指先にあるものは
「チイは、ほんまにすごいなあ」
カエちゃんの言葉を聞いて、わたしのほっぺたは熱くなった。
ほめられると、いつも少し恥ずかしくなる。でも、うれしい。
わたしは桜塚千紗都。名前を漢字で書くといつも時間がかかるのが小さな悩みの種である小学五年生だ。
『チイ』は、カエちゃんがつけてくれたあだ名だ。
カエちゃんは関西からやって来た転校生で、本名は水谷楓という。
わたしたちは九月に出会い、すぐに仲良くなった。
友達になるきっかけを作ったのはカエちゃんの方だ。
休み時間、わたしが教室でボンヤリしていると、突然カエちゃんが話しかけてきたのだ。
「なあなあ。学校の中、案内してや?」
「う、うん」
びっくりしたわたしは反射的に頷いていた。
それがカエちゃんとわたしの最初の会話。
昼休みに体育館と視聴覚室、放課後に図書館と屋上にカエちゃんを連れて行った。
「へえ、屋上にいつでも来れるんやねー」
校庭を見下ろしながら、カエちゃんは感心した口調でそう言う。その手は目の細かいフェンスに押し当てられている。上方が内に曲がったフェンスはとても背が高い。
「前の小学校はダメだったの?」
「そやな。理科の実験の時だけやわ、屋上に行ったんは。ムシメガネでお日さんの光集めて、新聞紙燃やす実験やった。ん~しょっと、気持ちええなあ」
カエちゃんは大きく伸びをしてから、わたしの方にくるっとふり向いた。
そして、笑った。
わたしはその笑顔に見とれてしまう。
カラっとしていて、あったかい感じの笑顔だった。
「なあ、ウチと友達になろうや?」
カエちゃんの言葉はわたしの心臓をドキリとさせる。
「あ、あの……」
現実と心とがぶつかり合って、何も言えなくなる。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。どうしたらいいんだろう。
うれしい。うれしいけど……。わたしなんかと友達になったら……。
わたしは悩み、固まってしまった。
ハァー、スゥー。
カエちゃんのため息と深呼吸が聞こえてくる。
はっとした。いつまでも返事をしないわたしにイラついたのかもしれない。
カエちゃんが口を開く。
「知っとるで。チサトはクラスの連中にイジめられとんのやろ。トイレで言われたわ。チサトと話したら、ウチもシカトするって」
ドキリどころじゃない。心臓がわたしの中で暴れ始めた。
そうだ。そのとおりなのだ。
わたしはクラスのみんなにずっと無視されている。それはたぶん……イジメというものだ。
なぜそうなってしまったのかは、今となってはもう分からない。
学校にいるとき、わたしはいつも独り。周りの人は空気のようなものだった。
それは大きな悩みの種。
カエちゃんはそれを知っている……。
「だ、だったら!?」
わたしはそこまでしかしゃべれなかった。カエちゃんがわたしの口を手の平で急におさえたからだ。
「ふん。こっちからお断りするわ。あんなネクラな連中と誰が友達になりたいっちゅうねん。アホらしい。ウチが友達になりたいのはチサトや」
わたしが言おうとしていたことと正反対のことをカエちゃんは言い放った。
気持ちがフワッとなった。暴れ回っていた心臓がおだやかになる。
カエちゃんの手がゆっくりと口から離れ――、
「あっ!?」
思わず、わたしは叫ぶ。
油断していた。びっくりしたせいで、心臓が再び忙しく動き出す。
ぱっと素早くわたしの右手が握られていた。カエちゃんの両手でしっかりと。
その熱烈な握手にわたしはあわてた。
大変だ。
ダメなのだ。手を握られるのは。わたしの秘密が知られてしまう。
だけど、どうしてだろう?
わたしはカエちゃんの手を振りはらえなかった。
カエちゃんはわたしをじっと見つめている。
きっと、わたしが「うん」と言うまで、手を離さないつもりだ。
わたしは早く返事をしようと思った。
嫌われる前に……。怖がられる前に……。
でも、おそかった。
「なんや、これ?」
不思議そうな声だった。
カエちゃんがどこを、何を見ているかがわたしには分からなくなる。
ただ分かるのは、始まってしまったという事実だけ。
これがわたしの秘密。
わたしの手にふれた人は、普通は見ることができないものを見てしまうのだ。
それはこの世界には存在しない景色らしい。目の前の現実しか見えないわたしには確認できないけれど。
わたしは声を絞り出す。
「お、お願い、早く手をはなして」
お父さんたちからはきつく注意されていた。誰にも手をさわらせてはいけないと。千紗都は普通とはちがうのだからと。
お父さんもお母さんもとても優しいけれど、わたしの手をさわることはない……。
けれど――、
ギュッ!!
「み、水谷さん!?」
どうして?
カエちゃんの手の力がさっきよりもずっと強くなった。
怖くないのだろうか? わたしが? 見てるものが? この手が?
カエちゃんが微笑んだ。
「アカン。まだ返事を聞いてへんよ。ウチと友達になってくれへんのか?」
カエちゃんの言葉はどこまでも真っ直ぐだった。気づいたときには、涙が出ていた。
わたしの秘密は二人の秘密になった。
「……チイがウチに見せとう景色って、天国みたいやわ」
小五の十月が終わろうとする頃、空を見上げながらカエちゃんがそんなことを言った。今は触れていないけれど、わたしの手にはまだカエちゃんのぬくもりが残っている。
カエちゃんは『わたしの見せる景色』が気に入ったらしく、わたしたちはしょっちゅう手をつないでいた。もちろん、周りの人たちにはこのことはナイショだ。もし、お父さんやお母さんに知られたら、思いっきり怒られるだろう。
放課後、校舎の屋上にはわたしたち二人しかいない。
「天国って。カエちゃん、一体どんなものが見えてるの?」
「前にも言うたやろ。とてもやないけど口では説明できへんわ。それに天国ちゅうのは、もののたとえやで。ウチかてホンマもんの天国なんぞ見たことない」
「だって、気になる。カエちゃんにしか聞けないんだもん、このことは……」
言ってしまってから、後悔する。わたしはワガママだ。
今、五年二組のみんながシカトの対象としてるのは、わたしとそして、カエちゃんだ。
カエちゃんがシカトされるのは、わたしの友達になったから……。
わたしの友達にならなかったら、こんな目にはあわなかったはず。あのとき、わたしがカエちゃんの手をとっとと振りはらっていたら、カエちゃんにはたくさんの友達ができていたのかもしれ――、
アウッ!!
デコピンをくらった。もちろん、犯人は目前にいるカエちゃんだ。
「暗い顔しなや、チイ」
怒られた。考えが表情に出ていたみたいだ。
「おーおー。バカどもが遊んどる」
カエちゃんがフェンスに近づき、その外をにらみつける。わたしもそっとカエちゃんの横に行く。校庭を見ると、二組のクラスメートたちがいた。人数は……九人だ。放課後、学校にのこって遊んでいるということは、習い事がない日なのだろう。
ちなみに担任の田山先生は宿題をちょっとしか出さない。たぶん、それでみんなの人気を取ろうとしてるのだ。
ぺっぺっ!!
カエちゃんが眼下につばを吐く真似をする。
気にせんでええ。気にしたらアカン。
乱暴な仕種だけど私を気づかうカエちゃんの気持ちがしっかりと伝わってくる。
「ありがとう。カエちゃん」
「な、何やのん。突然」
カエちゃんの顔がものすごく真っ赤になる。実はけっこうな照れ屋さんなのだ。
「うん。急に言いたくなったの」
大人になっても、カエちゃんとは友達でいたい。
わたしは強くそう願った。
十一月最後の水曜日。
教室にわたしたちが入ったとたん、クスクス笑いが色々なところから聞こえてきた。
わたしとカエちゃんはいつも始業チャイムが鳴るぎりぎりまで教室に入らないことにしていた。理由は簡単。教室の空気がイヤだったからだ。
クスクス笑いの原因はすぐにわかった。
黒板のイタズラ書きだ。
誰が描いたのか? 大きな相合傘が黒板に描かれていた。
傘の下に書かれた名前は、『桜塚』と『水谷』。つまり、わたしとカエちゃんだ。
黒板には、他にも絵が描かれていた。二人の女の子が手をつないでいる。へたっぴな絵だったけど、髪の毛の長さがわたしとカエちゃんにそっくりだった。
誰かが屋上にいるわたしたちを盗み見してたのだ。
「なんやねん」
カエちゃんはポツリとそう言うと、黒板消しでイタズラ書きを消し始める。わたしは唇を噛みしめて、うつむく。
頭が熱くなって、手足がヒンヤリとしてくる。
クラスメートたちのからかいに恥ずかしさを感じると同時に、そんな気持ちになってしまう自分がくやしい。気にしなければいいだけのはずなのに……。
「座るで、チイ」
イタズラ書きを消し終えたカエちゃんがわたしの服の袖を引っ張った。
クスクス笑いはまだ続いている。
その日から、わたしとカエちゃんは別々にいることが多くなった。
もちろん、そんなことを約束したわけじゃないし、ケンカしたわけでもない。自然とそうなってしまったのだ。
わたしはこれ以上イヤな目にあいたくなかった。それはカエちゃんも同じはず。だから、別々にいるしかない。わたしはそう思っていた。
十二月に入って、二回目の月曜日。
その日も、カエちゃんといっしょにいることはほとんどなかった。
こんな日々が続くのだろうかと思うとため息が出る。
……でも、そうじゃなかった。
夜遅く、家の電話が珍しく鳴った。電話を取ったのはお母さんだ。お父さんはまだ仕事から帰ってきていない。
お母さんの声はとても静かだった。よく聞こえないけど、何か色々とたずねてるみたいだ。
通話が終わると、お母さんは手で顔を覆った。
どうしたんだろう?
やがて、お母さんがわたしを呼んだ。お母さんは腰を低くして、わたしと目線を合わせた。
「千紗都ちゃん。水谷楓っていう女の子がクラスにいるでしょう?」
カエちゃんだ。わたしはすぐにうなずいた。
「仲良かった?」
胸をドキリとさせながら、わたしはゆっくりとうなずいた。
「そう……」
お母さんはそのまま黙り込んでしまった。カエちゃんがどうかしたんだろうか?
「カエちゃん、引っ越しでもするの?」
お母さんの暗い表情から思いついたことをわたしはそのまま言ってみる。もしそうだとしたら、とてもイヤだ。
だけど、お母さんは首を横にふった。違うんだ。じゃあ、何なのかな?
お母さんは大きく息を吸った。
「校庭で倒れているところを発見されて、病院に搬送されたけれど……もう手遅れだったみたい」
「手遅れって、……どういう意味?」
わたしには理解できない言葉をお母さんが話している。
「……亡くなったの。死んでしまったの」
「人違いっ!! 絶対に!! 誰か他の人と間違ってるんだよ!!」
叫んで、わたしはお母さんの言葉をはねのけようとした。そんなこと、あるはずがない!! カエちゃんがいなくなるなんてことがあるはずがない!!
スマホをまだ持っていないわたしは家の電話に飛びついた。かけたことは無いけれどカエちゃんの自宅の電話番号はしっかりと暗記してる。カエちゃんと話をして、生きていることを証明するんだ。
でも、呼び出し音が鳴り続けるだけで電話には誰も出てくれなかった。
どうして、こんなことになってしまったんだろう……。
どうして、カエちゃんが死ななきゃならないの!?
涙がボタボタとカーペットに落っこちた。
わたしはしばらく学校を休んだ。
学校通いを再開したのは、二学期の終業式の日。一週間以上、学校を休んだことになる。今日もお母さんにむりやり車に乗せられて来たようなものだった。
わたしが入ると、教室は急に静かになり、次にヒソヒソ声が始まった。
ウワッ、キタヨ。
ジジョーチョウシュサレテルンジャナカッタノ。
アイツガゲンインナンダロ。
ヨクコレルヨナ。
ケイサツヨボウゼ。
イヤな感じのヒソヒソ声。
わたしはそれらの声を無視した。全部無視するつもりだった。
だけど、席に着いたわたしは無視できない事実を発見してしまった。
ない!! どこにもない!! カエちゃんのイスと机がどこにもない。
……信じられなかった。
そんなことがあっていいの!? わたしはひざに置いた手をぎゅっとにぎった。
くやしかった。
突然、影ができた。誰かがわたしの前に立っている。
影の正体は、磯山亜紀だった。五年二組のリーダー的存在だ。
目が合うと、磯山はしゃべり出した。
「ねえ。なんであいつ飛び降りたの? 遺書はなかったそうだけど、自殺なんでしょ?」
ああ、そうなのか。
カエちゃんが屋上から飛び降りたという事実を、わたしはこの時初めて直接聞いたのだった。
磯山は口をゆがめて、さらにしゃべってくる。
「やっぱり、あんたがあいつを振ったから死んだの? ねえ、これってさ、あんたがあいつを殺したってことと同じじゃない? ねえ、どう思ってるの、人殺しさん? 困るのよね。わたしらのクラスの評判が悪くなるじゃん。ウジ虫さんは、どう責任取ってくれるのかしら?」
磯山はニヤニヤと笑った。
ペッ!! ベチャ!!
わたしは思いっきり磯山の顔につばを吐きかけていた。真似じゃない。本当にだ。こんなことをしたのはもちろん初めてだ。
磯山がびっくりした顔でこっちを見る。
よくわからない感情が体の中でうず巻いていた。
わたしはそのまま教室を飛び出し、学校に二度と戻らなかった。
ジリリリリリ! パシン!!
わたしは目覚まし時計のベルを素早く止めた。
時刻は午前六時。今日の朝ご飯担当はわたしだ。頑張って起きなきゃいけない。それに今日は始業式。春休みが終わり、再び規則正しい生活がやってきたのだ。
わたし――桜塚千紗都――は、今日から小学六年生だ。
顔を洗って、目を覚ます。それから、わたしはキッチンに立った。
魚焼きグリルに水を張って、まずは余熱。網にサラダオイルをぬってから、アジの開きを並べる。そうしないとくっついちゃうしね。後は適当に火加減を見るだけ。
次は味噌汁。お椀に水を入れる。まんぱいの八十五パーセントぐらい。その水を鍋に移すこと二回。パックだしを鍋に入れて、火にかける。沸騰するまでの間に油揚げとネギを切る。おっと、その前に油揚げを湯通ししなきゃ。今日の具はこれだけ。アジもあるし、ぜいたくは言わせない。十分に沸騰させた後、油揚げを投入。少しおくれてネギも参戦。トドメはもちろんミソ。ちなみにミソは目分量。
ピー、ピー。
炊飯器が声を上げた。ご飯が炊けたのだ。
アジの開きも良い感じに焼けている。味噌汁もOK。
三ヶ月もあれば、人は色々なことができるようになるものだ。
「オハヨー」
ペタペタと足音をさせながらやってきたのは、おばちゃんだ。
「おはよう。おばちゃん」
おばちゃんの名前は、桜塚風香。二十七歳、独身。お父さんの妹である。
わたしは今おばちゃんとマンションで二人暮らしをしている。五年生の三学期から、わたしは別の学校に通い始めた。太田小学校に転校したのだ。
家族全員で決めた結果だった。
お父さんやお母さんにイジメのことを話すのはものすごくつらかった。
わたしを快く受け入れてくれたおばちゃんには感謝しなきゃならない。
「むー。おばちゃん言うなー」
そのおばちゃんは会社では切れ者キャリアウーマンらしいけど、家ではグダグダな人だ。優しいんだけどね。料理の腕前はわたしとどっこいどっこい。
「はいはい、風香お姉ちゃん。とっとと顔を洗ってきてくださいな」
「ほーい」
大きく伸びをしながら、おばちゃんは洗面所に向かった。
リーンリーンリーン。
テーブルに置いていたスマホのベルが鳴る。壁の時計の針は、六時半ちょうどだった。うん、いつも通り。
どこからの電話なのかは、着信表示を見なくても分かってる。
さてさて、今日はどっちかな?
「もしもし、千紗都です」
「おはよう、千紗都。父さんです」
お父さんの方だった。百キロメートル離れた場所からの声。
「うん、おはようございます。こっちは特に変わりないよ。元気だよ」
「そうかそうか。お父さんたちも元気はつらつです。六年生進級おめでとう」
「うん、ありがとう――」
そこまで言ったところで、突然目の前にメモ帳が出現した。おばちゃんがいつの間にか背後に来てたのだ。
ええと、なになに?
『進級祝いに何かプレゼントが欲しいです』って言っちゃいな。
うん、名案です。早速、実行。
「お父さん。進級祝いに何かプレゼントほしーな」
「そうか……そうか。何が欲しいんだ?」
やりました、うまくいきました。おばちゃん、さすがです。ちなみに『そうかそうか』はお父さんの口癖だ。上の空の時にもよく使うのでお母さんはいやがってる。ええと、それより何をお願いしよーかな?
再びメモ帳。
『超高級なバッグ』って言ってください、チサト様。
むー、そうですか。おばちゃん、欲望全開です。とりあえず、つきあいましょう。ムダだろうけど。
「じゃあ、スーパーリッチなバッグがいい」
わたしがそう言うと、電話の向こうで、お父さんがため息をついた。
「自分で買いなさいって、風香に言っときなさい」
やっぱりバレてます。作戦失敗っと。両手の人差し指でバッテンを作ると、おばちゃんは肩をすくめた。
「図書カードでいーよ」
わたしはそう言って、電話を切った。
「チサトー。出発するよー」「はーい」
わたしは食器洗い機のスイッチを入れてから、玄関に向かった。後はキカイくんにお任せだ。
「カギ持った?」「うん」
時刻は七時半前。ほんとは学校に行くには少し早い時間なんだけど、朝はおばちゃんといっしょに出かけるようにしている。
「じゃあ、行ってきまーす」
「はい。車と変質者に気をつけるのよー」
おばちゃん、はずかしいのでそういうことを大声で言わないでください。
わたしとおばちゃんはいつもの場所で別れる。おばちゃんは電車に乗るため駅へ、わたしは学校へ向かうのだ。
わたしは六年一組か。
クラス表で自分の名前を確認する。出席番号は十番だ。
教室に入ると、黒板に出席番号順に座りなさいと書いてあったので、その通りに座る。
わたしの席は入り口から二列目で前から四番目だ。
「またいっしょだね」
五年生の三学期、同じクラスだった女の子が話しかけてきた。わたしの左隣の席らしい。
「うん、だね」
わたしはそれだけ言うと、カバンから本を取り出す。読みかけの小説だ。
太田小学校は読書をものすごくすすめていて、本を読んでいればジャマをしてくる人はいない。
今のわたしにとって、その学校方針はものすごく有り難かった。
転校するときに、わたしは一つの決意をした。
これからは誰とも深くつき合わない、いい加減で広くて浅いつき合いをしていこうと決めたのだ。わたしは誰の心にも深く入らないし、わたしの心には誰も入れない。
そうすれば、誰も傷つかないから。
「はい、席について」
担任になる先生が教室にやって来た。名前は石川椎子。出席を取った後、一組全員で体育館に向かう。これから、始業式だ。
わたしの小学生最後の一年が始まった。
四月最後の水曜日。
わたしは学校からの帰り道、一人公園に来ていた。
この公園はキャッチボールは禁止されていて、ブランコやすべり台もない代わりに緑は多い。そんなところだからか、わたしぐらいの歳の子はめったにいない。いるのは、若いパパさんママさん――風香おばちゃんと同じくらいかな――とその子供たち、それとおじいちゃん、おばあちゃんだ。
そして公園の片隅にあるちっちゃな池がわたしのお気に入りの場所だった。
頑張れば、飛び越せそうなほど小さな池だ。
その池に向かってベンチが一脚あって、わたしはいつもそこに座る。
だけど、今日は座れなかった。
ベンチにスケッチブックが置かれていた。先客がいる証拠だ。ううん、残念。
スケッチブックには目の前の景色が描かれてた。使ってるのは、エンピツだけだと思う。
「上手だなあ」素直にそう感じたのでそう呟く。
もっとよく見たいな。手が思わずスケッチブックに伸びてしまった。
その時だ。
「えへへ、ありがとな」
突然後ろから声が聞こえた。
「わっ! わっわっわっ!」
わたしのへんてこな叫び声。解説しておくと、最初のはびっくりしたために出た『わっ』で、残りのは足がすべったために出た『わっ』だ。
一所懸命に手を振り回して、バランスを取ろうとしたんだけど結果はスッテンコロリン。わたしは転んでしまった。
「あちゃー。大丈夫かいな?」
その言葉づかいに、わたしは思わずぼーっとしてしまう。それはわたしをとても恋しい気分にさせるものだ。逆光でその人の顔はよく見えない。
「あっ!?」
だから、ふせげなかった。わたしはその人に右手を捕まれていた。両手でしっかりとだ。急いで振りほどこうとしたんだけど、わたしを引っ張り上げてくれるその手は力強くて、振りほどけなかった。
そして、わたしを助け起こしてくれたところでその人の動きが止まった。
「何やこれ?」
そうつぶやいている。
『わたしの秘密』が始まったのだ。いけないと思う。
幸い、その人の手には力強さがもうなかった。わたしは大急ぎで自分の手を引き抜く。
でも、すぐに終わるわけじゃない……。
わたしは注意深く相手を観察した。
相手は女の子だった。ただの池を熱心に見つめている。何かが見えているんだ。
お願い。早く終わって!!
わたしは強く願う。
「あー。消えてもうた」
しばらくしてその子が残念そうな声を上げた。
良かった。終わったんだ。わたしはホッとため息をつく。
でも、問題はここからだ。どうごまかして、どう口止めしたらいいんだろう。
「あの……」
わたしが声をかけると、その子はわたしをじっと見つめた。
「……なんやよう分からへんけど、アンタほんまにすごいなあ」
そのセリフはわたしの心臓をドキリとさせた。
過去から色んなものがやってきた。
微笑み。温もり。冷たさ。別れ。
頭の中が感情でいっぱいになって、何を言ったらいいか全然分からなくなる。
逃げよう。考えられたのはそれだけだ。わたしは走り出した。
「あ、ちょっと! 待ってえなあ」
わたしはその声を頑張って無視したけど、その呼びかけは続いた。
「来週またここに来とるさかい、アンタも来てやー」
その言葉づかいにわたしは思わず立ち止まりそうになる。
ちがう! あの人はちがう! カエちゃんは死んだの!!
恋しさに悲しみをぶっつけて、わたしは感情をゼロにした。
わたしはひたすらに走った。
はあはあはあ。わたしの息は完全に上がってた。
公園から家までずっと走り続けたのだ。玄関に座り込む。
「汗かいちゃった……」
動けるようになった後、わたしはお風呂に入った。
シャワーを浴びる。勢いよく体に当たる水の刺激がわたしに考えることを要求してくる。
ものすごく悩む。
『わたしの秘密』を見られた上に、ごまかしも口止めもできてない。それどころか、次に会う約束までしちゃってる。
約束?
自分の考えがゆがんでいることにわたしは気づいた。
「約束なんかしてないよ、わたし」
声に出して、自分に言い聞かせてみる。
「でも、会わないと口止めもできないよね」
すぐに反論の声が出た。
「でも……」「でも……」「でも……」
ゆらゆら、ゆらゆらとわたしの中でやじろべえが色々な方向にゆれる。バランスが上手く取れてない。
あの子の姿が頭の中に浮かび上がってくる。
名前は何て言うんだろう?
年はいくつなのかな?
絵、上手だったな。
一週間後、わたしのやじろべえはついに台から落っこちた。
五月最初の水曜日。
来てしまった……。
わたしは公園にいた。
池に向かう前にわたしは何度も深呼吸をした。
ごまかそう。それが一番だ。もしごまかしきれなかったら口止め。それだけ。それだけしたら帰ろう。
わたしは自分に念を押した。
あの子はもう来ていた。
わたしを見つけた顔はとてもうれしそうだった。この前は焦ってて分からなかったけど、わたしよりだいぶん背が高い。
「一週間ぶりやね」
早く言わなきゃ、と思っている間に、先手を打たれてしまった。
「ズバリ聞くで。アンタ、この世界にないもんをウチに見せたんやろ?」
ビクッ! 体が震えた。
「当たりか?」
ごまかすのは無理そうだった。わたしは仕方なくこくりとうなずく。
「うんうん。一週間考え続けた甲斐があったってもんやね。ほな、これ見てくれへんか」
スケッチブックが差し出される。
それは先週見たエンピツ画だ。だけど、よくわからないモノが重ねて描かれていた。
「これな、ウチが見た……あん時の景色なんやけど。アンタから見てどれぐらい再現できてるやろか?」
ふりふりふり。わたしは首を振って、否定した。
「あ、あかんか」
「違うの」
がっかしした様子にわたしはあわてた。それは勘違いだ。だから、早口で説明する。
「そうじゃない。あなたが見てた景色、わたしには見えてない。だから、聞かれても分からない」
ちょっと片言気味になってしまう。
「そうなんかぁ。てっきりアンタにはいつも見えてるんやと思ってたわ」
わたしはそのエンピツ画をじっくり見た。よく分からない絵だけれど、わたしには見えないモノが描かれているのだ。ものすごく興味はある。
「これがあなたに見えた景色なんだ」
「いや、ほんとはな……」
はずかしそうな表情だった。
「笑いなや。その絵、ウチが見た景色の一パーセントも表現できてないねん。画力の壁が厳しゅうてなあ」
「ふーん。そうなんだ」
感心した後で、わたしははっとする。
ダメじゃないか、わたし。
すっかり相手のペースに乗せられている。ちゃんと言わなきゃいけない。
「あの、お願いがあります」
「うん。なんや?」
わたしは大きく息を吸った。
「あの景色とわたしのこと、誰にも言わないでください」
「ん~」
ぽりぽりぽり。彼女はほっぺたをかき始めた。何か考えてるみたいだ。イヤな予感がした。
「今んとこ誰にも話してないで―」
そう言うと、相手はニヤリと笑った。
わたしにはその顔がイヤらしいものに思えた。気持ちがどんどん冷えてゆく。やっぱり来るんじゃなかった。今さらだけど、後悔する。
この人はカエちゃんじゃないのに、わたしは何を期待していたんだろう。
わたしはバカだ。
「――こっから先はアンタ次第やな」
予想通りの答えだった。わたしはその言葉と笑みを軽蔑した。これから言うセリフも予想できる。
「……お金、ですか?」
わたしは相手の目を見て、そう言ってやった。
辺りがものすごく静かになった。
でも次の瞬間、ものすごい音がした。まるで雷に打たれたみたいだ。
「あほたれっ!!」
わたしはものすごいお年玉を頭にもらっていた。とても痛くて、しゃがみ込んでしまうほどの。ゲンコツさん(今、名付けました)は真っ赤な顔をして、本気で怒っていた。
「ウチはな、自分が損するのも、他人が損するのも嫌なんや」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
大ハズレだった。
両手を頭に当てたまま、わたしは謝った。何て失礼なことを言ってしまったんだろう。
「ただな――」
ゲンコツさんの手が静かに伸びてきた。
「――あの景色をまた見せて欲しいんや。絵描きとしてはアレにものごっつう興味があるねん」
ぎゅっと手を握られた。
「あ!?」
一週間前と同じ結果になってしまった。
五分間は解放されなかったと思う。
「んー。アンタほんまにすごいなあ」
ゲンコツさんの言葉はわたしの心を恋しさでいっぱいにする。
「ほな、ウチ帰るな」
だけど、ゲンコツさんはてきぱきと荷物を片付け始めた。
ああ、さよならなんだ。恋しさが寂しさに変化してゆく。
「また来週会おな。約束やで」
「えっ、はいぃ!?」
わたしのセンチメンタルな気分は一瞬で爆破された。
「おっと、自己紹介がまだやったな。中学二年、福原紅葉。フ・ク・ハ・ラ・ク・レ・ハやで。ちゃんと覚えてや」
「わ、わたしは桜塚千紗都です。小学六年生です」
こうして、わたしの秘密はまた二人の秘密になった。
五月最後の水曜日。
「今回は自信あるんやで。どや?」
差し出されたスケッチブックをわたしは受け取った。
「どやって言われても。紅葉さんには見えても、わたしには見えないんだってば」
もはや日常となったスケッチブック鑑賞会。
「まあ。そこらへんはフィーリングで何とかして。それと『さん』は付けんでええって言うとるやろ。ほんまにむずがゆいわ。チイもはようウチのあだ名決めて」
ものすごい偶然だった。お互いにあだ名を付けることになったんだけど、紅葉さんはわたしのあだ名を『チイ』としたのだ。
「んー、頑張るけどやっぱり敬称無しはちょっと抵抗あるなあ。それで紅葉……的には今回の絵は一パーセントを超えてるの?」
「あったりまえやと言いたいとこやけど、どうなんやろうなあ。口では絶対説明できへん景色やし」
紅葉さんは腕組みし、渋い顔をする。
「……実物を見に行けたら、もうちょい上手く描けるかもしれへんけどな」
――‼
いきなりだった。
その何気なく言ったであろう紅葉さんのセリフはパンチとなってわたしに届いた。
よろめく。
『天国みたいやわ』
カエちゃんの言葉を思い出し、
バサッ。わたしはスケッチブックを落としていた。
「チイ?」
不思議そうな紅葉さんの声。
「ダメだからね。絶対ダメだからね」
わたしの、声と体が震え出した。止められない。
「チイ。アンタ急にどないしたんや?」
「やだ、やだよお。実物を見に行こうなんて思わないで。そんなこと言わないで。約束して。お願いだから約束して」
ポタン、ポタン、ポタン。地面に水滴が落ち始める。
仮縫いしかされていなかった胸の傷が開く。不安と恐れがあふれてくる。
カエちゃんはわたしなんかよりずっとイジメを辛く感じてたんじゃないか。
あの景色を本当の天国だと思っていたんじゃないか。
だから、逝ってしまったんじゃないか。
磯山亜紀につばを吐きかけた、あのときの自分の感情をやっと理解する。
彼女の言葉が真実のようで怖かったんだ。怖いからああやって誤魔化したんだ。
紅葉さんもいなくなるのだろうか?
心が深い海の底に沈みそうになった。
でも、紅葉さんの優しい声がすんでのところでわたしをすくい上げてくれる。
「わかった、ほんまにわかったから。もう絶対金輪際言わんから、安心しい」
「本当?」
ひっくひっくと泣きながら、わたしはたずねた。
「ほんまやから。もう泣かんとき」
紅葉さんがハンカチを差し出してくれる。
「あ、ありがとうです」
わたしはそれを受け取った。そして、思わず――、
チーン。チーン。
鼻を二回かんでいた。
「アホタレー」
紅葉さんがわたしからハンカチを素早く奪い返した。
「まだ全部ふいてないよぉ」
「涙だけや、涙だけぇ。鼻水はちり紙使わんかい。そんなお約束せんでええの。ああ、お気にやったのに」
ぐちゃぐちゃになったハンカチの中に白いモノが見えて、紅葉さんはげんなりしてた。
まずかったかな。
「まあともかくや。ウチもちょっと根を詰めすぎたわ。別に急ぐわけでもないんやし、たまにはどっか行こか?」
「どっがっで?」
わたしは、今度はちゃんとティッシュで鼻をかみながら尋ねた。
「そやなあ。今週の土曜日に本屋に行かへんか? ウチがひいきにしてはる人が久々に画集出しはるねん。それ買いに行くの付き合ってや」
「うん、わかった。でも、紅葉の学校って、すっごく美術に力入れてるんだね。今日も午後からずっとここで絵を描いてたんでしょ?」
紅葉さんの中学校には歴とした美術科があるらしい。どんな中学校なんだろ?
「……そや。勉強熱心やろ。それより、待ち合わせ場所はどこがええ?」
「どこの本屋さんに行くの?」
「旭国屋書店や」
「だったら、甘水駅で落ち合おうよ」
「ええで」
「何時にする?」
旭国屋書店は最寄り駅である甘水駅から数駅先にある大型書店だ。
「そやな、十一時半でどや?」
「うん、それでいい」
胸の痛みはいつのまにか去っていた。
金曜日の夜。
「風香お姉ちゃん、あした友達と遊びに行くね」
晩ご飯の後片づけの真っ最中にわたしは思い切って言った。
「うん。了解したよっと!!」
おばちゃんはナベに残った焦げ付きと戦っている。
わたしはあっさりと許可が出たので、内心ほっとしていた。誰かと遊びに行くのは、実はおばちゃんの家に来てから初めてのことなのだ。
「あんまり遅くなったらダメよ」
「うん、夕方には帰ります」
土曜日のお昼前。
「チイ。こっちやでー」
駅の上の階にいた紅葉さんが大声でわたしを呼んだ。その両腕は頭の上で大きく振られている。
反応して、顔を上げたわたしを周りの人が見てる。うわっ。ちょっと恥ずかしいぞ。
全速力で駆けよって、わたしは紅葉さんのアクションを中断させた。
「ほな、行こか」二人して旭国屋書店に向かう。
「画集関係は五階や」
紅葉さんが入り口のガラス扉を開けた。
ドン! 突然、店内から人が飛び出てきた。肩にバッグをかけ、帽子を深くかぶったその人はわたしと紅葉さんを乱暴に押しのけてきた。
ギロリ! 帽子の奥からすごい目つきでその人はわたしたちをにらんでくる。寒気がするほどの目つきだ。
えっ!? 息を呑む。その眼差しにわたしは見覚えがあった。
もう一度、きちんと確認したかったけど、その人はすでに走り去っている。
「乱暴なやっちゃなあ。チイ、ケガないか?」
「あ、うん。大丈夫」
まさかね。そんなはずないよね。わたしはその疑問を脳みそのはしっこに片付けた。
五階に到着すると、紅葉さんはスタスタと目当てのコーナーに進んでゆく。
「あった、あった。これやで」
紅葉さんが目当ての画集を嬉しそうに抱きしめる。
クスリ。わたしは思わず笑ってしまった。
紅葉さんはそんなわたしを見て、不思議そうな顔をする。
「何やオモロいことあったか?」
「だって、今ものすごく女の子に見えたんだもの」
「……。私かて乙女やで」
紅葉さんがリスのようにほっぺたをふくらませた。それがまた面白くて、わたしはついふざけてしまう。
「ごめんなさい。紅葉お兄ちゃん」
「コラッ!」
紅葉さんは怒った声を出したけど、その目は笑っていた。
全てが楽しかった。時間があっという間に過ぎてゆく。
「ほな、またな」「うん、またね」
別れの時が来た。けど、この人とはまた会えるのだ。そのことが嬉しかった。
六月最初の月曜日。
六年一組に転校生がやってきた。
その転校生を見て、サアーッと顔から血の気が引いた。
どうして、彼女がここにいるの!?
驚きと恐怖をわたしは同時に感じていた。
石川先生の横に不機嫌そうな顔をした磯山亜紀が立っていた。ピリピリした感じをものすごく出していて、先生が困った顔をしている。
本屋で見たのは、やっぱり磯山亜紀だったんだ。どうしよう、どうしたらいいんだろう?
悩んでいる間に彼女と目が合った。彼女の顔がもっと不機嫌になる。
『サイアク』とその唇が言っていた。
水曜日の夕方。
わたしはいつものように公園で紅葉さんと会っていた。
紅葉さんはわたしと手をつないで、空を見上げている。『わたしの見せる景色』に夢中になってる最中だ。
紅葉さんに相談してみようかな?
わたしは悩んでいた。
磯山は今のところわたしに何もしてこないけれど、いつかは害を加えてくるんじゃないだろうか? 何しろ、わたしは彼女の顔につばをはきかけているのだ。わたしは小さくため息をついた。どうして、同じ学校、同じクラスなんだろう。教育委員会とかいうところは、何をしてるんだろう。おばちゃんには相談していない。磯山のことをお父さんたちが知ったら、わたしはまた引っ越すことになるかもしれない。それは避けたかった。
一方で、紅葉さんに迷惑はかけたくない。そういう気持ちも強い。これはわたしのもめごとだ。巻き込んじゃダメなのだ。
うん。自分で解決しなきゃ。わたしはそう決心した。
木曜日の朝。
遅くも早くもない時間にわたしは学校に着いた。
教室はいつもと違って、少しざわついてた。
どうしたんだろう?
教室全体をぐるっと見回したところで、わたしは倒れそうになった。
あの落書きが黒板にあった。
二人の女の子が手をつないで立っている、あの落書きだ。
黒板に大きく下手くそに描かれていた。
落ち着くのよ。
わたしは自分に言い聞かせた。
今回は相合傘は描かれていない。誰のことかは分からないはずだ。
その代わりということなのだろう。『レズ』という言葉が二人の女の子の周りにたくさん書かれていた。
わたしはその言葉の意味を知っていた。女性の同性愛という意味だ。つまり、友情というレベルを越えて、女性が女性をエッチな意味もふくめて愛するということで合ってると思う。
落書きをした犯人は当然、磯山だろう。
相合傘を描かなかったのは、紅葉さんの名前が分からなかったから。
だったら、大丈夫。知らんぷりをしとけばいいんだ。
わたしは何事もなかったように席に着こうとした。
「アキラ君が来たときにはもう描いてあったんだって」
そんな話が聞こえてくる。アキラ君はサッカーをするためにいつも一番早く登校してくる男の子だ。つまり、誰も落書き犯の正体を知らないことになる。わたし以外は。
「ねえ、誰のことだと思う?」
隣の子が面白そうに聞いてきた。誰も落書きを消さないのは、この子のように面白がっているためだろう。
「さあ、ただのイタズラでしょ」
わたしは何でもない風に言ったつもりだ。心臓はものすごくドキドキしてたけど。そのうち、今日の日直当番の人が登校してきて、「仕事増やすなよー」とぼやきながら、落書きを消してくれた。とてもホッとした。
チッ。舌打ちがどこかで聞こえた気がした。
自分で何とかしなくちゃ。わたしは手をグーの形にした。
放課後。
わたしは屋上へと続く階段の踊り場にいた。太田小学校の屋上は、ふだん開放されていない。だから、ここには普段誰もやってこない。
やって来るとしたら――、
来た!!
磯山亜紀だ。ニヤニヤ笑いながら、階段を上ってきてる。
「久しぶりね、ストーカーさん」
わたしは思いつく限りの悪口を言ってやろうと思っていた。
「昨日わたしの後つけてたのね。今日もだけど。そんなことして楽しいの?」
「ウジ虫のくせに言うようになったじゃない。あんたどこ行っても同じ事してんのね、レズ女」
やっぱり、落書き犯は磯山だ。
「転校四日目、いまだにクラスのみんなと話ができていない人よりはましでしょう?」
これは事実だ。あんなピリピリした感じを出してたら、誰も近づかない。
「うるさいっ」
磯山は乱暴な声を出した。こちらに素早く右手を伸ばし、わたしの襟ぐりをつかんできた。
「何よ?」わたしの口から自然と冷たい声が出た。
「これ以上ストーカーされたくなかったら、金出しな。さもないと、あんたの過去をどんどんばらしていってやるんだからね」
「……ひょっとして本屋さんで万引きした?」
磯山の体が一瞬ビクッとなった。単なるカンだったんだけど、事実みたいだ。
この人はどうしようもない人だ。そう思うと、気持ちが冷たくなった。
酷い目に遭えばいい。怖いものを見てしまえばいい。そう願った。
次の瞬間、わたしは磯山の右手を両手でしっかりと握っていた。磯山が残った左手でわたしの顔を叩いてきたけど、決して放さなかった。
やがて時が来た。
「このレズ女。気持ちわるぅ……」
磯山は急に言葉を止め、「ウー、ウー」と小さく唸りだした。
そして動かなくなる。わたしが手を放すと力なくあっさりと崩れ落ちた。
磯山は上から涙とヨダレと鼻水を、下からおしっこをもらしていた。何事かをぶつぶつと呟いている。
背筋が急に冷たくなった。
磯山を置き去りにして、わたしは階段を駆け下りた。大変なことをしてしまったかもしれない。わたしは磯山に何を見せてしまったんだろう。
金曜日。
磯山亜紀は学校に来なかった。
石川先生は特に何も言わない。磯山は昨日自分で家に帰ったんだろうか?
気にはなったけど、先生には聞けなかった。今日休んでいるのは、ひょっとするとわたしのせいかもしれないのだ。
月曜日。
わたしは始業ギリギリの時間に学校に到着した。
先週末からずっと気分は憂鬱だった。正直に言えば、学校には来たくなかった。でも、磯山のことがとても気がかりなのだ。
今日も磯山亜紀はいなかった。
「おはようございます」
石川先生が教室にやってきた。
「みなさんに残念なお知らせがあります。磯山さんは体調不良でしばらくお休みとなるそうです」
先生の突然の発表。教室から様々な声が上がる中、私は呆然としていた。
休み時間。
色んな所で磯山亜紀についてのうわさ話が発生していた。
「ねーねー。磯山の奴、木曜日に誰かにボコられたんだって。父親にだっこされて運ばれてるところを見た人がいるらしいよ」
「誰かって、もしかしてわたしらの誰か?」
「まさかぁ。あいつすげえキョーボーな感じだったじゃん。あたしらじゃ無理でしょ」
「そうだよねえ」
うわさ話がナイフになって、わたしの胸を切り裂いてゆく。それらの話のほとんどすべてが多分真実なのだ。
わたしの手が一人の人間をまた不幸にしたんだ。
わたしは公園に行かなくなった。
次の週の金曜、磯山が再度転校することとなったと石川先生から教えてもらう。
生きているんだとわたしは少しだけホッとする。
わたしは最低な小学生だ。
六月最後の土曜日。
『チイ。どないしたんや?』
『どっか調子悪いんか?』
『ウチ、あそこで待っとるで』
スマホが鳴る。紅葉さんからのメッセージは毎日必ずやって来た。
どのメッセージもわたしを気づかってくれていた。住所を教える前でよかった。もし教えていたら、紅葉さんはぜったい家に来ただろうから。
わたしはソファーに寝そべったまま、壁にかかった時計を見た。
時計の針は四時を指している。
おばちゃんは繁忙期というものに突入したらしく土曜日であっても出勤しているけど、今日は早く帰ると言っていた。
夕ご飯の材料、買って来なきゃ。わたしはのろのろと体を起こした。
今日はお昼前からずっと雨が降っている。正直メンドくさい。
わたしは玄関のドアを開けた。
ひどい雨になっていた。雨音がすごい。それに肌寒い。
行くしかないのかなあ。
でも、これだけ雨が降ってたら、きっと公園にいないよね。
そう思うと、少し気分が軽くなった。
傘を差して、スーパーマーケットに向かう。歩きながら、夕食の献立を考える。
今日はすき焼きにしようかな。でも、それだと荷物重くなるなあ。
おばちゃんは二人前以上を平気で食べてしまう。あれで太らないんだから、大いなる謎だ。
桜塚家の七不思議の一つに入れでもいいぐらいだ。
お店に到着する。
入り口にはおばちゃんと同じくらいの年のお母さんと長靴をはいた女の子がいた。
女の子は店先で売られているビニール傘を熱心に見ている。だいぶ前から雨は降っていたから、傘はかなり売れ残っていた。
「ナオちゃん。傘がどうかしたの?」
わたしは自分の傘をたたみながら、親子の話を何とはなしに聞いていた。
「ママ。あのおねえちゃん、カサほしいかなあ?」
「……お姉ちゃんって、ダーレ?」
「んっとね、公園にいたおねえちゃん。あのおねえちゃん、カサ持ってなかったよ。だから、あったらほしいかなって思ったの」
――えっ。わたしは動きを止めて、親子の会話に耳を澄ます。
「ああ、あのお姉ちゃんね」
お母さんがうなずく。
「うーん。あのお姉ちゃんはきっと雨が好きなのよ」
それは間違った、ウソの答えだ。わたしは心の中で断言する。
だって――。
「ふーん。そうなんだぁ。でも、寒くないのかな?」
次の言葉をわたしが聞くことはなかった。
雨。雨雨雨。
大粒の雨だった。わたしは傘を開くことなく、走っていた。
もう全身びしょぬれだ。途中で派手に転んだりもしたから、ヒザもちょっと痛い。
でも、そんなことは問題じゃなかった。
会わなきゃ。
会って、話をしなくちゃ。
顔を見て、話をするんだ。
そして、ちゃんと別れなきゃならない。
わたしは公園に駆け込んだ。息はもう完全に上がってる。でも、まだ止まれない。池まで走り続けるんだ。
いた!!
ゆがんだ視界の中、わたしはベンチに座る紅葉さんを発見する。
こちらの足音に気付いたのだろう。紅葉さんが振り返る。無表情だった顔が瞬時に笑顔に変わった。でも、少し青白い。
「チイ。来てくれたんやな」
あわてて立ち上がろうとする紅葉さんをわたしはにらみつけた。
やっとわたしはベンチに到着する。
「紅葉さんなんか、大っ嫌いだ!」
叫んだ。そこまでが限界だった。息が苦しくて、足もふらふらしてた。わたしはベンチの背に手をかけて、しゃがみこんだ。
「だ、大丈夫か?」
わたしは大嫌いと言ったのに、紅葉さんはわたしに優しい言葉をかけてくれる。近寄ってきてくれる。
それでも――、
「触らないで!!」
わたしは紅葉さんを拒絶しなきゃだめなんだ。
紅葉さんが硬直した。
五分間ぐらい、わたしと紅葉さんは黙ったままだった。じっとしたまま、わたしはどういう風に別れを切り出そうか考えていた。
「どうして? どうしてこんな雨の日までわたしを待ってたの?」
わたしは先手を打つ。
「それは……」
わたしの問いに紅葉さんは言いよどんだ。
「そんなにあの景色が見たいの? そんなにわたしの手が必要なの!?」
わたしは紅葉さんに自分の両手を突き出した。
「だったら、切って持って行きなさいよ。カッターナイフ持ってるんでしょ。知ってるんだよ。絵を描くときに使う鉛筆はナイフで削るってことぐらい」
本当は違う。紅葉さんと色んな話がしたくて、もっと近づきたくて、わざわざ勉強したんだ。もうそれも昔の話になってしまったけど。
わたしの態度に紅葉さんの顔が本当に真っ青になった。体もブルブルと震えだしてる。
「そ、そんなん言わんといて、お願いやからそんなん言わんといて。ウチはただ友達が欲しかったんや」
「そんなの、中学校でいくらでも作ればいいじゃない」
わたしはそっぽを向いた。視界の隅で紅葉さんがしょぼくれる。この調子だと思った。
……なのに、紅葉さんはまだしぶとく話しかけてくる。
「カンニンな。ほんまにカンニンな。……ウチ、ほんまは中学生ちゃうねん。チイといっしょの小六のはずなんや。そやけど、五年の途中からウチ、ダメになってもうて。今は保健室通学しかしてないねん。中学生って言うたんは、ちょっと違う自分になりたかったんや」
「……」
わたしは黙るしかなかった。予想外の告白に気持ちも思考も整理がつかなくなった。どうしたらいいの?
紅葉――『さん』付けはもう止めよう。同い年なんだから――が、登校拒否をしてる小学生だったなんて。
「ウチ、友達を裏切ってもうてん。それで周りから無視されるようになってもうて。教室が怖くなってもうたんや」
そうか。突然、気持ちがすとんとする。紅葉はわたしといっしょだったんだ。違うのは、紅葉にはカエちゃんがいなかったことだけ。紅葉はずっと孤独に耐えてたんだ。
「せやから、ウチ自分に約束したんや。これからはもう絶対友達を裏切らへんて。でも、あかんな。ウチ、初めっから嘘ついとった。中学生なんて、嘘っぱちもええところや。ウチにはアンタの友達になれる資格、最初っからなかったんや」
次の瞬間、降水量が一気に増した。
「もういいよ。もういいよぉ、紅葉」
わたしはわんわんと泣き、叫んだ。
間違ってた。
さよならは紅葉を一番不幸にすることだったんだ。
わたしが外にいた間に、おばちゃんは仕事から帰ってきていた。
「おかえり」
そう言いながら、おばちゃんは目を丸くした。
何しろ、玄関に二匹のカッパが立っているんだから!!
「ただいま」「お、お邪魔します」
その正体は、わたしと紅葉だ。ボタボタという音と共に玄関に巨大な水たまりができ上がってゆく。
「タオル持ってくるから。二人とも一歩も前に出ないでよ」
おばちゃんは家中のバスタオルを引っ張り出してきて、わたしたちをがんじがらめにした。
「よし、空想天然記念物カッパの捕獲完了ね。今、お湯張ってるから。もう少し我慢してなさい」
おばちゃんはわたしたちをヒーターの前に連行した。台所ではやかんがぴゅーぴゅーと鳴いていた。
「ええと、紅葉ちゃんだっけ。コーヒーでいいかな? インスタントだけど」
「あ、はい」
「ミルクも入れるよね?」
「お願いします」
そんな会話の中、わたしは紅葉を不思議そうに見る。
「ん、どないしたん?」
「あ、出た」
「出たって、何が?」
「関西の言葉」
「……ウチが関西弁使うんはフレンドリーな相手にだけや」
「ふーん。そうなんだ」
うれしいセリフだった。
「はい、コーヒーお待たせ」
おばちゃんがマグカップを二つ持ってきてくれた。
コーヒーを飲んでいる間に、お風呂の準備が整う。
「チサト、先に入ってなさい」
おばちゃんからの指令が飛んできた。
「え、でも紅葉が先の方が」
「すぐに紅葉ちゃんも入るわよ。着替えの準備をしたいだけだから」
「えっ! わたしたち一緒に入るの?」
「女の子同士なんだから、別に問題ないでしょ。私とはしょっちゅう一緒に入ってるじゃない。背中の洗いっこでもしなさいな。しっかり温まるのよ。千、数え終わるまで湯船から出たらダメだから」
うー。入る前からのぼせそう。
「じゃ、じゃあ、紅葉。先に入ってるね」
わたしは先にお風呂に突入した。
紅葉がお風呂に入ってきたのは、わたしが入ってから十分ぐらい後のことだった。
「かけ湯させてもらうで」
「は、はい。どうぞです」
紅葉の宣言にわたしは湯船から手を出して、洗面器を渡した。
ザブン。猛烈な勢いでかけ湯を終えると、紅葉はわたしの横に強引に入り込んできた。
「ちょっと紅葉狭いよお」
「これでええんや」
手以外の肌と肌とがものすごく密着しているので少し恥ずかしい。
それから、ゆっくりと紅葉の左手がわたしの右手をにぎってきた。
わたしはそれを拒否しなかった。
「風香さんからな、アンタの過去のこと、だいたい聞いたわ」
「そっか」
わたしは口を湯につけて、あぶくを作ってみせた。
「大変やったな」
「紅葉もいっしょでしょ」
「ちがうと思うで」
紅葉はもうとっくに『わたしの見せる景色』を見てるはずなのに、その目はしっかりとわたしの方に向いていた。
「なあ、チイ。ウチはアンタが見せてくれるこの景色が確かに好きや。せやけどな、そんだけのためにアンタと手をつないでるわけじゃないんやで」
ギュッと紅葉の手に力が入る。
「アンタという友達がそばにおることを感じるためにウチはアンタの手をにぎってるんや。それだけはわかって」
「……うん、わかる。わかるよ、紅葉。本当にありがとうね」
わたしは精一杯紅葉の手を握りかえした。
お風呂から上がると、おばちゃんがわたしに一通の封筒を差し出してきた。
宛名はわたしの名前になっている。
わたしはおばちゃんの顔を見た。おばちゃんは本当にちょっとだけ微笑んでいた。
「兄さんから少し前に預かったの。今のチサトなら、読んでも大丈夫じゃないかな」
わたしは封筒を受け取った。
裏を向けて、差出人を見てみる。
水谷葉子。そう記してあった。
カエちゃんのお母さんの名前だ。
わたしは急いで、手紙を引っ張り出した。
しゃがみ込んで読み始める。
~~~
拝啓、桜塚千紗都様。
楓の一番の友達であったあなたに、楓の遺書の一部を送らせていただきます わたしたち夫婦に関するところはご容赦下さい。
楓の遺書がやっと見つかりました。
大人たちが隠していたのです。
楓の自殺の原因を、あなたは知っているのでしょうか。
もし知っているのならば、あなたはとても苦しんでいることでしょう。
わたしたちがあなたをうらんでいると悩んでいるかもしれませんね。
けれど、わたしたちは楓のことであなたを決してうらんではいません。
あなたに責任があるとも思っていません。
そのことを伝えようと、こうして手紙を書きました。
あなたのこれからの人生に多くの幸があることを願っています。
いつかあなたの笑顔をわたしたちに見せてください。
楓の母、葉子
~~~
チイへ。
チイがこれを読んでる頃には、ウチはもうおらへんのやろな。
五年二組のアホどもを黙らすには、これぐらいせなあかんと思たんや。
効果があるとええんやけど。
チイの手がにぎれんようになるのは残念やけど、まあしゃあないわ。
これでアンタが幸せになれるんやから。
アンタはそっちでゆっくりすごしてな。
ほな、さいならや。
チイのことが大好きな楓より。
「バカだよ、カエちゃんは」
二通の手紙を読み終えたわたしはそうつぶやいた。涙が徐々にあふれてくる。
「大丈夫か、チイ?」
体育座りをしてずっと隣にいてくれた紅葉がそっと涙をすくってくれるけど、間に合いそうにない。だから、わたしは思いっきり甘えることにした。
「ねえ、紅葉。その平べったい胸、貸してくれないかな」
「うわ、そないなこと言うかなぁ」
紅葉は愚痴りながらも、抱きしめてくれた。
わたしは全力で泣いた。
涙をいっぱい流そう。どんどん流そう。今だけはカエちゃんのことで涙をいっぱい流そう。でも、明日からはもう泣かないでおこう。
紅葉の胸の中でそう決心する。
自分は笑顔で生きなきゃダメだから。ううん、そう生きていきたいから。笑顔で友達と一緒に生きていれば幸せになれると心の底からわかったんだから。
そして、もう一つ決めたことがあった。
「紅葉」
わたしは顔を上げて、友達に笑いかけた。
「ん、なんや?」
紅葉も笑いかえしてくれる。
「わたし、紅葉のあだ名やっと思いついたよ」
「どんなあだ名なん?」
「教えてほしい?」
「うん、もう。いじわるせんとはよ教えてや」
「じゃあ、言うよ。『ク・レ・ヨ・ン』だよ」
「クレヨンかぁ」
「紅葉は絵を描くのが好きでしょ。だからね、クレヨンにしたの。イヤかな?」
「そんなことない。気に入ったで。ありがとうな」
クレヨンとわたしはぎゅっと抱きしめ合った。
小学生最後の夏休みが終わり、次の学期に入った。
わたしのクラスに一人の転校生がやってきた。
その転校生を見て、わたしは目を丸くしていた。
背の高い女の子だ。
転校生は笑顔で新しく仲間となるクラスメートたちにあいさつをする。
「福原紅葉です。よろしくお願いします」
クレヨンはみんなに拍手でむかえ入れられた。
了