三話 知りたい
次にルーテシアは美味しそうなスープの匂いで目覚めた。窓をみると既に太陽は山を降り、空には無数の星が瞬いていた。
「ほほう。ディナーの匂いで目が覚めるとは、お姫様は案外食い意地が張っているらしい」
「いつから、そこにいたの?」
「結構前から」
レオは悪戯が成功したかのような、嬉しそうな表情をかべる。
「立てるか?飯、食いに行こうぜ」
手を差し伸べるが、ルーテシアはレオの手をまじまじと見つめた。
「この手は何?」
「ん?エスコートだけど?」
エスコート…。
ルーテシアは小さく復唱し、その小さな手を、差し出された手に乗せた。
「よし!行こうぜ!」
初めて握られた手は暖かかった。
レオに手を引かれ、階段を降りると、より一層美味しそうな匂いが強くなった。
廊下の突き当たり扉を開く。ルーテシアはその先の光景に息を呑んだ。
塔の中とは比べ物にならないくらい明るく広い。長いテーブルに皺一つないテーブルクロス。その上には色とりどりの花が飾られていた。天井にはシャンデリアが吊るされていて、光を最大限に反射している。壁には絵画や、彫刻がバランスよく並べられている。
「大きい…」
「さあ、お姫様。こちらです」
ルーテシアを席まで誘導して、椅子を引いた。
座っていいのだろうか?
そんなルーテシアの考えを見抜いたのか、レオは一つ頷いた。
初めて座った椅子は、ベット程ではないけれど柔らかかった。座ったまま少しだけ跳ねたり、足をぶらぶらさせたり。そんなルーテシアを見ていたレオは、微笑ましいと感じた。それにしても不思議な少女だ。レオは思った。噂には聞いているが、本当になんでも知っている。まだ名前と経歴しか言い当てられてないが、それでも眼をむくほどの知識量だと推測出来る。ただ気がかりなのが、感情をあまり知らないこと。攫った時は感情を悟られないように押し殺していると思ったが、そうでは無かった。別にどうでもいいのだが、少しだけ、教えてあげたいとレオは思った。
「レオ!また手伝いもしないで、一人だけサボって!」
呆れた声は女性のものだった。ワゴンを押して料理を運んでくる女性は、ルーテシアを見つけるとワゴンから手を離した。その女性にただならぬ気配を感じたのか、ルーテシアは体をこわばらせた。しばらくの沈黙。
「あーーーーーーん!!もうなんて可愛いの!?」
女性は叫んで、ルーテシアへ猛突進してきた。
「う、うわぁ」
「やーん!このすべすべの肌!絹のような美しい金髪!小さな手、細い指!まあ、素敵な瞳の色をしているのね。その瞳に映るのは私だけでありた──」
「おい!アイリス!」
「なによ、レオ。いい所なの邪魔しないで頂戴」
「ルーテシアが驚いてるだろ!」
驚く?私が?
アイリスと呼ばれた女性はルーテシアに向き直り、申し訳なさそうな顔をした。
「やだ、ごめんなさいね。あなたが可愛いからつい…。嫌いにならないでね?あ、そうだわ。自己紹介がまだだったわね」
ルーテシアは首を振って述べた。
「アイリス・マーティン。リュカ・マーティンの妹で、元軍人」
そこまで言って、アイリスに人差し指を唇に当てられ、説明を止められた。
「皆まで言わないで、その可愛らしい唇を塞ぎたくなったゃうわ」
「アイリス!!」
「今日は賑やかだねー」
そこには忘れされたワゴンを押しているリュカがいた。
「兄さん」
「スープ、あのままだど焦げるよ?」
「しまった!」
続きはディナー後ね。一つウィンクをすると、愉快に厨房へと消えていった。
「ごめんね、ルーテシアくん。妹があんな感じで。忘れて大丈夫だからね」
「いやダメだろ、忘れちゃ。いいかルーテシア、あいつは超危険人物だ。しっかり覚えておけ。もし、さっきみたいな事があったら、必ず俺を呼べ。いいな?」
「う、うん」
「ちょっとレオ!聞こえてるわよ!」
どんだけ地獄耳なんだよと悪態をついた。
ここは塔とは全然違う。夜は月明かり頼ならなくて済むし、夕食は綺麗なテーブルの上で食べれる。柔らかな椅子に座りながら、暖かいスープを待つ。本を読む代わりに、レオとリュカの話し声を聞く。
「さあ、ルーテシアちゃん。召し上がれ!」
目の前には出来立てのスープと、焼きたてのお肉。瑞々しい野菜で作ったサラダ。パサパサじゃないパン。
今、ルーテシアの前にあるのは、ただの夕食じゃない。まるで宝石のようにキラキラした夕食だった。
「じゃあ、頂こうか」
リュカは優雅に食事をしているが、その隣のレオは作法関係なく食べている。向かい側にいるアイリスは、何故かルーテシアを見つめたまま手を付けていない。
「えっと」
「あぁ、気にしないで?見てるだけだから」
食べにくい…
ただでさえ、この賑やかな食卓に慣れていないのだ。それでも空腹が限界なので、熱い視線を気にしつつも、スープをひと口啜った。
「美味しい」
「やーーーん!ルーテシアちゃんっていい子!」
瞬間移動でもしたのか。ついさっきまで向かい側の席にいたのに、一瞬の内に抱きつかれてしまった。頬をすりすりされ、髪を撫でられ。動きが完全に制御されてしまった。
「こらこら、アイリス。そこらへんにしておきなさいな」
「あら、博士。おかえりなさい」
博士と呼ばれた60代の男は、白ひげを生やした優しそうな優しそうな人であった。
「ルーテシア、紹介するぜ…って、もう知ってるよな」
ルーテシアは頷き、記録に書かれていた事を口にした。
「クリス・ド・ハウワード。ハウワード家の現当主。自称発明家でもある。今まで発明したものは不良品が多いが、成功した発明品は広く世に知れ渡っている」
「手厳しいが、嬉しいものじゃな」
「ついでに、ここは博士の屋敷だ」
レオが付け加える。皆、親しみをもって「博士」と呼んでいる
ほっほっほ、と愉快に笑うクリスはとても可愛らしい。
「さて、わしのディナーを運んではくれんかね?」
「すぐに持ってくるわね」
拘束されていた手が離れる。ルーテシアはホッと一息ついた。
しばらくして、アイリスがクリスに持ってきたのは、ルーテシア達と異なったメニューの夕食だった。
「やっぱり…」
「当たり前でしょ博士。兄さんに肥満だって言われたじゃない」
「だからといって肉を少しくらい…」
「ダメ」
「ここにも手厳しい嬢ちゃんがおったわい」
クリスのメニューは野菜中心の食事で、お肉の代わりに豆が山盛りに乗せてある。
「ちゃんと食べてくださいよ。博士」
リュカに満面の笑みで言われたクリスは、落胆しつつも全て平らげた。
その頃にはルーテシアも宝石のような夕食を終え、余韻に浸っていた。
「さて、これからの事なんだが」
レオが指を鳴らして言う。
「組織からルーテシアを遠ざけた。ひとまず任務は終了。博士、あのワイヤー結構役に立ったぜ」
ルーテシアを攫う時に使った、あのワイヤーはクリスの発明品だったのだ。クリスは嬉しそうに笑うと、グラスのワインに口をつけた。
「それでだ、しばらくルーテシアはここで暮らしてもらう。まだお前を狙ってるかも知れねーからな」
「恐らく…というか確実にね。目の届かない所に行くと攫われるからね。ルーテシアくん」
「つーわけだ。よろしくな、ルーテシア」
私はしばらくここで暮らす。組織とは何のことだろうか。私はなぜ、攫われなければいけないの?
わからない。なんだろう、この感覚。こんな感覚知らない。
「おい、ルーテシア?」
レオが呼びかけるが、ルーテシアはびくともしない。
明るさも、広さも、スープの美味しさも、私は知らなかった。知らないことばかり。ベットのフカフカさも、布団の暖かさも、エスコートも、抱きしめられる体温も。
「知らない…」
小さく呟く。
「ルーテシア?」
「私、何も知らない」
レオの言う組織も、狙われる理由も、この行き場のない、モヤモヤした感覚も。
「あーーー。そうだな。説明しないとな」
ルーテシアは『ピジョンブラット』という犯罪組織に狙われている。『ピジョンブラッド』は、偽った命令を国兵に与え、ルーテシアを攫おうとした。
そして『ピジョンブラッド』の行動が活発化したのが五年前。
「先代の国王陛下が亡くなった年だ」
「なぜ、私を狙うの?」
「まだ定かではないが、お前のその知識を得ようとしているらしい」
「…」
これは知識ではない。
「ただの記録なのに」
「それでも、あいつらにとっては有益なものなんだろ」
胸クソ悪い連中だぜ。レオは吐き捨てるように言う。
「『ピジョンブラッド』はどんどん勢力を拡大している。このまま放っておけば、国を揺るがす悪の組織に成りかねないね」
国…。ここ、アルベルト国は、イギリスの北に位置する小さな島国。海に囲まれ、一年中新鮮な海の幸が獲れるだけでなく、国の南側には豊かな鉱山が聳えている。そこから採れる鉱石は、金、銀、銅など。ずば抜けているのは宝石である。古今東西の国が、このアルベルト国の宝石を求めて、貿易をしている。その貿易で人気がある宝石が『ピジョンブラッド』ルビーの一種で、血のように赤い色をしている宝石。
「そーゆー事。宜しいですか?お姫様」
「うん」
「さあ、そろそろ寝室に戻りましょ」
こんな辛気臭い話はもう終わり!パンと手を叩いて、ルーテシアの肩に手を置く。
「送るわ。ルーテシアちゃん」
「俺が送る」
そう言って、レオが立ち上がった。
「男は危ないわ。送り狼になりそうだもの」
「ならねーよ!おめーの方が危ねーんだよ!」
まあまあ、とリュカが宥める。
「今日の所はレオに送ってもらうといいよ。じゃあおやすみ」
もーーーう!悔しそうなアイリスを余所に、レオはルーテシアの手を引いて食堂を出た。
「兄さん!」
「なんだい?」
「バカ!」
アイリスは言い捨てて、食器を片付けた。
「我が妹ながら…」
困った様に溜息をつくと、まあまあとクリスが笑った。
「可愛いじゃないか」
夕食でさらに膨らんだお腹を叩いて、立ち上がる。
「わしも部屋に戻るよ。おやすみ」
「おやすみなさい、博士」
賑やかになりそうだとリュカは思った。
「この屋敷は広いからなー。迷うんじゃねーぞ」
「うん」
ルーテシアの部屋の扉を開けると、どこからか猫の鳴き声がした。
「おっ。ルアか」
「ルア?」
「こいつの名前だよ」
ルアは優雅に歩きながら、ルーテシアの足に擦り寄る。ニャーと一声鳴くと、喉を鳴らし始めた。
「たまに来るんだよ。飯寄越せってな」
レオはしゃがんで、ルアに触れる。喉を触ってみせると、気持ちよさそうに目を閉じた。
「レオ、何してるの?」
ルーテシアもしゃがむ。
「ゴロゴロ。猫っつーのは、こうされるのが好きなんだ」
やってみろ、という目でルーテシアを見る。恐る恐るルアの頭を撫でてみた。初めて触る猫に緊張した。そんなルーテシアを安心させるかのように、もっと触ってと、ルアがニャーと鳴く。
不意にレオが口を開いた。
「お前って、知っているようで、知っていないよな。」
「…」
「俺らの名前と経歴は知っていたが、ピジョンブラッドのことは知らなかった」
「うん…。知らない」
猫を撫でながら続ける。
「私は何も知らない」
今日一日で実感した。あの塔は小さな世界だったのだと。どうすればいいのだろう。
「知りたいと思わないのか?」
「え?」
「この世界のこと、自分のこと、お前が今持ってる知識に関わること」
その一言で、さっきまでのモヤモヤが消えた。
「知りたい…」
ルーテシアの心に新しい風が吹く。
「知りたい!」
この世界のこと、自分のこと、知識に関わること。新しい風の存在が主張をするように、ルーテシアはレオにハッキリと言った。
「ぷはっ。よし、分かった!明日、街に出かけようぜ!この街を知り尽くした俺が教えてやる!」
「ありがとう」
自然と出た言葉にルーテシアは驚いた。
「どういたしまして。おやすみ、美しいお姫様」
そう言って、部屋を出た。
部屋から出たレオは嬉しそうに笑う。
「あいつ、あんな顔も出来んだな」
明日はどんな所に連れていこうか。そんなことを考えながら、自室に戻った。