その夜、彼は勇者ではなく少年だった
勇者と幼なじみ。
かつては当たり前のように並んで笑っていた二人が、いまはもう、同じ場所にはいられない。
遠くから聞こえる歓声。
世界中が勇者の帰還を祝福し、明日からの旅立ちを祈る夜。
けれど、この時の私たちはまだ気づいていなかった。
華やかな光の裏側で交わされたこの密約が、二人の関係を決定的に変えてしまう境界線になるだなんて。
†
窓の外では、まだ祝宴の余韻が響いていた。
けれど、重厚な扉に閉ざされたこの部屋には、二人だけの静寂が満ちている。
煌びやかなシャンデリアも、称賛の言葉もない。
あるのは、月明かりと、忍んで会いに来た幼なじみの熱っぽい瞳だけ。
「……やっと、二人きりになれた」
アルの声は、熱を帯びていた。
正装である白い軍服は少し乱れ、銀の髪が月光を弾いて輝いている。
数刻前まで大広間の中心で喝采を浴びていた彼が、今は私の目の前で、切なげに眉を下げている。
「アル、戻らなくていいの? 主役が抜け出してきちゃ……」
「いいんだ。僕が会いたいのは、あの人たちじゃない」
アルは私の言葉を遮り、一歩踏み出した。
その動きには、以前にはなかった強引さと、大人の男の色気が滲む。
「君に会いたかった。ずっと、君だけを求めていたんだ」
ドクリ、と心臓が跳ねる。
離れていた時間が、私の中にあった「弟のような幼なじみ」という認識を崩していた。
会えない夜の寂しさ。
守られているはずの「檻」の中で感じた孤独。
それが、目の前の彼を何よりも愛おしい存在へと変えていたのだ。
「……僕がいない間に、君が誰かと笑い合って、僕の知らない奴の隣に立つなんて、耐えられない」
低い声。
それは懇願のようでいて、明確な独占欲の響きを持っていた。
「だから約束して。僕が帰って来るまで――誰のものにもならないで」
幼なじみの顔をして、彼は逃げ場のない想いを突きつけてくる。
その真っ直ぐすぎる瞳の前では、反論なんて言葉は出てこない。
「誰のものにもならないでって、アル……」
「嫌? 僕だけじゃ、だめ?」
遮るように、アルが私の手首を掴んだ。
引き寄せられる身体。
沈み込むソファ。
伝わる体温。
「っ……、ち、近い……」
「僕を、幼なじみじゃなく……男として見て」
囁きと共に、アルの手が私の頬を包み込んだ。
熱い。
火傷しそうなほどの熱量。
けれど、その指先は微かに震えていた。
(アルの手……震えてる)
視線を落とせば、見慣れた節くれだった指。
世界最強と謳われる勇者になっても、彼は私の目の前で、こんなにも不器用に震えている。
私を失うことを、何よりも恐れているかのように。
そして私もまた――彼を失うことを、何より恐れている。
「……アル」
私は、彼の手を拒まなかった。
むしろ、その震えを愛おしいと思い、そっと自分の手を重ねた。
その瞬間、アルの瞳が大きく揺れる。
「ミラ……?」
「……いってらっしゃい、アル。ちゃんと、帰ってきてね」
それは、許しの言葉だった。
アルは泣きそうな顔で微笑むと、静かに、けれど決して引かない意志で、抱き寄せるように距離を詰めた。
互いの吐息が混じり合う距離。
「……明日行く場所には、君を連れていけないから」
「うん」
「せめて、お守りが欲しいんだ。君という、刻印が」
切羽詰まった声。
次の瞬間、世界が反転した。
「ん……っ」
唇が重なる。
触れるだけの口づけではない。
呼吸と鼓動が重なり、私の思考を白く染め上げるような、深く、熱い接触。
遠くの歓声が遠のき、世界には私たち二人の鼓動だけが残された。
拒絶なんて、できなかった。
この熱こそが、私が待ち焦がれていたものだと、心が認めてしまったから。
一瞬の出来事だったはずなのに、それが永遠にも思えるほど長く感じられた。
唇が離れたあと、私は熱を持った頬で呆然とアルを見上げるしかなかった。
視界が揺れる。
目の前にいるアルの瞳は、潤んでいて、とろけるように甘く――息を呑むほど、優しかった。
「……はぁ、かわいい」
言葉にならない私を見て、彼は満足げに、あざといほど可憐に微笑む。
「……これで、もう僕のこと、忘れられないね」
その言葉は、呪いのように甘く私の心に絡みついた。
そして私もまた、その甘い呪縛に自ら囚われることを、望んでしまったのだ。




