黒縁眼鏡の転校生
翌朝。
冬の冷たい空気が張り詰める教室に、予鈴の音が鳴り響いた。
ミラは頬杖をつき、窓の外の曇り空を眺めていた。
昨日のシアンの言葉――『明日から面白いことになる』という予言が、喉に刺さった小骨のように気にかかっていた。
(面白いことなんて、今は求めてないのに)
卒業後の進路。半魔という秘密。
答えの出ない問いが頭の中をグルグルと回り、ミラの気分は鉛のように重かった。
ガラリ、と教室の扉が開く。
「はーい、席につけ。ホームルームを始めるぞ」
入ってきたのは、いつもの担任教師ではなく、豪奢なローブをラフに着崩したシアンだった。
彼は王宮魔術師としての公務の合間、週に数回だけ「臨時特別教官」として学園で実技指導を行っている。
女子生徒たちからは「シアン様!」と黄色い声が上がるが、彼の実態を知るミラとフランだけは、冷ややかな視線を送っていた。
「今日は担任が風邪で休みだ。代わりに俺が、新しい仲間を紹介する」
シアンが教卓に手をつき、ニヤリと口角を上げた。その視線が、一瞬だけミラの方を見て意味深に細められる。
「入れよ、アーレン」
シアンの手招きで、教室に入ってきたのは一人の男子生徒だった。
「…………」
教室の空気が、微妙なものになる。
期待に胸を膨らませていた女子生徒たちが、あからさまに落胆の息を漏らしたからだ。
現れた少年は、地味だった。
ボサボサの黒髪に、顔の半分を覆うような分厚い黒縁眼鏡。
制服のサイズが合っていないのか、少し猫背気味で、自信なさげに俯いている。
華やかさの欠片もない、陰気な文学少年といった風情だ。
「……アーレンです。短期の留学生として、来ました。……よ、よろしくお願いします」
蚊の鳴くような声。
クラスメイトたちは興味を失い、早くも私語を始めている。
「なんか暗いね」「どこの田舎から来たのかしら」
そんな囁きが聞こえる中、ミラだけは、心臓が凍りついたように動けなくなっていた。
(……嘘)
彼がおずおずと顔を上げ、教室を見渡した、その一瞬。
分厚いレンズの奥で、キラリと異質な光彩を見たからだ。
溶けた黄金のような、鮮烈な金色の瞳。
視線が合った。
その瞬間、彼の瞳が「見つけた」とばかりに大きく揺れ、次いで愛おしげに、とろけるように細められたのを、ミラは見逃さなかった。
(アル……!?)
間違えるはずがない。
髪の色を魔法で変えようと、眼鏡で顔を隠そうと、あの瞳だけは。
ミラを焦がすような熱を孕んだあの眼差しだけは、世界でたった一人、彼だけのものだ。
「席は……そうだな。一番後ろの窓際が空いてるか」
シアンが指差したのは、ミラの席のすぐ後ろだった。
アーレン――アルヴィンは、コククリと頷くと、逃げるように通路を歩いてくる。
ミラの横を通り過ぎる時。
ふわりと、懐かしい匂いが鼻を掠めた。
冬の風の匂いと、彼特有の微かな体温の香り。
「……よろしく」
通りすがりに落とされた小さな声は、教室の誰にも聞こえない音量だったけれど、ミラの鼓膜を震わせるには十分だった。
彼は席に着くと、教科書を立てて顔を隠してしまった。
けれど、その教科書の隙間から、黄金の瞳がずっとこちらの背中を見つめている気配がして、ミラの背筋は粟立っていた。
†
休み時間になっても、アーレンの席に近づく生徒はいなかった。
彼は壁を作って人を遠ざけているし、その陰気なオーラが話しかけづらい雰囲気を作っていたからだ。
「ねえミラちゃん、あの子、なんか変わってるね」
「う、うん……そうだね」
ナンナの言葉に曖昧に頷きながら、ミラは気が気ではなかった。
後ろからの視線が痛い。
じっとりとした熱量が、背中を通して心臓まで届きそうだ。
(どうしてここに? 魔王討伐はどうしたの? まさか、脱走……?)
悪い想像ばかりが膨らむ。
もし彼が任務を放り出して会いに来たのだとしたら、大問題だ。
それに、もし正体がバレたら、学園中がパニックになる。
「……ちょっと、私、用事があるから」
ミラは耐えきれなくなり、席を立った。
振り返ると、教科書の陰から黄金の瞳がこちらを見上げている。
ミラは目配せで「来て」と合図を送り、教室を出た。
人気のない旧校舎の裏。
冬枯れた蔦が絡まる煉瓦壁の前に、ミラは立った。
数秒後、背後から足音が近づいてくる。
「……ミラ」
愛おしげに名前を呼ばれた瞬間、強い力で腕を引かれた。
「きゃっ!?」
引き込まれたのは、壁と柱の死角だった。
背中が冷たい煉瓦に当たり、逃げ場を塞がれる。
目の前には、黒縁眼鏡の少年。
「……やっと、二人きりになれた」
「アーレン」は眼鏡を外し、前髪をかき上げた。
その仕草だけで、陰気な少年の雰囲気が霧散し、隠しきれない覇気と色気が溢れ出す。
黄金の瞳が、至近距離でミラを射抜いていた。
「……アル、なの?」
「うん。久しぶりだね、ミラ」
アルヴィンは、へにゃりと相好を崩した。
それは、幼い頃から見慣れた、ミラだけに向けられる無防備な笑顔だった。
けれど、その笑顔の下には、以前よりも深い隈と、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
「どういうこと? 手紙じゃ、前線にいるって……」
「嘘ついてごめん。……でも、どうしても君に会いたかったんだ」
アルはミラの肩に頭を預け、全体重をかけてきた。
ずしりと重い。
世界を救う英雄の重圧が、そのままのしかかってくるようだ。
「休暇をもらったんだ」
「休暇?」
「うん。ちょっと働きすぎちゃってね。シュナとクリオに『少しは頭を冷やしてこい』って追い出されちゃった」
アルは自嘲気味に笑った。
嘘ではないのだろう。けれど、全てを話しているわけでもなさそうだ。
彼の声には、単なる疲労以上の、どこか擦り切れたような響きがあった。
「一週間だけ。……一週間だけ、僕は勇者じゃない」
アルは顔を上げ、ミラの頬に手を添えた。
その手は氷のように冷たく、微かに震えている。
「ただの学生として、君のそばにいさせて。……お願いだ、ミラ」
拒絶など、できるはずがなかった。
彼は笑っているけれど、その瞳の奥は、迷子の子供のように怯えていた。
私が突き放したら、このまま壊れてしまいそうな危うさ。
(……ずるいよ、アル)
卒業後に消えるべきか悩んでいるのに。
こんな風に縋られたら、離れられるわけがない。
「……わかったわ。アーレン君」
ミラはため息混じりに、彼の冷たい手を自分の両手で包み込んだ。
「おかえりなさい。……待ってたよ」
その言葉を聞いた瞬間、アルの瞳が潤み、安堵に揺れた。
彼はミラの首筋に顔を埋め、深く、長く息を吐いた。
まるで、酸素のない深海から浮上して、ようやく呼吸ができたかのように。
「……ただいま、ミラ」
冷たい風が吹く校舎の裏で、二人は身を寄せ合った。
離れていた時間を埋めるように、アルの腕に力がこもる。
痛いほど強く、そして切実な抱擁だった。
「……で、その格好は?」
「シアンが用意してくれた。『地味な学生』に見える認識阻害の眼鏡だって」
落ち着きを取り戻したミラが尋ねると、アルは眼鏡をかけ直し、少し誇らしげに笑った。
「どう? 似合う?」
「……素材が良すぎて、隠しきれてないわよ」
「えー、自信作なんだけどな」
アルは不満そうに唇を尖らせる。
その表情は、勇者ではなく、ただの年下の幼なじみのものだ。
「ねえミラ。放課後、一緒に帰ろう? 荷物の整理もあるし」
「ええ、いいけど……そっちは男子寮の方向じゃないわよ?」
アルが向かおうとした方向を見て、ミラは首を傾げた。
一般の男子寮は、校舎の東側にある。しかし、アルが足を踏み出したのは、森へと続く西側の道だった。
「ううん、こっちで合ってるんだ」
アルは眼鏡の奥で、悪戯っぽく目を細めた。
「僕は『特別寮』に入ることになったから」
「……特別寮?」
ミラは目を丸くした。
特別寮といえば、王族や高位貴族、あるいは特別な事情を抱えた生徒のみが入居を許される、森の奥の瀟洒な館だ。
一般生徒であるミラたちには縁のない、隔離された場所でもある。
「シアンと宰相閣下が手配してくれたんだ。『病弱な留学生には静養が必要だろう』ってね」
「……さすが、仕事が早いわね」
「それに、あそこなら監視も緩いし、部屋も広いし……誰にも邪魔されない」
アルは耳元に顔を寄せ、甘い声で囁いた。
「君をこっそり連れ込むのにも、都合がいいだろ?」
「っ! ……ばか」
ミラが顔を赤くすると、アルは楽しそうに笑って、ミラの指に自分の指を絡めた。
恋人繋ぎ。
誰かに見られたら言い訳できない。けれど、特別寮へと続く人気の少ないこの道なら、誰にも咎められない。
「行こう、ミラ。……君と歩きたかったんだ」
一週間。
たった七日間の、仮初めの学園生活。
それはきっと、神様がくれた最後の猶予なのだろう。
ミラは彼の手の温もりを感じながら、胸の奥の迷いに一時だけ鍵をかけて閉じ込めた。
(今だけは。……この一週間だけは、何も考えずにそばにいよう)
それが、やがて来る別れをより辛いものにすると分かっていても、今のミラには彼の手を離すことなどできなかった。




