story -2-2 鼻ぺちゃの馬車①
家を出て300メートル程だろうか、
「へっへっへっへっ」
隣から聞こえる不規則な息遣いが気になり目を向けると、何かを訴える様な熱い眼差しをじりじりと感じた。
「疲れたの?帰る?」
今まで何度も犬語が解ればと考えた事があるが、あの犬語が解るという胡散臭い機械を買おうと思った事は未だ嘗て無い。私と白丸はソウルで解り合っているはずだから、言葉の壁などアイコンタクトでどうにかなる・・・予定だ。
そのまま帰ろうかとも考えたが、せっかくこんなに良い天気なのにと思ってしまうのは人間の勝手な押し付けでしかないのだろう。
しゃがんで白丸の両耳を優しく触れてみても、体温が上がり過ぎている様子でも無い。
ただの甘えかと思い両足に力を込めて立ち上がろうとした。
「ちょ、ちょちょちょーっ」
気を抜いたほんの一瞬だった。
何時ものそのそと歩く事しかしないのに、急に走り出した白丸にロープごと脱走されてしまった。
そんなに私と一緒に居るのが嫌だったのだろうか。
この2年間は白丸にとっては苦痛の時間でしか無かったのだろうか。
ぐっと眉尻が下がってしまうが、そんな場合では無い。
住宅街とはいえ車も走っているし、ちゃんと注射しているとはいえ人様を噛んだりしたらとんでも無い事になってしまう。
俊敏に立ち上がり白丸が向かった方へ走り角を曲がると、白丸が憎たらしい顔をしながらこちらを見ていた。
「白丸くーん、良い子だね。そのまま・・・」
両手を広げてじりじりと距離を詰める、その距離3メートル。
「ワオッ」
それが徒競走のよーいスタートの合図だったようで、また一気に走り出してしまった。
慌ててスタートを切ると、一つ先の信号の無い交差点の向こうで白丸がこちらを向いているのがわかる。
また距離を詰めるとスルリと躱して走ってしまう。これじゃあ、どっちが散歩してもらっているのかわからない。
通勤途中のサラリーマンに変な目で見られながらも走り回って、もうとてつもない時間が過ぎた様な気がする。
このまま居なくなってしまったらと最悪なシナリオがぐるぐると頭の中を巡る。
足がもたつき、喉奥がヒューヒューと嫌な音を立てる。
不健康な大人には限界。立ち止まり肩で息をしながら白丸がいるであろう方向を見ると、付いて来いと言わんばかりにこちらを振り向いて嬉しそうに尻尾を振っていた。
棒の様になってしまった足は、もう曲がり方を忘れてしまったかのようにピクリともしない。
「ワン」
一鳴きした白丸はそのままトコトコと近くのシャッターをくぐって行ってしまった。
ちょっと、本当に勘弁して欲しい。
白丸が入って行ってしまったのは、私も以前から気になっていた所だった。
真っ黒で手触りの良さそうな壁の高さは恐らく6メートルくらいはあると思う。
永遠に続くのでは無いかと思ってしまう壁の横幅は何メートルか数えたくも無いが、何人共立ち入らせたく無いという意思が感じられる。
その風貌から、なにかの宗教団体の会合場か何かかと思っていた。
建物の唯一壁じゃ無い部分、周りと色調を合わせるために塗られた黒い塗装は新品の様に綺麗に塗られていた。今まで開いているのを一度も見た事は無いが、今開いているのは紛れも無い事実だった。
下から30センチほど開いたシャッターの先はどんな景色が広がっているのだろうか。
今まで何度も通り掛かった事のあるこの建物に、インターホンが無いのは確認済みである。
大人として、いや人として、これは不法侵入だと犯罪だと頭の中で警報がうるさく鳴っている。
だが、ファンタジー好きの私の好奇心は理性を打ち崩し、シャッターの中へと足を踏み入れてしまった。