せた。


先ほどまでミラに向けられていた愛おしげな色はなく、ただ標的との距離を測るような、無機質で透明な瞳。

そこに「アルヴィン」という人格は存在しないように見えた。

あるのは、敵を排除するためだけに研ぎ澄まされた、抜き身の刃のような殺気だけ。


(……アル?)


ミラは息を呑んだ。

言葉を発することも、表情を変えることもなく。

ただ静かに、瞳孔だけが機械のように収縮して、空を飛ぶ鳥を追尾している。

私の膝の上にいるのに、彼の魂だけが、ここではないどこか遠くへ行ってしまっている。

あの血塗られた戦場へ。

命を奪い、奪われるだけの修羅の世界へ。


彼からは殺気すら感じない。

ただ「作業」として、空の生き物を処理しようとする冷たい気配だけが漂っている。

ミラは恐怖を感じた。

目の前にいる彼が、自分の知っているアルではなく、得体の知れない「何か」に変わってしまったような気がして。


「アル!」


ミラが強く肩を揺さぶると、彼はハッと瞬きをして、我に返った。

瞳に光が戻り、焦点がミラへと合う。


「……あ、ごめん。ぼーっとしてた」


彼は笑った。

けれど、その笑顔はどこか引きつり、仮面のように薄っぺらだった。

自分の内側に広がる空洞を、必死に隠そうとするかのように。


「空が、綺麗だね」


その言葉が、ひどく空々しく響く。

ミラは胸が締め付けられる思いで、彼の冷たくなった頬を撫でることしかできなかった。

彼の心に空いた穴は、ミラの愛を持ってしても埋められないほど、深く、暗いものなのかもしれない。




****


「次はアーレンとミラのペアだ」


その日の午後は、合同授業での模擬戦だった。

担当教官はシアンだ。彼は面白がるような視線を二人に向けると、闘技場の中央へと呼び出した。


「相手は俺が作ったゴーレムだ。……まあ、適当にやってくれ」


シアンが指を鳴らすと、土塊でできた巨大な人形が動き出した。

重い足音が地面を揺らす。

アルは正体を隠すため、魔法が苦手な「落ちこぼれ」を演じなければならない。

へっぴり腰で杖を構える姿に、周囲からはクスクスと笑い声が漏れる。


「ミラ、下がりな。僕が守るから(震え声)」

「ええ、頼りにしてるわ、アーレン君(棒読み)」


そんな茶番を繰り広げていた、その時だった。

ゴーレムの制御術式が乱れ、予定外の魔力が暴走した。

ゴーレムの腕から、巨大な火球がでたらめに発射されたのだ。


「っ、危ない!」


火球は軌道を逸れ、ミラの足元へと飛んできた。

避ける暇はない。

熱波が顔を焼き、視界が赤く染まる。

直撃する――そう覚悟して、目を閉じた瞬間。


ザンッ!!


空気を切り裂く、鋭い音がした。


目を開けたミラの前に、アルの背中があった。

彼は魔法を使ったわけではない。

ただ、持っていた訓練用の杖を振っただけだ。

それなのに、迫りくる火球は真っ二つに裂かれ、左右へと霧散していた。


「……え?」


時間は止まったようだった。

火の粉が雪のように舞い散る中、アルはミラの腰を抱きかかえていた。

その動きには、予備動作も、迷いも、思考すらも介在していない。

ただ脊髄に刻み込まれた、純粋な戦闘本能。

人間はおろか、高位の魔族すら凌駕する神速の反応速度。


それは、訓練で身につくレベルを超えていた。

生き物としての「作り」が違う。

まるで、戦うために作られた精巧な人形が、プログラム通りに動いたかのような、不気味なほどの完璧さ。


「……あ」


静寂の中で、アルが我に返ったように杖を落とした。

彼は慌ててへたり込み、震える演技を始めた。


「うわぁ、びっくりした……! ぐ、偶然、足が滑って……杖が当たっちゃったよ」


周囲の生徒たちは「すげえ!」「運がいいな」「奇跡だ」と笑って騒いでいる。

けれど、ミラは笑えなかった。

彼が咄嗟に見せた動きは、あまりにも人間離れしていて、美しく、そして恐ろしかったからだ。


「……反射神経というより、身体に刻まれた呪いだな」


教官席にいたシアンの呟きが、風に乗ってミラの耳に届いた。

彼は眼鏡の奥で、冷ややかな瞳をアルに向けていた。


「思考する前に、敵を殺すように身体が動く。……あれはもう、人間としての防衛本能じゃない」


シアンの言葉に、ミラは背筋が凍る思いがした。

アルが笑って誤魔化しているその姿が、どこか痛々しく、そして遠い存在に見えた。


「大丈夫? ミラ」


アルが駆け寄ってくる。

その笑顔は優しい。

けれど、ミラはその笑顔の裏に、底知れない闇が広がっているのを感じずにはいられなかった。


一週間という期限。

その砂時計の砂が落ちるたびに、彼の「完璧な強さ」と「摩耗した心」の乖離が、残酷なまでに浮き彫りになっていく。

ミラは震える手で、彼の袖を強く掴んだ。

この手が、彼をこちらの世界――人間としての世界に繋ぎ止める、最後の命綱であるかのように。


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