凍りついた茶会
「さあ、立ち話もなんです。冷えたでしょう、どうぞこちらへ」
ファルカの勧めで、一行は屋敷の奥にある談話室へと移動することになった。
窓の外では、砂混じりの風がゴウゴウと唸りを上げている。時折、窓ガラスがガタガタと震える音が、室内の張り詰めた空気をより一層際立たせていた。
暖炉には赤々と火が焚かれ、メイドたちが手際よく湯気の立つ紅茶を運んでくる。
最高級の茶葉の香りが漂う優雅な空間。
けれど、ソファーの端に腰を下ろしたミラの指先は、氷のように冷たいままだった。
(どうしよう……心臓の音が、聞こえちゃいそう)
ミラは膝の上で両手を強く握りしめ、震えを必死に抑え込んだ。
向かいの席には、この国で最も高貴で、そして今、最もミラが顔を合わせたくない相手――勇者一行が座っている。
「改めまして。リゼリア子爵家長男、ファルカです。こちらは妹のナンナ、友人のフラン嬢、そして……」
ファルカが、流れるような動作で掌をミラに向けた。
「私の恩人である、ミラ嬢です」
その紹介の瞬間。
優雅にティーカップに口をつけていたアルヴィンの指が、ぴたりと止まった。
彼はゆっくりとカップをソーサーに戻す。カチャリ、という硬質な音が、静寂の中で不気味に響いた。
「……丁寧な紹介を感謝する、リゼリア卿。勇者のアルヴィンだ」
アルの声は、鈴を転がすように滑らかで、そして恐ろしいほど抑揚がない。
彼は完璧な「勇者の微笑み」を浮かべているが、その黄金の瞳は笑っていない。
テーブルの影、膝の上に置かれた拳には、血管が浮き出るほど力が込められているのを、ミラだけが見てしまった。
「彼女が、君の恩人? ……ただの学生に見えるが」
アルが何気ない風を装って尋ねる。
するとファルカは、待ってましたとばかりに熱っぽく語り始めた。
「ええ、そうですとも! 我が領地は数年前の干ばつ以来、復興が遅れ、悪徳商人の借金に苦しめられていました。ですが、彼女がその状況を変えてくれたのです」
ファルカは敬愛の眼差しでミラを見つめる。
「彼女が王都で宰相閣下に掛け合ってくださったおかげで、我が家に『特別復興支援金』が下りました。その資金のおかげで、借金は完済され、こうして領地も息を吹き返したのです」
「い、いえっ! 私はそんな大層なことは……! たまたま、私の個人的な事情で宰相様とお話する機会があっただけで……」
ミラは慌てて否定する。
実際は、エリーゼ姫の干渉を避けるために相談した結果、ついでにルームメイトであるナンナの実家も支援されたという、いわば「棚ぼた」だったのだ。
けれど、ファルカにとって事実は関係ないようだった。
「ご謙遜を。結果として、貴女の存在が国を動かし、私たちを絶望の淵から救い上げてくださった。……私にとって貴女は、まさにリゼリアに舞い降りた『幸運の女神』なのです」
「め、女神だなんて……」
ファルカは悪気なく、むしろ誇らしげに語る。
それが、目の前の勇者の導火線をジリジリと焼いていることにも気づかずに。
「女神、か。……なるほど」
アルヴィンが、低く呟いた。
その声に含まれた冷ややかな熱量に、隣に座っていた聖女シュナがビクリと肩を震わせ、「あーあ……」と小さく天を仰いだ。聖騎士クリオに至っては、見てはいけないものを見たように顔を逸らし、気まずそうに咳払いをしている。
彼らは知っているのだ。
アルヴィンがどれほどミラに執着し、彼女を誰にも触れさせないよう「安全な場所」に隔離してきたつもりでいたかを。
(まずい、アルが……)
ミラがおそるおそる顔を上げると、そこには射抜くような視線があった。
「……随分と、感謝されているようだね。ミラ嬢」
アルの黄金の瞳が、粘着質にミラへと絡みつく。
(僕が知らない間に。僕の預かり知らぬ場所で。……君は、他の男の『女神』になっていたのか?)
声には出さない言葉が、痛いほど伝わってくる。
彼は、自分が唯一の「ミラの守護者」であると自負していたはずだ。
それなのに、ここでは別の男が彼女を崇め、彼女もそれを否定しきれずにいる。その構図が、勇者のプライドと独占欲を強烈に刺激していた。
「あ、あのっ! 勇者様、お茶のおかわりはいかがですか!?」
耐えきれなくなったミラが、裏返った声で話題を変えようとする。
するとアルは、ふっと目を細め、甘く、けれど絶対零度の冷たさを秘めた声で答えた。
「ありがとう、ミラ嬢。……君は、気が利くね」
名前を呼ばれただけで、背筋に電流が走る。
彼はカップを受け取る際、ほんの一瞬だけ、ミラの指先に自身の指を這わせた。
偶然を装った接触。けれど、そこから伝わる「あとで覚えていろ」という意思表示に、ミラは息を呑んだ。
「ところで、勇者様。聖剣の調査というのは……」
ファルカが話題を任務へと戻す。
アルは名残惜しそうにミラから視線を外し、表情を真剣なものへと切り替えた。
「ああ。ここより北にある遺跡で、封印の綻びが確認された。魔王軍の残党が活性化している影響だろう。……明日、嵐が収まり次第、僕たちが回収に向かう」
「なんと……。微力ながら、私も警備兵を出しましょう」
「助かる。……だが、一般人は決して近づけないようにしてほしい。危険すぎる」
アルはそこで言葉を切り、再びチラリとミラを見た。
「特に、好奇心旺盛な学生などが迷い込まないよう……厳重に、ね」
それは明らかに、勝手に学園を抜け出し、危険な旅に出たミラへの当てつけだった。
ミラは小さくなり、紅茶の水面を見つめることしかできない。
「もちろんです。私の大切な客人を、危険な目に合わせるわけにはいきませんから」
ファルカが胸を張って請け合う。
その「大切」という言葉に、アルの瞳が一瞬だけ爬虫類のように細められた。
「……そうか。君にとっても『大切』なのか」
アルはカップを持ち上げ、口元を隠すようにして呟いた。
その声の冷たさに、鈍感なファルカも少しだけ首を傾げる。
「さて。長旅で疲れただろう。部屋を用意させてある」
ファルカの合図で、お開きとなった。
勇者一行は客室へ、ミラたちはそれぞれの部屋へと戻ることになる。
立ち上がり際、すれ違いざまに。
アルがミラの横を通り抜ける瞬間、風のような速さで囁いた。
「……あとで、部屋に行く」
誰にも聞こえない、吐息のような声。
けれどそれは、逃げ場のない決定的な宣告だった。
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深夜。
屋敷を包む砂混じりの風は、唸りを上げて窓を叩き続けていた。
ガタガタと震える窓枠の音が、ミラの不安を煽るメトロノームのように響く。
ミラは寝間着の上からショールを羽織り、ベッドの端で膝を抱えていた。
部屋の扉には鍵をかけた。椅子も立てかけた。
けれど、そんな物理的な拒絶が、「最強の勇者」である彼に通用しないことなど、ミラ自身が一番よく分かっていた。
(来る……絶対に、来る)
夕食の去り際に残された、あの冷たい宣告が耳から離れない。
怒られるのだろうか。それとも、呆れられるのだろうか。
想像するだけで胃が冷たくなる。
カチャリ。
重い金属音が、砂嵐の音の合間に響いた。
ミラはビクリと肩を震わせ、扉を凝視する。
鍵をかけたはずのノブが、音もなく、ゆっくりと回っていく。
魔術による解錠だ。抵抗など許さないという、静かで強引な意志。
扉が開くと、廊下の冷気と共に、白いシャツ姿の男が入ってきた。
日中の煌びやかな軍服は脱ぎ捨てられ、首元のボタンを少し寛げている。
乱れた銀髪の隙間から覗く黄金の瞳は、昼間よりもずっと暗く、深く沈殿していた。
「……アル」
震える声で名前を呼ぶ。
アルヴィンは無言のまま、背後手で扉を閉め、再び鍵をかけた。
カチャリ、という音が、外界との断絶を告げる。
「……どうして」
彼はゆっくりと、音もなく絨毯の上を歩いて近づいてくる。
怒声ではない。けれど、その静けさが何よりも恐ろしい。
「どうして、嘘をついたの? 手紙で、あれほど寮から出ないでとお願いしたのに」
アルはミラの目の前で足を止め、見下ろした。
その瞳には、半年分の渇望と、裏切られた悲しみが入り混じっている。
「ごめん、なさい。でも……」
「こんな辺境まで、護衛もつけずに。……もし君に何かあったら、僕はどうすればよかったんだ? 君が無茶をするから、気が気じゃなかった」
アルはベッドの縁に手を突き、ミラを囲い込むように顔を寄せた。
彼の身体から漂う、冷たい夜気と、微かな残り香。それが、ミラの思考を痺れさせる。
「不自由はないはずだ。学園にいれば安全で、暖かくて……君はただ、そこで笑っていてくれるだけでよかったのに」
「……ただ、待っているだけで?」
ミラの喉から、押し殺していた言葉が漏れる。
「不自由はないわ。でも……私、あなたが帰ってくるのを待つだけの存在になりたくなかったの」
「君を守りたいだけだ!」
アルが声を荒らげる。
いつも冷静沈着な彼が、珍しく感情を露わにしていた。
彼はミラの肩を掴む。痛くはないが、振りほどけない強さだった。
「僕の目の届かない場所には行かないでくれ。君を守れるのは、僕だけなんだ」
「……また、それ」
「え?」
「守る、守るって……私だって、息が詰まりそうなのよ!」
ミラの中で、何かがプツンと切れた。
「それに、あんな男と……! 『女神』だって? 笑わせないでくれ」
アルの声色が、心配から嫉妬へと変わる。
「あいつ、君を見る目が違った。ただの恩人を見る目じゃない。……君も、あいつの隣で満更でもなさそうに笑っていたじゃないか」
「あいつって言わないで! ファルカ様は、ただ親切にしてくれただけよ!」
「親切? 男が女に無償で親切にする理由なんて一つしかない。……あいつは君を狙ってる。君のその笑顔を、自分のものにしようとしてるんだ」
アルの瞳に、嫉妬の炎が揺らめく。
その決めつけるような言い方に、ミラの胸の奥底に溜まっていた澱が爆発した。
「……アルの、バカ」
「……は?」
「アルこそ、どうなのよ!」
ミラは彼の手を振り払うと、涙目で叫んだ。
「私には『安全な場所にいろ』って命令しておいて、自分はずっとシュナさんと一緒じゃない! 今日も、当たり前のように隣に座って……息もぴったりで……!」
半年間、ずっと胸につかえていた不安。
最強の勇者と、美しき聖女。
世界中が「お似合いだ」と噂する二人の姿を、ミラはずっと新聞や手紙の向こう側で、指をくわえて見ているしかなかったのだ。
「私だって……楽しそうにしてるアルを見て、胸が張り裂けそうだったんだから……!」
ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
それを聞いたアルは、驚愕に目を見開き、数秒間、言葉を失った。
「……僕は、仕事だ。巫女との連携は、世界を救うために必要なことで……」
「私にとっては、こっちも必要な息抜きだったのよ!」
「息抜きの相手に、僕以外の男を選んだことが許せないって言ってるんだ!」
話が噛み合わない。
お互いが、お互いを想いすぎるあまり、視界が狭くなっている。
「……もう、いい」
「ミラ?」
「もう知らない! 出て行って!」
ミラは枕を掴むと、力任せに彼に投げつけた。
ボフッ、という情けない音と共に、枕が勇者の胸に当たる。
アルはそれを避けもせず、悲痛な表情で受け止めた。
「……わかった。頭を冷やすよ」
アルは枕を丁寧にベッドに戻すと、ゆっくりと背を向けた。
その背中は、世界を救う英雄のものとは思えないほど、小さく、寂しげに見えた。
「おやすみ、ミラ」
扉が閉まり、再び鍵の音が響く。
部屋に残されたミラは、膝に顔を埋めて声を殺して泣いた。
久しぶりの再会だったのに。
抱きしめてもらえると、頭を撫でてくれると思っていたのに。
窓の外の嵐よりも激しく、二人の心はすれ違ったまま、冷たい夜が更けていった。




