光の祭典
その招待状は、あまりに唐突だった。
差出人は後見人であるリューゼン卿。けれど、その筆跡と漂う香りは、間違いなくアルのものだった。
『今夜、僕の凱旋舞踏会がある。ミラ、君を招待する』
驚いたことに、開催日は「今日」。
それにはリューゼン卿も関わっているようで、学園の外出許可は既に「特別公務」という名目で取得済みという状態だった。
仕事が早い、と私は感心するほかない。
これは招待状というより、拒否権のない召喚状だ。
「……他言無用、か」
招待状の隅に書かれた注意書きを指でなぞる。
私たちの関係は秘密だ。公の場で勇者とただの学生が親しくすることは許されない。
「ごめんねナンナ。急に学園の使いで、出かけなきゃいけなくなっちゃって」
「えー、大変だねミラちゃん。気をつけて行ってらっしゃい!」
私はナンナに嘘をつき、逃げるように寮を出た。
胸が痛むけれど、彼女を巻き込むわけにはいかない。
校門には既に、紋章のない黒塗りの馬車が待っていた。
私が乗り込むと、御者は無言で鞭を振るい、馬車は滑るように走り出した。
窓の外を流れる王都の景色を眺めながら、私はため息をつく。
心の準備も出来ていないし、何より服装が学園の制服のままだ。
ドレスの一着も用意する時間はなかった。
「……アルと会うの、半年ぶりかあ」
あれからもう、半年も経っていたのだなと、感傷に浸る。
学園での生活、半魔だと知られた恐怖、シアンとの駆け引き。
その日その日を生きるのが精一杯で、時が過ぎるのが早すぎた。
(なんて言えばいいんだろ? 久しぶり、元気にしてた? ……とか?)
そんなありきたりな言葉で、この半年の空白が埋まるのだろうか。
手紙では伝えきれなかった想いや、聞きたいことが山ほどあるのに、いざ会うとなると言葉が出てこない気がする。
馬車は王宮の敷地内に入り、本殿を通り過ぎて、静かな森に囲まれた「離宮」へと到着した。
案内された離宮の一室は、ラダー村の私の家が丸ごと入ってしまうほど広かった。
足が沈み込むほど分厚い絨毯。
壁に飾られた名画。
窓の外に広がる、手入れの行き届いた夜の庭園。
遠くの本殿からは、微かに祝宴の音楽と、空を彩る魔法花火の音が響いてくる。
「……場違いにも程があるわ」
私はポツリと呟き、ソファに身を沈めた。
今夜は『勇者凱旋記念舞踏会』。
国中の貴族、王族、そして英雄を一目見ようとする有力者たちが集う、光の祭典だ。
そんな場所に、ただの村娘が紛れ込んでいいはずがない。
(アルは、今頃……)
壁の古時計が、チクタクと規則正しい音を刻んでいる。
彼は今頃、本殿での公務や、貴族たちへの挨拶回りに追われているのだろう。
半年ぶりの再会。
たった半年。されど半年。
手紙のやり取りはあったけれど、文字だけの繋がりは、かえって距離を感じさせた。
「ミラ様、お支度が整いました」
侍女たちが恭しく差し出したのは、深い夜空のような、濃紺のシルクドレスだった。
散りばめられたサファイアとダイヤモンドは、まるで星空のようだ。
「……私のサイズ、変わってないと思ってるのかな」
ドレスに袖を通すと、今の私に恐ろしいほどぴったりの寸法だった。
背中のライン、ウエストのくびれ。
まるで、毎日私の身体を抱きしめて確かめていたかのような正確さ。
「あ……」
鏡の前に立ち、私は息を呑んだ。
そこに映るのは、見知らぬ令嬢のような自分。
アルが選んだドレスは、私を「妹」や「幼なじみ」としてではなく、明確に「一人の女性」として美しく見せるためのものだった。
(アルは、私をどうしたいの?)
胸の奥が、熱く疼く。
村にいた頃のように、泥だらけになって笑い合う日々はもう帰ってこない。
彼は英雄になり、私は……彼に守られるだけの、あるいは彼を惑わすかもしれない存在になった。
(どんな顔で、会えばいいんだろう)
「久しぶり」と笑えばいいのか。
「会いたかった」と抱きつけばいいのか。
それとも、勇者様への礼儀として、一歩下がってカーテシーをするべきなのか。
想像するだけで、心臓が早鐘を打つ。
会いたい。
喉が渇くほど、彼の声を聞きたいし、その体温に触れたい。
けれど、会ってしまえば――私が必死に保ってきた「ただの幼なじみ」という境界線が、音を立てて崩れ去ってしまいそうで怖い。
『君は半魔だ』
シアンの言葉が、冷水のように思考を掠める。
私が抱える闇。彼が背負う光。
好きになればなるほど、近づけば近づくほど、その対比は残酷に浮き彫りになる。
(魔術さえ使わなければ、バレない。……でも)
秘密を抱えたまま、彼の真っ直ぐな瞳を見つめ返せるだろうか。
彼の全幅の信頼と愛情を、騙しているような罪悪感に押しつぶされないだろうか。
「……それでも」
私は鏡の中の自分を見つめ、震える手で胸元のサファイアに触れた。
この宝石のように深く、重い彼の愛。
それを受け止める覚悟が、今の私にあるのかは分からない。
けれど、逃げることは許されない。
彼は招待状を送ってきた。私を、この舞台へと引きずり上げた。
「ミラ様、お迎えの馬車が参りました」
侍女の声が、猶予の終わりを告げた。
私は深呼吸をして、鏡の中の自分に小さく頷いた。
震えを隠し、迷いを飲み込み、アルが望む「一番可愛い女の子」の仮面を被る。
半年分の空白。
変わりゆく関係。
そして、言えない秘密。
全てをドレスの裾に隠して、私は歩き出す。
あの黄金の瞳に見つめられた瞬間、私が私でいられる保証なんて、どこにもなかった。
「……行きましょう」
扉が開く。
夜風が運んできたのは、甘い花の香りと、遠い祝宴の熱気だった。
†
王宮の大広間は、時間が経つにつれて、ミラの想像を絶する熱気と光に満ちていった。
頭上には数百の魔法蝋燭が灯るクリスタルのシャンデリア。
足元には、鏡のように磨き抜かれた大理石のフロア。
そして、国中から集まった着飾った貴族たちの、むせ返るような香水と、目が眩むほどの宝石の煌めき。
「……眩しい」
ミラは思わず目を細めた。
アルが用意してくれた濃紺のドレスは、この夜会の場に馴染んでいるはずだ。
けれど、ミラの心だけが、油と水のようにこの場から浮いている。
自分がここに紛れ込んでいい人間ではないという劣等感が、肌を刺すような居心地の悪さを生んでいた。
(目立たないようにしなきゃ)
ミラは会場の隅、巨大な飾り柱の影に身を潜めるようにして立った。
ここなら、誰にも見つからない。
ただの「観客」として、彼を見守ることができる。
そう思っていた、その時だった。
「きゃっ!」
「あら、失礼……って」
人混みに押された誰かと肩がぶつかる。
謝ろうとして顔を上げたミラは、息を呑んだ。
「……あなた、ミラ!?」
目の前に立っていたのは、豪奢な真紅のドレスを纏ったエリーゼ姫だった。
彼女は幽霊でも見たかのように、目を限界まで見開いている。
「な、なぜあなたがここにいますの!? ここは選ばれた者しか入れない舞踏会ですのよ!?」
「あ……」
エリーゼはミラが来ることを知らなかったのだ。
当然だ。招待客リストの末席に、リューゼン卿がこっそりとねじ込んだのだから。
「まさか、紛れ込んだのですか? 衛兵! 誰か!」
「おやおや、ごきげんよう、エリーゼ殿下」
騒ぎになりかけた瞬間、横から抑揚のない声が割って入った。
「シ、シアン様……?」
ミラの隣に音もなく現れたのは、正装に身を包んだシアンだった。
彼は自然な動作でミラの腰に手を添え、エスコートするような体勢を取る。
「彼女は僕の連れ……のようなものです。リューゼン卿から、くれぐれも目を離すなと仰せつかっていましてね」
「シアン様が……? でも、そのような平民……」
「今日の主役は勇者様です。些細なことで騒ぎを起こしては、殿下の品位に関わりますよ?」
シアンに淡々と諭され、エリーゼはぐぬぬと言葉を詰まらせた。
彼女はミラを睨みつけると、吐き捨てるように言った。
「……フン。シアン様に感謝なさい。ですが、調子に乗るんじゃありませんわよ」
エリーゼは取り巻きを引き連れ、足早に去っていった。
ミラはホッと息を吐き、隣の男を見上げる。
「……助けてくれたんですか?」
「まさか。君が騒ぎを起こして、うっかり『瞳の色』が変わったら困るだろう?」
シアンは耳元で低く呟いた。
冗談ではなく、本気で心配しているトーンだ。
「それにしても……そのドレスは勇者が選んだのか? 君の瞳の色と同じだ」
「……」
「まるで『自分の所有物』だと言わんばかりだな。……趣味が悪い」
シアンは吐き捨てるように言った。
その言葉はミラに向けられたものではなく、そのドレスを選んだ勇者の執着深さに対する、同族嫌悪のようなものを含んでいた。
「……放っておいてください」
「そうしたいのは山々だが、そうもいかない。……俺たち、同じ秘密を持つ『一蓮托生』の身だからな」
シアンはミラの髪を一房すくい、弄ぶ。
その距離は、傍から見れば親密な関係に見えたかもしれない。
「皆様、静粛に! 本日の主役、勇者アルヴィン様と、聖なる巫女シュナ様のご入場です!」
突然、ファンファーレが高らかに鳴り響き、重厚な大扉がゆっくりと開かれた。
会場中のざわめきが一瞬で消え、次いで割れんばかりの拍手と歓声が爆発した。
光の中に、彼が現れた。
純白の礼服に身を包んだアル。
伸びた銀髪を後ろで束ね、その美貌は以前にも増して洗練され、神々しいほどの輝きを放っている。
その隣には、清廉な巫女服を纏ったシュナ。
銀の髪、紫の瞳。儚げで美しい彼女は、まさに勇者の隣に立つために生まれた「光の乙女」そのものだった。
「キャアアアアッ! アルヴィン様ぁ!」
「なんてお似合いなんだ……まさに伝説の再来だ」
誰もが二人を称え、祝福している。
その光景はあまりに完璧で、一枚の宗教画のように美しかった。
(……ああ、やっぱり)
ミラは胸の奥が冷えていくのを感じた。
これが「現実」だ。
彼は世界を救う英雄。光の当たる場所で、王族や巫女と並び立つべき存在。
半魔という闇を抱え、正体を隠して生きるミラが、決して触れてはいけない光。
アルは優雅に手を振りながら、大階段をゆっくりと降りてくる。
その顔には、完璧な「勇者の微笑み」が張り付いていた。
誰もがその笑顔に酔いしれる中、ミラだけが知っている。
あんな風に、作り物めいた綺麗な笑い方をする人じゃなかったのに。
階段の中腹で、ふと彼の足が止まる。
そして。
まるでそこにミラがいることを最初から知っていたかのように。
数多の群衆を飛び越えて、黄金の瞳が柱の影にいるミラを正確に射抜いた。
「あ……」
目が合った瞬間、アルの表情から「勇者」の仮面が剥がれ落ちた気がした。
切なげに眉を寄せ、熱っぽく、飢えたような瞳。
けれど、次の瞬間。
アルの視線が、ミラの隣――腰に手を添えているシアンへとスライドした。
(っ!?)
ほんの一瞬。
アルの瞳から光が消え、ぞっとするほど冷たい、底なしの暗闇が宿った。
殺気にも似た鋭い視線が、シアンを貫く。
「……おや、怖い怖い」
シアンがわざとらしく肩をすくめた。
アルはすぐに表情を戻したが、その口元は微かだが、確実に引きつっていた。
(見てた……シアンと私が、一緒にいるところ)
心臓が嫌な音を立てる。
アルは再び視線をミラに戻すと、胸元にそっと手を当てた。
そこには、純白の衣装の中で唯一の色――ミラのドレスと同じ、深い碧色のクラバットが結ばれていた。
『君は、僕のものだ』
声に出さずとも、その色が、その瞳が雄弁に語りかけていた。
シアンに向けられた敵意と、ミラに向けられた執着。
そのあまりの温度差に、ミラは目眩を覚えた。
アルは再び「勇者」の顔に戻り微笑むと、シュナをエスコートして群衆の波へと消えていく。
「……愛されているな。今の顔を見たか? 俺を本気で殺す目だった」
隣で見ていたシアンが、冷ややかな声で呟いた。
「やはり、勇者は危うい。……自分の光が強すぎて、周りの闇が見えていない」
「皆様、次はワルツのお時間です!」
楽団の演奏に合わせて、勇者アルヴィンと巫女シュナがフロアの中央に進み出る。
優雅に手を取り合い、踊り出す二人。
その完璧な姿に、会場中からため息のような感嘆が漏れる。
「なんてお似合いなんだ……まさに伝説の再来だ」
「この国の希望、我らの光!」
誰もが二人を称え、祝福している。
その光景はあまりに完璧で、一枚の宗教画のように美しかった。
(……ああ、やっぱり)
私は胸の奥が冷えていくのを感じた。
これが「現実」だ。
彼は世界を救う英雄。光の当たる場所で、王族や巫女と並び立つべき存在。
半魔という闇を抱え、正体を隠して生きる私が、決して触れてはいけない光。
柱の影から見つめる私に、踊っている最中のアルの視線が、時折ちらりと向けられる。
その瞳は熱っぽく、何かを訴えかけているようだったけれど、今の私にはその熱を受け止める余裕がなかった。
「……あら、まだいらしたの?」
不意に聞こえた棘のある声。
見れば、少し離れた場所から、エリーゼ姫が扇子越しに冷ややかな視線を送っていた。
シアンに釘を刺されたため直接は来ないが、その目は「早く消えろ」と雄弁に語っている。
(もう、限界かも)
慣れないヒールの痛み。
常に正体がバレないかという緊張感。
そして何より、アルとの圧倒的な「格差」を見せつけられ続ける惨めさ。
私は誰にも気づかれないように、そっと回廊へと足を向けた。
逃げよう。
私がいるべき場所は、ここじゃない。
全てがミラを押しつぶそうとしているようで、もう一秒たりともここにいられなかった。
(帰ろう……)
ミラは逃げ出した。
まさかその直後、勇者が宴を抜け出して、自分の部屋まで追いかけてくるとは思いもせずに。




