一話 脱走
「ここがモンスターがいる所か」
今度はどんな人だろうか。塔の中でルーテシアは思った。この塔には生まれたときからいるが、塔の外に出たことなど一度も無い。ましてや、連れ出してくれた人などいない。この塔を訪れた者は、この塔に入る前に悲鳴をあげて逃げ出してしまう。なぜ悲鳴をあげるのか、塔の外に出たことのないルーテシアは知る由もない。
「今日は満月…」
塔の上に付いている天窓越しの月を見る。読みかけの本を閉じて立ち上がった。腰まで伸びた美しい金髪が、月に照らされて宝石のように輝く。太陽の光をあまり浴びない肌は、陶磁のように白く、瞳はすべてを見透かしたようなブルーだ。
「撃てー!」
その声の後に銃声が響いた。
一発だけではない。何十発も続いて響く。ルーテシアは気づいた。これは集団での発砲だと。
この塔に集団で来た人は初めてだった。いったい何故だろう。ルーテシアは無表情で考える。窓から外を覗くと、制服に身を包んだ国兵が、目に見えない何かと戦っていた。ルーテシアは目を凝らしてみた。
「ルーテシア様!お逃げ下さい!」
逃げる?何故?
ルーテシアは、扉に目を向けた。この塔と、外の世界を繋ぐ唯一の鉄格子の扉。毎日食事を運んでくれる女性が声を荒らげる。
「はやく!」
女性は必死に鉄格子の鍵を開けようとする。しかし、慌てているのか上手く鍵を外せない。朝昼晩、一日欠かさずこの扉を開けて、ルーテシアに食事を運んできた。
「こんな時に限って」
もうすぐ門が破られる。外にいた無色の兵士たちも国兵に倒されてしまった。国兵が入ってくる前にルーテシア様を逃がさないと!
「私は、なぜ逃げなければならないの?」
女性はその言葉に動きを止めた。なぜ?そんなの決まってるじゃない。
「国兵なんかに捕まってはいけない!あなたは、世界を識る力がある!こんな塔の中の世界よりも、もっとたくさんの世界を!だから!」
女性は必死に叫ぶ。どうか、この言葉が彼女の心に残る様に。国兵がルーテシアを狙う理由は分からない。だが、今までルーテシアを狙う輩は、碌でもない奴らばっかりだった。だから国兵もまた、ルーテシアを良からぬことに使うのだろう。
この塔に仕えて三年。給与はいいが、誰も近付かないこの塔の主の世話を命じられた。短期間で終わるはずが、こんなにも長くいてしまった。情が湧かないわけが無い。最初こそは怖かった。周りにはモンスターと呼ばれ、会話は必要最低限に留めよと雇用主から注意され、どんな野蛮な人間なのかと怯えていたが、そこに居たのはただの少女だった。記録しか知ることの許されない、孤独な少女だった。そうだ。私は、彼女が哀れだった。彼女に感情を与えたかった。名前すら少女に明かしてはいけない私は、どう接すればよいか分からなくて、ずるずると今日まで引きずってしまった。今なら、いいだろうか。女性は涙を浮かべる。鍵が開いて、扉を開いて、ルーテシアの手を掴もうとするその瞬間。
「そこまでだ」
野太い声とともに、女性の後頭部に拳銃が向けられた。
「モンスターを渡して貰おうか」
「ルーテシア様に何をする気ですか」
拳銃を向けられながらも女性は問う。
「はっ。たかが無能な娘に答える義理はないわ」
鼻で笑いながら答えると、目線をルーテシアに向けた。
「ほう、例のモンスターがこのような小娘だとは、我らが親愛なる国王陛下は有能な武器をお持ちで」
拳銃を下ろし、女性を部下に引き渡すと、男はルーテシアに近寄った。まるで品定めをするような目でルーテシアを見る。指を顎に掛けて、彼女に上を向かせると、ルーテシアは無機質な声で話した。
「この国の近衛兵団第三団体団長。チャーリー・デ・ダン。サミン・ダン伯爵とジュリエッタ・ジェリーの長男であり、現在58歳。32歳に国王陛下から現在の役職を賜り、手段を選ばない計画は、破天荒そのものである。故に周りからは生産性の無い時代遅れの野蛮人と見られており、部下からも敬遠されている」
ルーテシアが話せば話すほど、チャーリー・デ・ダンと呼ばれる男の顔がみるみる赤くなってゆく。
「妻子がいるのにも関わらず、愛人が5人おり、そのうち一人は弟の──」
ルーテシアが言い終わらないうちに、チャーリーは彼女を殴り飛ばした。ルーテシアは背中を本棚に強く打ちつけ、その反動により棚の上から何冊か本が落ちた。苦しそうな声を上げているものの意識は失っていない。それをいいことに、チャーリーはルーテシアに近寄った。彼女の美しい金髪を乱雑に掴み上げ、頭を起こさせると、その顔を覗いた。激痛に顔を歪めてはいるが、恐怖を微塵も感じないその表情に、チャーリーは拳を振り下ろそうとした。
「チャーリー様。それ以上は…」
部下の一人が、この緊迫した状況の中、声を上げた。
「この私に意見しようというのか」
「とんでもございません。ただ、彼女のお顔に傷を付けると対応が難しいかと」
「ふん。そんなものは貴様らがやったと言えば済む話だ」
チャーリーはルーテシアに向き直り、拳を引き、前に突き出そうとしたその時だった。
「はっ。姫君の言う通り、チャーリー・デ・ダンは生産性の無い時代遅れの野蛮人であられる」
部下の発した言葉は、先程とは打って変わって、声も口調も異なっていた。
「そんでもって、エロジジイであり、悪事を部下になすり付けることを得意と致す。とんだクソ野郎が団長になられましたね。え?」
それはまるで別人のようで、チャーリーも後ろで控えていた部下たちも驚きを隠せなかった。
「貴様…何者だ!」
正気を取り戻したチャーリーは、ルーテシアの髪を離し、腰に付けていた拳銃を向けた。
その部下だった人は華麗に一礼し、くるっとひと回りすると、兵服がたちまち赤いタキシード姿に変わった。マントを大袈裟に靡かせ、顔にはマスク着けて、手にはステッキ。そして、シルクハットを頭から外すと、ハットの中から何かが光った。その光はたちまち大きくなり、目が開けられないほど眩しい光になった。
「私はレオ・ブラック。世紀の大泥棒さ!」
「う、撃てー!」
チャーリーは慌てて叫ぶが、控えている部下はチャーリーと同じように目が開けられず慌てふためいている。すると、チャーリーは自らの拳銃を引き、無造作に引き金を引いた。しかし、レオは既にルーテシアを抱えて、あらかじめ仕掛けていたワイヤーで、この塔の天窓から出ようとしていた。
「チャーリー団長殿。残念ですがこの囚われの姫君は攫っていきます。その光は当分消えません。失明したくなければ、今すぐこの塔から脱出した方が良いかと存じます!」
いざ脱走というときに、ルーテシアが彼の服を掴んで「止まって」と合図した。
「なんだよ、早くしないと捕まるぜ」
ルーテシアは視界がハッキリしない中、力を振り絞ってあの女性を指差した。
「シャルル・ジャエノンを」
そう言って気を失った。